好きになるのに理由なんて要らないとよく言うけれど、香穂子が金澤を好きになったのは 空気を吸い水を飲むように自然なことで、そうなるのをまったく疑問に思ったことも無かった。 だから言われてはじめて気づいたのだった。 この恋が特殊なもの――世間では茨の道、と囁かれる類のものであるということに。 ――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪―― 「まずいんじゃないか、お前」 「何がですか?」 そのころの香穂子は柚木の厚意に甘えている状態だった。 ヴァイオリンが大事で―― 一度別れを経験したから、なおさら――大切に扱いたくて、「運ぶのが大変だろう、車で送ってやろうか」との柚木の申し出はもっともだと思ったし、有難いとも思ったのだ。 そう、柚木は優しい。 『本性』とやらを香穂子にあらわしてからこっち、口調こそぶっきらぼうになったが、言っていることは変わらず気遣いに満ちていた。 だから香穂子は、柚木のことをすんなりと受け入れてしまっていた。 「自分でわかっていないのか? ますますもってまずいぞ、それは」 「だから何がですか」 車の中で、ガラス越し(柚木曰く、防音ガラスらしい)の前の席に座る運転手を除けば二人きりの空間、柚木は隣の香穂子を見てやれやれ、とためいきをついた。 若干芝居がかったその仕草は、けれど柚木がやればとてもさまになる。 香穂子は綺麗だなと感動して、彼の言葉をちゃんと待った。 「……金澤先生が好」 「わぁっ」 そして香穂子は、言い出すのをちゃんと待ちはしたが、言い終わるのを待ちはしなかった。 「い、いきなり何言ってるんですかもお! びっくりさせないでください」 「違うの?」 「そ、そういうのは本人にしか言いません!!」 へえ、と柚木は意地悪に唇をつりあげた。 「告白するつもりなんだ?」 告白、そっか、告白か……それもいいかもしれない、と香穂子は思い、柚木の呆れたような声に我に返った。 「ひょっとして、今まで考えてなかったとか」 「あ、えっと」 「まったく、お前は本当にバカだな。ざるバカ」 「なんですかそれ」 「救いようの無いバカ、って意味」 「……そこまで言わなくてもいいと思いますけど」 「お前、今の自分の肩書きを言ってみろ」 「え? いきなり脈絡ないですよ」 「いいから」 「星奏学院普通科2年2組在籍、日野香穂子。何の因果かコンクール参加者に選ばれた16歳女子高生、目下の順位は6位4位3位」 「最初の部分を繰り返せ」 「星奏学院普通科2年2組在籍?」 「金澤先生の職業は?」 「星奏学院音楽教師」 「俺はお前が疑問に思わないのが疑問だよ。教師が生徒と付き合うのは、ご法度だろう?」 「あ……」 「なに、本気で気づいてなかったわけ?」 香穂子が金澤を好きになったのは、あまりに自然なことだったから。 それがいけないことだなんて、思いもしなかったのだ。 でも、そうしたら、この気持ちをどこにもっていこう? 香穂子の恋の木は、空気を吸って水を飲んで、元気いっぱいにすくすくと育っていたのに、すぐ上にあった天井の存在を、いきなり思い知らされてしまった。 これ以上は枝を伸ばすことが出来ない、向こうには届かない。 そう思ったら途端にいろいろなことが不安になってきて、自分は柚木の言うとおり、本当に救いようの無いバカだったと思った。 自分の恋に浮かれていて、天井を突き破られたら困る相手がいることを、ちっとも考えていなかった。 「先輩……わたしって、そんなにわかりやすいですか?」 「見てればわかるだろうな。お前が金澤先生のそばにしょっちゅういることくらい」 「噂になったりでもしたら、先生困りますよね……」 「淫行教師なんていう汚名を着せられたら、まあまずクビだな」 冗談めかしていう柚木に、香穂子の顔からさぁっと血の気が引いた。 「好きになるのも、ダメだったんだ……」 息をすることのように自然な――はずだったのに。 さっきまで出来ていたのに、どうやって息をしていたのかさえ、もう思い出せない。 ――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪―― NEXT BACK |