今日も香穂子は屋上にいた。柚木に嫌われたのだ、もはや彼の忠告を守る必要もなくなってしまった。
自然と足はここに向いていた。空に近い、空気の澄んだ場所。音がよく響く。
ここにくれば、あの日のあの時間に戻れるような気もしていたのかもしれなかった。最終通告を受ける前のあの時間に。
あれは本当はなかったことで、もう少ししたらまた柚木がいつものように扉を開けて、笑顔で香穂子の音を聴いてくれるのではないか?
それがもちろん、甘っちょろい夢でしかないことはわかっていた。

――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪――

「お前さんの演奏は、例えるなら世の中に溺れて苦しみもがいてる人間に、酸素を与えてるみたいだな」
後ろから声をかけられて、香穂子は演奏の手を止めた。風が微かな音の残滓を流していく。
「酸素、ですか」
「ああ。溺れてるやつらは、それで息が出来るようになるんだ」
いやあ我ながら詩的な表現だなー、と茶化したように言う金澤の瞳はちっとも笑っていなくて。
「息をしているのは、むしろわたしなのに」
香穂子がそう言うと、金澤は一瞬目を見開いて、それからそうだなと言った。そうかもしれんな、と。
わかってもらえたらしいことに、香穂子はたまらなく安堵した。
金澤は、大人だ。香穂子よりずっとずっと。香穂子は、そんな金澤を――――金澤を? なんだろう。
ひっかかりを感じたが、気のせいだと思って流すことにした。

「苦しいか、日野」

優しく穏やかな声に、香穂子は頷いた。もしかしたら、この人は香穂子を正しく理解してくれている。
苦しいのは、本当に溺れているのは、酸素を欲しているのは、誰よりも香穂子自身だった。
香穂子にとって音が酸素であるなら、ヴァイオリンが肺だった。
だから香穂子は弾き続ける。自分が呼吸をするために、死んでしまわないために。
魔法のヴァイオリンの生み出す音は香穂子一人には多すぎるから、大量に余った酸素は空気に溶けていき、他の誰かが吸うこともあるだろうけれど。
でもそれは単なる結果であって、結局のところ香穂子のこれは、自分のエゴでしかないのだ。
それなのに、どうして周りは香穂子の意図しない賞賛を香穂子にくれるのだろう。
どう考えても、香穂子を過大評価しすぎているとしか思えなかった。
わたしはそんなに綺麗な存在じゃないのに。

だから柚木に――あの美しい人に嫌われたのだろうか。

香穂子は彼に最後に突きつけられた言葉を思い出してまた打ちのめされた。
香穂子が、彼の期待に応えられなかったのだろうか。
だから手を離されてしまったのだろうか。そう考えて、香穂子は自分の思い上がりに顔を赤くした。
なんて浅ましく、なんて図々しいんだろう。
そもそも最初から、彼は香穂子の手をひいてくれてなどいなかった。
香穂子にはそんな価値はないし、柚木にもそんなことをするメリットはどこにもない。彼は一人で完成していたのだから。
彼にとって香穂子など、少し毛色の違った玩具でしかない。少し遊んで飽きられた、それだけだ。
飽きたから、別の遊びに切り替えた、ただそれだけなのだ。
そう、柚木は香穂子を試している――それが何を試しているのかまでは、わからなかったけれど。
だから香穂子は、今度こそ彼の期待に応え、彼を楽しませなければならない。


香穂子に対する低俗で、けれど悪質な嫌がらせは、初めは密やかに、そして今では公然のように行われだしていた。
今まで香穂子が平和に高校生活を過ごしていられたのは、ひとえに柚木がうまく立ち回ってくれていたおかげだった。
その柚木が、本格的に香穂子を潰してみようと手のひらを返したのだ。小さな香穂子に太刀打ちできようはずもなかった。
そうでなくても、人の少ないところでばかり弾いていた香穂子だ。
音楽科の人間とはほとんど親しくない。柚木との人望の差は明白だった。
唯一例外なのはコンクール参加者たちだったが、彼らに励まされたところでどうなる問題でもなかった。
けれど、大勢の人間に嫌われているらしいという事実は、それほど香穂子に堪えなかった。
むしろくだらないとすら思っていた。
彼らに出来るのは、せいぜい香穂子の持ち物や身体を傷つけることぐらいで、振り上げられた悪意のナイフは、香穂子の心までは届くことがなかったから。
香穂子はめげなかったし、へこたれなかった。決して弱みを見せなかった。
顔もほとんど知らないその他大勢なんて、どうでもよかった。
香穂子にとってなによりつらかったのは、中心にいる柚木の存在だった。
柚木が自分を見ないことが、他の何よりも香穂子をぶった。

どうして。

つぶやきに答えは返らない。彼はもう、香穂子にその一瞥でさえも与えてくれない。
香穂子の目の前が、酸欠で暗くなる。もっと息をしなきゃ、苦しくないように――。
先輩が、わたしと呼吸のリズムを合わせてくれれば、上手く息が出来て楽になれるのに。
そう思うそばから、自己嫌悪がせりあがってくる。
そんなことを望むのは身の程知らずだというのに。なぜ自分は、こんなに柚木を求めてしまうのだろう。
香穂子がどこに向かえば、柚木は満足するのだろう。せめて失望されないように、香穂子は懸命に行き先を探している。
香穂子の音は香穂子の中に、香穂子の外に、柚木の中に、柚木の外に、金澤の中に、金澤の外に、月森や土浦や志水や火原や冬海や王崎の内と外に、そして世界に浸透し、また世界から広がっていく。
遙かに遠い世界。香穂子はそこへ視線を投げる。境界線は曖昧だ。
どこに行けばいいのか、まだわからない。
「柚木は、……笑っているかな」
金澤の落とした声が、ことりと香穂子の感情を閉じ込めた箱を動かす。香穂子は柚木の笑顔を思い浮かべようとした。
鮮やかに浮かび上がったのは、なぜか違う表情をした彼だった。迷子のようだ、と思った。
「日野」
目を合わせれば、金澤は全てを悟って包み込むかのような、子どもには決して出来ない大人特有の微笑で香穂子に言った。
「お前さんも迷っていたんだな」
その言葉が心臓に収まった瞬間、香穂子は、金澤の胸にしがみついていた。
どこに行けばいいのか、どれを選べばいいのか、それが正しい選択かそうでないか、その違いを教えてくれる境界線は。


――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪――


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