音楽準備室は、そのまま落ち着いた音楽の匂いがする。
いくばくかの埃と、楽譜と、楽器と、光と、音の混じりあった匂い。
柚木は松葉杖の香穂子にドアを開けてやってから、自分も中に入り鍵を閉めた。
香穂子がわずかに緊張したように見えて、柚木の胸に泥が積もる。
自分が香穂子にしてしまったことを思えば、彼女が警戒するのも無理はないし、それで柚木が不快になるほうがおかしいのだとはわかっている。
けれど胸がむかついて仕方が無い。
自分は何を言おうとしているんだろう――――。
何かを言いたかったはずなのに、だからわざわざ香穂子に会いにきたというのに、いざこうして二人きりになってみると、何から話そうと思っていたのか忘れてしまった。
それとも、感情に言葉がついてこない、と言ったほうがいいか。
閉め切った部屋は窮屈で、開放的な屋上とはまったく違う。それは、箱に似ていた。窮屈な、箱。
空気がこもって窒息しそうだ。
息をするために、柚木は声を出した。

――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪――


「……悪かった」
「先輩が何に対して謝ってるのかわからない」
「その足、どうせあいつらがやったんだろ」
「それなら、先輩が謝る必要ありません。わたしに謝るべきは彼女たちであって、先輩じゃない」
香穂子の澄んだ瞳とぶつかる。
そこに浮かんだ悲しそうな色は見る間に滲んで、涙になってこぼれた。
「先輩は、なんにもわかってない……」
「香穂子」
「どうして、言ってくれないの。先輩が自分で殺してくれればよかったのに。そしたら、こんなに苦しまずに死ねた」
頬を伝い、あごを伝ってぽたりと床に水滴が落ちる。これは血だ。
「わたしが邪魔なら、そう言って欲しかった。婚約者がいるってこと、あんな人たちからじゃなくて、ちゃんと先輩の口から聞きたかった」
ぱっくりと開いた傷口の赤さを、柚木は見た気がした。
「でも、先輩はそれすらしてくれなかった」
したたり落ちる幻の血のしずくは、香穂子の足元を飾って、鮮やかな花のようだった。
「先輩は、自分の手がわたしの返り血でほんの少し汚れるのでさえ嫌なんでしょ? わたしの気持ちは、先輩の手にかかって死ぬことも出来ないほど、先輩にとって価値の無いものだった」
「違う、俺は!」
香穂子の傷は、誤解によって生じたものだ。
柚木には将来の決まった相手などいなかった。
祖母に謀られてその候補たちとの見合いのような席に不本意ながら参加させられることはあっても、柚木はうまくかわしていたし、なにより素直に家のいいなりになるのは御免だった。
だから香穂子の聞いたことは、事実にその何倍もの大きな尾ひれのついた噂でしかない。
香穂子は、泣きながらいやいやと子どものように首を振った。
「そうじゃない、香穂子、俺は――――」
「だから……もう……」
ぐいと腕を引っ張っていた。からん。松葉杖が倒れて、床に転がる。同様に香穂子も。
「っあぁっ!!」
香穂子が痛みに短く悲鳴を上げた。柚木は香穂子に圧し掛かり、床に縫い止めていた。
「俺のものになれよ」
「……っ?」
驚いて見上げてくる香穂子の瞳は潤んでいる。そこに映った自分の顔は、ひどい表情だった。
「ど、うして」
「俺が欲しいから」
「どうして」
「知るか」
柚木は噛み付くように唇を重ねた。
容赦などしてやるつもりはない。二人の長い髪の毛が水草のように絡み合う。
床に押さえつけた腕が柚木の指をはねのけようともがくのを感じながら、より力を込めた。
殻が剥がれてゆくのを感じる。
認めてしまったから、もう後にはひけないのだ。
「……香穂子」
返事は無い。
痛みと酸欠で半ば気を失いかけているのか、香穂子は力なく床に身を任せていた。
何度も問いかけられた言葉を、今度は柚木が呟く。
「どうして」
柚木は最後まで掴む指をゆるめることが出来ず、香穂子の手首にはくっきりと痣が出来ていた。
それが、お前の答えか。


――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪――


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