相手を避けるためには、相手の位置を正しく把握していなければならない。
だから柚木は、香穂子を突き放したあの日から、変わらず彼女の音の在り処を意識の隅においていた。
その音の生まれ出ずるところを見極め、そしてその場所から少しでも遠ざかった。
柚木が拒絶の意思を伝えてからの、最近の日々のほうが、香穂子の音ははっきりと柚木に向かい始めていた。
彼女がヴァイオリンを弾いていないときでさえ、彼女の残した音の欠片は常に柚木を取り巻いており、
それがどの方向から来たものであるのか見極めるのは容易かった。
それはつまり、柚木には彼女がどこにいるかすぐにわかっていたということだ。
なのに。
その朝は、学び舎のどこからも、柚木に語りかける音の存在を感じ取ることが出来なかった。
とげがじくりと疼く。
何が起こっているのか、自分でもよくわからない。
教室に入ってすぐ、慌てた様子の火原が柚木の前に飛び出してきて、初めて柚木はそれを知った。

――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪――


「ねぇ柚木、昨日香穂子ちゃんが……屋上から、落ちたんだ」

瞬間、柚木は呼吸を忘れた。
咄嗟に言葉が出なかった。言われた内容を理解するまで時間がかかった。
なんだって? 火原は今、何を。
今まで学院におけるすべてが柚木の思い通りに動いており、これからもそうであるはずだった。
それなのに、香穂子が現れた。異端分子、唯一柚木が思い通りに出来ないもの。
その存在を身体の内に取り込んでしまったために、すでに柚木自身も変わってしまっていたのだった。
柚木は、それによって生じた歯車の微妙な狂いに気づいていなかった。
ごくごくわずかな歪みが、多くのものを捻じ曲げてしまったことに。
柚木の作った王国には、あちこちにほころびができ、柚木の意図に反した行動を起こすものが出始めた。
暴走、と言ってもいい。柚木は自分の影響力の計算を間違えた。
そして周囲は暴走した。考えていなかった結果をもたらしてしまった。
「日野さんが」
ようやく声を絞り出した柚木を、火原は単にショックを受けたせいだと思っただろう。しかし事実は、そんな単純なものではなかった。
「彼女は……大丈夫なの?」
「幸い、命に別状はないって。――でも」
足を折った、と火原は告げた。
「昨日の放課後、屋上で練習してて、飛んだ楽譜を取ろうとして落ちちゃったんだって」
それがおそらくは香穂子の嘘であることを、柚木は知っていた。
「びっくりしたよ。金やんがさ、こう、ぐったりした香穂子ちゃんを抱きかかえてるのに遭遇してさ。すぐ救急車呼んで、心配だったから一緒に付き添ったんだけど」
火原は昨日のことを思い出したのか、そこでいったん言葉を止め、
「あんな取り乱した金やん、初めて見た」

そのとき柚木は、自分の中にあった感情を、強く、強く意識した。


――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪――


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