腕を回した身体が硬直しているのがわかったけれど、香穂子は気にせずに力を込めた。
しばらくして我に返ったのか、聞こえてきた金澤の声はかすれていた。
「……おいおいおい、お前さん、これはまずいだろ」
「いいんです」
「お前さんは生徒で、おれは教師でだな……」
「いいんです!」

――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪――


「……しょうがねぇなぁ。出血大サービスで、今だけだぞ?」
「ありがとう」
ございます、と続く言葉は小さくなって金澤のシャツの中に溶けてしまった。
呆れられているかもしれない。
そう思って、もうすでに呆れられているのだとしたら、もっと呆れられるようなことも言えた。
「わたし、強くなんてないですよ」
「そうだな」
大きな男の人の手で、頭を柔らかく撫でられて、つめていた息をほぅと吐き出した。それと一緒に心の中に溜まっていたものも。
香穂子だって、他の人となんら変わりはないのに。ただ、ヴァイオリンがあるだけで。
「痛いし、つらいし、苦しいです」
「そうだな」
「嫌がらせはあんまり気にしないけど、むかつかないわけじゃないし」
「そうだな」
「泣かないけど、本当は、泣きたくなったり、も……します」
「そうだな」
一拍おいて、まるでため息のように紡ぎだされた言葉が金澤から伝わった。
「――――でも、それを柚木はわかっていないんだろうな」
「柚木先輩は」
ぎゅ、と香穂子の細い指が白衣を掴む。金澤は香穂子が顔を上げて何か言おうとするのをやんわりと制した。
「まあ聞け。あいつはお前さんが泣かないと思ってる。だから泣かしてやりたいんだろうさ」
意味がわからなかった。
「どうして」
「んなもん俺が答えてどうする。柚木に答えさせろ」
「先輩は、きっと答えてくれません」
どうして。頭の中でその言葉だけが空回る。どうして、どうして。
一度拒否されてしまっているのだから。香穂子の声は柚木には届かないのだから。
「ああ――――まあ、そうだろうなぁ……」
金澤は香穂子の頭をよしよしと撫でた。
「子ども扱いしないでください」
「おれからすりゃお前さんは十分子どもだよ。ま、あきらめるこった。どんなにがんばったとこで歳の差は縮まらないからなー」
金澤の声は明るかったが、痛みをこらえるかのような寂しさを内包していた。
「子どもなんだよ、お前さんも、柚木もさ。表現の仕方が傍から見ててもどかしいのさ」
「よく、わかりません」
香穂子がそう言うと、金澤はやっぱり、痛みをこらえるように笑った。
その顔があまりに痛そうだったから、香穂子は今この場で、彼の痛みを和らげてあげることができたらいいのにと強く願ってしまった。どうか。
「これは、おれなりの見解だからまあ、聞いた後は適当に流してくれ」
「……はい」
神妙に頷く香穂子に金澤はいい子だ、と言って、
「柚木は0か100かなんだな、パーセンテージがさ。いらないもんには目もくれないが、本当に欲しいものは全部自分のものでないと気がすまないタチなんだろうよ」
「はい」
「で、だ。それって結局さ、子どもっぽい独占欲なわけ。大人のおれからすると」
「自分が大人だと思って……」
「ん、大人だろ? なんせこちとらお前さんたちの倍ぐらい生きてるからな」
「そうですけど」
「だろ。あー、どこまでいったんだっけ。あ、そうそう。だからだな、中途半端にしか自分のにならないとわかったものは、どうせなら他のやつのものにもならないように壊してしまえってことなんだよ」
「自分は手に入れられないけど、他の人には渡したくない……?」
「たぶんな。もしくは……おれはこっちのセンもかなり濃いと睨んでるんだが、壊されたくなかったら自分だけを見ろ――ってことなのかもしれんがね」
「まさか」
つまり、金澤は。柚木が香穂子を欲しい、手に入れたいと思っていると言うのか。
柚木が試していたのは、香穂子が泣いて柚木のものになると誓うかどうかだったと、そう?
そんなこと、香穂子には俄かには信じられなかった。
「それは違うと思う……」
「言ったろ、おれの個人的な見解だって。違うかどうかは柚木に訊けよ」
香穂子は淋しかった。
「だって、会えないのに」
そうだ、もし金澤の言ったことが正解でもそうでなくても、柚木に憎まれていたとしても、香穂子は柚木に会えなくて淋しかった。
「会えるさ。同じ学校にいるんだぜ?」
「もう届かないのに」
「届くって。お前さんが弾けば、どこにでも届く」
「拒まれても?」
「拒めやしないさ。実際凄いぜ、お前さんの音の、押し流されて飲み込まれる威力、ってヤツ」
「わたしの音だって、わからないかもしれない」
「お前さんの音は、どこにいてもわかる」
限界が近づいていた。
今やコップのふちぎりぎりまで達した水のように、音は、香穂子の感情は、溢れる寸前だった。
会いたい、と切望した。
香穂子の音が世界の果てにも届くというなら、一番届いて欲しい人がいる場所は、そんなに遠くはないのだから。届くはずだ。
笑われても失望されても蔑まれてもいい。もう、いい。
ただ会いたいのだ。
金澤は、白衣をにぎったままの香穂子の指を柔らかくほどくように離し、二人の距離を元の教師と生徒に戻した。
今だけ、は、もうおしまい。
「……せんせい」
「ん?」
「ありがとうございます」
今度ははっきりと言った香穂子は、金澤が表情の裏に隠していたものを知らなかった。


――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪――


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