たった今香穂子が決別してきた後ろ――屋上のほうから、悲鳴が上がった気がした。

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金澤は過去、星奏学院のコンクールに出たことがあった。そのときは金澤にも、ファータが見えた。
コンクールが終わると同時に、それらは金澤の前から姿を消した。二度と見えなくなった。その、はずだ。
ならなぜ、――――リリが目の前にいるのだ。
『金澤紘人!』
「……?」
信じられないものを見る表情で金澤は、ここに自分のほかに誰もいなくてよかったと心底思った。
『日野香穂子が』
「日野が、どうかしたのか」
嫌な胸騒ぎがした。日野の身に何かが起こっているとしたら、それは間違いなく、良いことではない。
『お願いなのだ。日野香穂子を、助けてあげて欲しいのだ!』
「なにがあった?」
思いのほか鋭くなった声音で詰問すると、妖精は小さな涙をぽとぽととこぼした。
『音楽科校舎の裏に――』
それだけ聞くと、金澤は白衣を翻して駆け出した。




音楽科校舎は、別名桜館とも呼ばれている。その校舎の裏には、名前のとおりに桜の木が植えてあった。
すっかり葉桜になった緑の木々の間に、制服が見えた。周りには誰もいない。
そもそも、花弁降りしきるころはまだしも、わざわざこんなところまで来る人間はまれだ。
金澤が見つけた香穂子は、たったひとり、うつろな瞳で地面に横たわっていた。
それを認識した瞬間、金澤の心は氷を飲まされたようにぞっと冷えた。
まさか、落ちたのか。屋上から?
それは、痛々しいことこの上ない光景だった。
我を忘れてそばまで駆け寄ると、香穂子は微かに唇をふるわせた。
意識のあるらしいことに、金澤はひとまず安堵した。かけがえのない少女を、まだ失わずにすんだのだ。
「せ、んせ?」
「しゃべるな! すぐに救急車を――」
「ねぇ……せんせ……、ヴァイオリンは……ヴァイオリンは、壊れてない?」
香穂子の傍らを見ると、弦の全て切れたヴァイオリンが、そこにはあった。
どうやら香穂子からは死角になっていてわからないらしい。
ただ屋上から落ちたにしては、その弦はありえない切れ方をしている。
咄嗟に金澤は嘘をついていた。
「ああ、大丈夫だ、だからお前さんはもうしゃべるな」
「よかっ……た」
声は吐息のように弱弱しく、香穂子は今にも気絶しそうに見えた。
「くそっ……」
金澤は忌々しげにそう吐き捨てて、香穂子の身体を丁寧に抱き上げた。
このまま保健室まで運ぶ。一度戻って救急車を呼ぶより、そのほうが速いだろうと判断してのことだった。
腕の中の香穂子の身体は力を失っている。
その左足首の辺りが、不自然な部分で曲がっていた。金澤が歩くのにあわせて、そこから先が足首と一緒にゆれる。
「……っ」
そのたびに、おそらくは朦朧としているはずの意識の中から悲痛な声が上がった。
けれど金澤は、添え木になるようなものを持っていない。どうしようもなかった。
ほんの少し痛みを和らげてやることも出来ない。
「すまん、少し我慢してくれ……!」
細心の注意を払ってなるべく揺らさないようにしながら、香穂子を抱えて金澤は歩いた。
目をつぶってぐったりしている香穂子を、これほど怖いと思ったことはない。もし――このまま消えてしまったら。
そんなことは耐えられなかった。
金澤は喪失の恐怖に怯える自分の心臓をなだめることができないまま、とにかくこの温かな身体を失うことのないよう苦しいほどに願い、苦しいと狂おしいは同じ意味を持つのだと思った。
「なっ……ど、どうしたの香穂子ちゃん!」
校舎に向かう途中でかけられた声は火原のものだった。見れば、その手にはトランペットと鞄。
練習中だったのだろう、なにせ最終セレクションを控えている。
ここで会えたのは金澤にとって幸運だったといえた。
「金やん、ねぇ!」
顔面を蒼白にしながら、何が起きたのか訊ねてくる火原に、金澤は言った。
自分がどんな表情で、どんな剣幕なのかを考える余裕もない。
「火原! お前さん、携帯持ってたよな」
「え、う、うん」
「救急車呼べ。頼む」
尋常でないことを悟ったのだろう、火原は鞄から携帯電話を取り出すと、すぐさま119番を押した。


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