音楽準備室は、そのまま落ち着いた音楽の匂いがする。
いくばくかの埃と、楽譜と、楽器と、光と、音の混じりあった匂い。
片手が杖でふさがっている香穂子に、柚木がドアを開けてくれた。
かちゃり、と微かな音がして、思わず身体が強張った。
どうして今更柚木が自分に会いに来るのか、可能性の高いのは忠告か牽制か、どちらにしろ決定的な何かを直接柚木から与えてもらえるなら、それは香穂子にとって歓迎すべきことのはずだった。
ようやく楽になれるのだから。
それなのに、心は悲鳴を上げている。
会いたかった、ずっと会いたかったはずなのに、いざこうして二人きりになってみると、自分の感情が把握できない。
それとも、感情を言い表す言葉など最初から存在しないのかもしれない。
閉め切った部屋は窮屈で、開放的な屋上とはまったく違う。それは、箱に似ていた。窮屈な、箱。
空が見えない。
俯いた目には、白い包帯しか映らない。

――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪――


「……悪かった」
「先輩が何に対して謝ってるのかわからない」
「その足、どうせあいつらがやったんだろ」
「それなら、先輩が謝る必要ありません。わたしに謝るべきは彼女たちであって、先輩じゃない」
謝って欲しかったわけではないのだ。そんな言葉を聴きたかったわけではないのだ。
香穂子は絶望した。
「先輩は、なんにもわかってない……」
「香穂子」
「どうして、言ってくれないの。先輩が自分で殺してくれればよかったのに。そしたら、こんなに苦しまずに死ねた」
頬を伝い、あごを伝ってぽたりと床に水滴が落ちる。金澤の声が蘇る。
「わたしが邪魔なら、そう言って欲しかった。婚約者がいるってこと、あんな人たちからじゃなくて、ちゃんと先輩の口から聞きたかった」
――――あいつはお前さんが泣かないと思ってる。だから泣かしてやりたいんだろうさ。
「でも、先輩はそれすらしてくれなかった」
わたしはいつだって泣いてた、ヴァイオリンを通して。世界に向かって、そしてきっと、世界に取り巻かれている先輩に向かって。
「先輩は、自分の手がわたしの返り血でほんの少し汚れるのでさえ嫌なんでしょ? わたしの気持ちは、先輩の手にかかって死ぬことも出来ないほど、先輩にとって価値の無いものだった」
「違う、俺は!」
音楽のほかには何もいらないと思っていた。でもそんなものはまやかしだった。
人は植物ではないから、妖精でもないから、呼吸だけでは生きていけない。
空に、風に溶けるのは音楽、音楽は香穂子の息吹ではあるかもしれないが、香穂子を構成する全てではなく、香穂子は生身の人間だ。
だから香穂子は柚木を好きになった。音楽ではなく人間として、この美しい人に愛されたかった。
でも、もう駄目だ、と思った。
香穂子は、泣きながらいやいやと子どものように首を振った。
「そうじゃない、香穂子、俺は――――」
「だから……もう……」
さよならを言うつもりだったのに、腕を引かれてバランスを崩した。からん。松葉杖が倒れて、床に転がる。同様に香穂子も。
「っあぁっ!!」
一瞬気が遠くなりかけて、次に視界が開けたときには、すぐ上に柚木の顔があった。
「俺のものになれよ」
「……っ?」
香穂子は混乱していた。
自分の身に何が起こっているのかわからず、激痛にくらくらする。見上げた柚木の顔は、こんな状況でもやはりとても綺麗だ。
「ど、うして」
「俺が欲しいから」
「どうして」
「知るか」
降ってきたキスは噛み付くようだった。
手首がぎりぎりと締め上げられる。足よりも、そっちのほうが痛くて、ただ痛くて、香穂子は逃れようともがいた。
金澤のキスのほうが、ずっと優しかったのに。気持ちよかったのに。
なのに、香穂子はこの痛みを否定できない。
そんな自分が嫌で、許せなかった。
霞んでいく意識の中で、香穂子はごめんなさい、と呟いた。
「……香穂子」
自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。なぜそんなに哀しそうなんだろう。
傷つけたくない人を、香穂子が傷つける。
「どうして」
どうして――――どうしてだろう。
答えを出していなかったのは、金澤でも柚木でもない、香穂子自身だったのに。


――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪――


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