病室の中に沈黙が立ち込める。金澤は辛抱強く香穂子を見つめていた。 項垂れた香穂子の、その小さな肩を抱きたい。 「なあ、日野」 出来ないから、せめて言葉だけでも優しく抱くように、そっと。 ――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪―― 逡巡の後、ようやく香穂子はか細い声で言った。 「……ヴァイオリンを、壊されそうになって」 金澤は急かさずに、ただ続きを待つ。 「屋上から捨てられるヴァイオリンを、気づいたら――追ってました」 だから飛び降りたというのか。 自分を省みずに、ヴァイオリンを護ろうと、ただそれだけのために、一歩間違えば死ぬかもしれない危険に身をさらしたのか。 金澤だって、その可能性を考えなかったわけではなかった。ひょっとしたらそうではないかと思ってもいた。 だが、はっきり香穂子の口からそれを聞いてしまった今、金澤の心にはっきりと像を結んだのは、怒りの感情だった。 「お前さんは馬鹿だ」 だから、強い口調でそう言った。 「……っ」 香穂子が目を見開いても、金澤に同情心は浮かんでこない。 そんなことのために。 たかがヴァイオリン――――そう、どんなに貴重な魔法がかかっているか知らないが、たかがヴァイオリンだ。 人の命と引き換えになるようなものでは絶対にない。 そんな、たかが魔法のヴァイオリンのために、金澤から愛しいものを奪おうとした香穂子自身に、金澤は怒りを抑えられなかった。 ヴァイオリンなんて、香穂子と比べることも出来ない。 そんなもののために、なぜ香穂子が犠牲にならなければならない? そんなもののために、なぜ金澤が香穂子を失わねばならない? そしてなぜ、香穂子にはそれがどんなに理不尽であるかわからないのだ。 激情のまま金澤は怒鳴った。 「馬鹿だ! お前さんが死んだらなんにもならんだろう! たまたまこのぐらいで済んだから良かったようなものの、取り返しのつかないことになるかもしれなかったんだぞ!」 金澤の剣幕に怯えたのか、香穂子の瞳が揺れた。 「でも……でも、あのヴァイオリンが無かったら、わたしは弾けなくなっちゃう……っ」 金澤は香穂子の両肩を掴み、その目を覗き込む。そらすことは許さない。 「魔法が無くても、お前さんは弾ける」 「無、理……です」 「ヴァイオリンより、お前さんが……日野香穂子が。日野香穂子であることが、大事なんだ」 「……せ、んせ」 もう金澤にははっきりとわかっていた。 全ての元凶は、柚木でも彼の取り巻き連中でもない。ましてや香穂子自身では決してない。 あの魔法のヴァイオリン、それこそがこの事態の中心にある。全部がそれに繋がっている。 音楽の妖精がいて……ひいては神様なんてものがいるとしたら、なんて残酷なことをするのだろう。 年端もいかない少女に、なんて重いものを背負わせたのだろう。 彼らは――――なんて、なんて美しく傲慢なのだろう。 「日野」 金澤は香穂子にわからせなくてはいけない。 「日野。あのヴァイオリンは」 ありえない弦の切れ方をしていたあのヴァイオリン。 「あのヴァイオリンは、壊れたんだ」 音が無くなった。まるで真空状態になったように、息すら止めて。 ようやく聞こえた声は、そうでなかったら聞き逃していただろう。 「……うそ」 呆然と、彼女は呟いた。 「嘘じゃない」 金澤は言い含める。口に入って呑み込めるまで、何度だって教えてやる。 「うそ、だって先生、さっきヴァイオリンは無事だって……!」 「それが嘘だ。ヴァイオリンは壊れてた。弦が全部切れて、がらくたみたいにお前の横に転がってた」 「やめて……!!」 耳をふさごうとするその手を無理やり掴んで、金澤はやめなかった。 「聞け、日野! あのヴァイオリンはお前を助けたんだ! わかるか、ヴァイオリンは、お前を、助けたんだ! お前が壊れることよりも、自分が壊れることを選んだんだ!」 言葉に出した今、金澤はそれをはっきりと確信した。 そうだ、奇跡は、本当に奇跡だった。 そして魔法の力を使い果たしたヴァイオリンは……壊れた。 香穂子は見開いた目を瞬きもせずに、腕をつかまれたまま、浴びせられる金澤の声を受け止めている。 「本当に価値があるのは、ヴァイオリンじゃない、それを弾く人間なんだ」 「うそ……」 「嘘じゃない」 金澤はさっきと同じ言葉をもう一度繰り返した。 「そんな、だって、……だって、わたしは……」 「大事なのは、ヴァイオリンじゃなくて、日野香穂子なんだよ」 「わたし……」 それ以上何か言うのを許さず、金澤は香穂子の口を塞いだ。 呑み込めるまで、何度だって。金澤がヴァイオリンではなく、どれだけ香穂子自身を想っているか。 開かれた唇の間に舌を差しこみ、歯列をたどって、探り当てた熱く柔らかい部分を絡めとる。 ん、とくぐもった震えが伝わって、金澤はその甘さにぞくりとした。 頭の隅では何をやっているんだという思いはあった。 自分は教師で、相手は生徒なのに。 けれど止められないのが、恋というものだ。 ――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪―― NEXT BACK |