その恋の木は、抜くには育ちすぎていたし、かといって伸ばせる出口も見つからず、
香穂子は苦しいのを我慢して、隠すことに決めた。

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金澤の側には、極力寄らない。声もかけない。コンクールの相談もしなければ、金澤のいるところで弾くのもやめた。
昨日まで当たり前だったことが出来なくなる、それがこんなにも苦しいなんて知らなかった。
だけど、自分のせいで金澤に迷惑がかかったりしたら嫌だ。
相手が自分を見ていなくても、自分が相手を見ていればそこに周囲の邪推の種が生まれることを、香穂子は柚木で学んでいた。
柚木は優しいし、本当に綺麗だ。こんなに美しい人間を、香穂子は他に知らない。
けれど自分と彼との関係は、柚木のファンが言うような甘いものではない――と思う。
それでもこれだけ周囲が騒ぐのだから、実際に甘さを含む金澤への視線には、どんな憶測を呼ぶかわからない。
だからダメだ。どんなに窮屈でも、苦しくても、息が出来なくて窒息しそうでも、隠さなければ。
気持ちが膨らむのを抑えるのは難しい。けれどそうしなければ壊れるものがあるのだと、そしてそれは香穂子が一番壊したくないもので、なにより守りたいもので、金澤の笑顔なのだった。
会えないと余計に寂しさは募る。
あと2年我慢して、卒業して、新しい世界で新しい恋が出来れば、忘れられるかもしれない。
それが途方も無いことのように思えて、香穂子は憂鬱にため息をついた。
「こら」
「うひゃあっ」
耳元にかかった声とぞくりという感覚に、香穂子は声を上げた。
「どうしたの日野さん、ぼーっとして。せっかく音楽室にいるんだから、何か弾いてくれないかな?」
耳を押さえながら、真っ赤になって振り返れば柚木が笑っていた。ちらほらとでも人目があるので振る舞いが「王子」だ。
ああそうだっけ、そういえば柚木に今日は音楽室に行かないかと誘われて、だから放課後ここに来て待っていたのだ。
音楽科校舎からは少し遠いので、普通科の香穂子のほうが先に着いてしまって。
金澤がいるのではないかとためらったのだが、柚木が「今日は金澤先生は音楽室には来ないよ」と妙に確信めいて言うものだから、香穂子もそれならと承諾した。
車中の会話からこっち、彼は何かと香穂子を気遣ってくれていた。
言葉や仕草の端々に、香穂子に対する思いやりが滲んでいて、香穂子は涙が出そうなほど嬉しかった。

(先輩を好きになってれば、もう少し楽だったかもしれない)

そう思って慌てて考え直した。柚木が香穂子なんかを相手にするとは思えない。
うわあわたし、図々しいにも程がある。いくらなんでもそんな大それた想像、先輩に失礼だよ。
恥ずかしさを誤魔化すように、香穂子はヴァイオリンを構えた。
「何かリクエストありますか?」
「そうだね……じゃあ、ロマンス ト長調を」
「はい」
柚木はにこりと笑った。それがあまりにも綺麗な笑い方だったので、香穂子は見とれた。
なんて魅力のある人なんだろう。親衛隊が出来るのも無理は無い――香穂子は思って、弓を弾いた。
柚木の気に入っている『あまり甘ったるくない』弾き方だ。
柚木は大人びていてシビアだから、お子様使用の砂糖とミルクのたっぷり入った恋は好みではないらしい。
ブラックコーヒーの飲めない香穂子は、柚木のそういうところに少しだけ憧れもするし、でもやっぱり甘いコーヒーもおいしいと思ったりもする。
一曲終えて、お辞儀をした。
「ありがとう日野さん。とても素敵だったよ」
「あはは、そう言っていただけると嬉しいです」
「気分転換になった?」
「え……」
問われて香穂子は気づいた。弾いている間、金澤のことを忘れていた。
目の前の柚木と、音のことだけを考えていた。落ち込んでいた空気が浮上した。随分呼吸が楽になった気がする。
「ほんとだ……わ、すごい。そっか、うん……わー……先輩、ありがとうございます」
なんだか感動してしまって、じーんとしたまま香穂子は柚木に礼を言った。
「どう致しまして。ああそうだ、ひとつ日野さんに頼みがあるんだけど」
「え、はい、なんですか?」
「楽譜を探したかったのに、僕、4時から生徒会に呼ばれてるんだ。代わりに探してもらえないかな」
ちらりと柚木は時計を見て、つられるように香穂子が目をやると、4時まであと5分ほど。
だからわたしを音楽室に呼んだのかな、と香穂子は思い、日ごろの感謝の気持ちを込めて引き受けることにした。
「はい、わかりました」
「助かるよ。たぶん準備室にあると思うんだけど……」
フォーレの子守歌と幻想曲を、と言って柚木は音楽室を出て行ってしまった。
おそらく今度弾きたいと思っている曲なのだろう。
そうだ、コンクールも残すところ最終セレクションのみで、最後を飾るにふさわしい曲を選びたいと思うのは当然だ。
わたしは何を弾こう、何を弾けばいいんだろう――少し前だったら、おそらく金澤に相談していただろう。
けれど今の香穂子は、彼に頼るなんて出来ないことだとわかっていた。
ああ、せっかく忘れていたのに、柚木の姿が見えなくなったらとたんに思い出した。
ふるふると頭を振って。
気を取り直して、香穂子は音楽準備室に向かった。


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