黒い車は、柚木を外界から隔離して学校へと運ぶ。
火原に香穂子が怪我をしたと聞かされてからずっと、考えが上手くまとまらない。
とげに与えられる不快な痛みで、肌の内側に血膿が溜まっている様な気がした。
否定したい感情が、否定が不可能なほど強烈に心を蝕んで、けれどどうしても認められなかった。
認めてしまったら崩れることが、柚木にはわかっていた。
気づくことと、認めることは全く別なのだ。

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教室に入ると火原の姿は無かったが、彼が遅刻ぎりぎりの時間に来るのはいつものことだったし、特に気に留めるようなことでもない。
香穂子の音は、今日も聴こえない。おそらく学校を休んでいるのだろうと思った。
いらいら、する。
香穂子の音が聞こえないことに。
自分が巧妙に隠しているその苛立ちに、露ほども気づかない周囲の人間たちに。
そして、香穂子ごときに、本気を出してしまった自分自身に。
もっと、いくらでもやり方はあったはずだ。単に香穂子を叩きのめしたいだけだったら、他にもうまい方法が。
どんな結果を望んでいたのかと訊かれれば明確な答えは出てこなかったが、少なくとも今のこの状態は、柚木の欲していたものではなかった。それだけは言えた。
俺は何が欲しかったんだろう、と柚木は思った。
時計の針がかちりと進む音と、火原が駆け込んできたのはほぼ同時だった。
「ま、間に合った!」
全力疾走後の息を切らせながら安堵の笑顔を浮かべる火原に、柚木は言った。
「そうだね。先生は今日HRに遅れるそうだよ」
「え、なんだー……走って損したよ」
「今日はどうしたの?」
おおかた寝坊か、忘れ物を取りに戻ったか、そんなところだろうと思って何の気なしに訊ねた柚木は、火原の答えにふいうちをくらう形になった。
「香穂子ちゃんが足を怪我しただろ? 松葉杖じゃ荷物とか持って学校くるの大変じゃん。だから学校までは車椅子で、学校の中は杖で移動ってことになってさ。一人じゃ無理だから、おれ送り迎えしようかって言ったんだよ」
「日野さん、来てるの……?」
「え、うん。今教室までついてったとこ。偉いよね、コンクールまで出来るだけ休みたくないんだってさ。あんな痛そうなのに……おれも見習わなきゃな」
火原のいつもと違う、どこか愁いを含んだ表情を、柚木はもう見ていなかった。
――――香穂子が来ている。
ではなぜ、音は。
あれだけ柚木を取り巻いていた旋律の溶けた空気は、なぜ柚木の肺に流れ込んでこないのだ。
柚木は息苦しさを感じ、タイを少し緩めようかと喉元に手を当てた。




音楽科棟は普通科生徒には居心地が悪いだろうが、それは音楽科生徒にとっての普通科棟も同じことだ。
柚木は、2−2の教室にくるまでにいらぬ体力を使ったことに内心いらだっていた。
誰もが柚木を――学院の有名人、音楽科の貴公子と噂される柚木様を――振り返っては、頬を染めたり友人と騒いだりと忙しい。
そのたびに柚木は、苛立ちを完璧に押し隠して優雅な微笑をふりまかなければならないのだ。
普段ならたいした苦にもならず、当たり前のようにやってのけられるこの程度のことを、今の柚木はひどく億劫に感じた。
ようやく目的の教室についたころには、かぶっていた猫の内側は吐いた悪態だらけになってしまっていた。
それでも猫の毛皮は綺麗なままで、ドア付近にいた一人の女生徒に話しかける。
「悪いんだけれど、日野さんを呼んでもらえるかな?」
柚木が伏目がちにそう言うと、頼まれた少女は真っ赤になってすぐさま香穂子を呼びにいった。
教室の中に目をやると、香穂子は窓際の席で楽譜を眺めていた。
その左足には、紺の靴下ではなく白い包帯が巻いてあり、かなりアンバランスな印象を受ける。
机に近寄って柚木のことを伝える少女に顔を上げると、香穂子は傍らに立てかけてあった松葉杖をとり、椅子から腰を上げた。
ただそれだけの動作に、柚木は息を呑んだ。
けれど柚木には、その小さな肩を支えてもいいかどうかわからない。
「なんの、御用ですか」
香穂子の声は硬い。警戒しているのだろうか。無理もないな、と思う。
「ここではちょっと……個人的な、話なんだ」
聞き耳を立てている品の無い野次馬連中がざわめいたのがわかったが、気にしていられるか。
柚木は控えめに笑った。
「どこか二人きりになれるところで話したいんだけど。駄目……かな?」
「駄目っていうか……わたし、今あまり歩けないので、遠いところはちょっと無理です」
「じゃあ――そうだな、音楽準備室なら?」
「かまいません」
自分たち二人が去った後、おそらく教室では皆が好き勝手に面白おかしく騒ぎ立てるだろう。
容易に想像が出来たが、もう構うものかという気がしていた。
騒ぎたけりゃ勝手に騒げ、きっと想像は想像の域を越えず、事実には決して手が届かない。
柚木は香穂子に合わせて歩調をゆるめながら、その横顔を盗み見る。
特に焦燥しているというわけでもない。もっと傷ついた、怯えた顔をするかとも思ったのに、そうでもない。
いうなれば、そう……香穂子は、『日野香穂子』の顔をしていた。
けれどやはり、隣を歩いているというのに、一昨日までは確かに聴こえたはずのきらきらした音は、一粒も流れてはこなかった。


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