香穂子の怪我はかなりの高さから落ちたにもかかわらず、左足の骨折だけですんだ。
上半身には傷ひとつなく、それどころか、身体が地面に叩きつけられた形跡すら見つけられなかった。
制服は泥で汚れていたが、それだけだ。気を失ったのは、骨折の痛みからだったらしい。
屋上の高さを考えれば、奇跡としか言いようがない。

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金澤は病院の廊下で一息ついていた。その横には、心配そうな顔で火原がおろおろと立っている。
その様子を見て、金澤は無理もないだろうと思った。
なにせ、扉の向こうからは時折香穂子の痛そうな悲鳴が聞こえてくるのだから。
香穂子は今、処置室の中で足の手当てをしてもらっていた。
折れた足に添え木をし包帯を巻くのは、どうやらかなりの苦痛を伴うものらしかった。
それでも彼女は、懸命に痛みをこらえようとしているのだと思う。いつだってそうだったから。
だからこそこのような結果をもたらしてしまったのだということに、金澤は気づいていた。
香穂子がおそらくもう少し弱かったなら、柚木も彼女をここまで追いつめなかっただろうし、周りだって攻撃の手をゆるめただろう。
香穂子が彼らの前で涙を見せれば、それで彼らは満足したはずだったのだ。
けれど香穂子は彼らの要求を無視し、従わなかった。
彼らは自分たちを脅かす未知の者を恐れ、その恐れは憎しみへと変わり、止めるタイミングを失ってしまった憎しみは勢いを増す。
そして攻撃はエスカレートしていった。
全てが悪い方に作用してしまった。
金澤は、煙草の吸えない咥内を舌でまさぐった。落ち着かないのは、金澤も同じだ。
永遠とも思える時間――実際には数分だっただろうが――が過ぎ、やがて扉が開いた。
片手で松葉杖をついた香穂子が苦笑しながら出てきたのを見たとき、金澤はやっと実感した。
消えなくて――――良かった。
「香穂子ちゃんっ、大丈夫!?」
「火原先輩」
足取りはややおぼつかないものの、香穂子の意識はしっかりしているように見受けられた。
強がるように笑ってみせる香穂子は、自分では気づいていないだろう。その表情が、どれだけ見るものに痛ましい印象を与えるか。
「大丈夫です。ただ、今日1日は入院しないと駄目だって」
「にゅ、入院!? それ、全然大丈夫じゃないよ!」
「大丈夫ですよ。足以外はどこも怪我してないですし」
ちょうどそのとき、女性看護士がやってきた。
ここが病院であることにいまさら気づいて、金澤は白衣を脱いだ方がいいような気がした。
さすがに医者に間違われるようなことはないだろうが、なんとなく居心地が悪いのは確かだ。
「病室にご案内しますので」
そう言うと、看護士は香穂子をいたわりながらゆっくりと先導していく。金澤と火原がその後に続いた。
白いシーツ、白いカーテン、白いベッド。
たまたまあいていたのか、それとも香穂子が若い女性であることが考慮されたのか、案内された先は個室だった。
「汚れているし、服は脱いだ方がいいわね」
「え」
「あ、じゃあ男の人はしばらくの間病室から出ていただきましょう」
そういうわけで、金澤たちは追い出された。
異議を唱えられるはずもなく、おとなしく廊下で待つしかない。
少したって、香穂子を寝かせる手助けを終えたのか、看護士がドアを開けて出てきた。
「あとで先生が見えますので。患者さんにも伝えましたが、何かあったらナースコールを鳴らしてくださいね」
彼女は優しくそう言うと、金澤にお辞儀をして行ってしまった。
中には、やはり白い病院服に着替えた香穂子がベッドにその小さな身体を収めて横たわっていた。
金澤の目には、ひどく儚く映るその姿。
部屋へ入ってきた男二人に、香穂子は礼を述べた。
「先生、ありがとうございました」
「いや、なに」
「火原先輩も、ありがとうございました。セレクションもうすぐなのに、練習の邪魔をしてしまってごめんなさい」
「い、いいよ! 気にすることなんかないって、こっちのがずっと大事だもん」
こっち、とはおそらく香穂子のことを指すのだろう。金澤は苦く笑って、火原の頭に手を置いた。
「さて、お前さんはそろそろ帰れ」
「え? 金やんは?」
「おれは学校と日野の親御さんに連絡いれなきゃならんの。教師として責任があんだよ。お前さんと違ってな」
火原は小さな子供のように頬を膨らませた。
「その言い方なんかやな感じ」
「そりゃ邪推ってもんだ。さ、いい生徒はおうちに帰んなさい」
「なんか釈然としないけど……まぁいいや。じゃあね日野ちゃん、こんどお見舞いに来るよ!」
「先輩、入院は1日ですよ? 明日退院しちゃいます」
「あ、そっか……。えっ……とじゃあ、学校でね!」
「はい」
手を振る火原をくすくすと見送り、彼の姿が病室の外に消えたとたん、タイミングを計ったように香穂子は目を伏せた。
「日野」
金澤が声をかけると、のろのろと目を上げたものの、視線をあわせようとはしない。
そのことに少し傷つきながら、かまわず金澤は言葉を続ける。
「何があった」
「さっき言いました。風に飛ばされた楽譜を取ろうとして、足を滑らせたんです」
「ヴァイオリンを持ったままでか」
「……っ」
「素直な火原は騙せても、生憎とおれはひねくれもんだ。はいそうですかと納得できるほどお人よしじゃないんだよ」
香穂子はふいと顔を背けた。
「……言いたくありません」
「なぜだ?」
「そんなの、先生に関係……!」
「あるさ。さっきも言ったろう、おれは教師として、生徒になにがあったか、きちんと知っていなくちゃいけない」
そんなものが建前にしか過ぎないことを、金澤ははっきりと自覚していた。自分はただ、香穂子自身のことを知りたいだけだ。
ぶつけて欲しい、金澤を信用して欲しい、嫌な感情でもかまわない。吐露して欲しかった。
どこかで適度に空気を抜かないと駄目だ。膨れ上がったものは、必ず周りを押しつぶす。
そうなれば周りは、香穂子を怖れて何をしでかすかわからない。
これ以上何かが起こる前に、なんとしても金澤はそれを止めなければならない。
心がつぶれるようなあんなに恐ろしい思いは、もう二度と御免だ。


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