「金澤先生の許可は取ってあるから」と柚木は言っていた。 だから柚木はきっと、そのときに金澤に放課後音楽室にいるかどうか訊ねたのだろう。 ノブに手をかける。 香穂子は油断していた。まったくといっていいほど無防備な状態だった。 だから、ドアを開けたときにかすかな煙草の臭いが――もちろん、ここで吸ったのではないだろうが――漂ってきたとき、歯止めはぱきんと壊れて、抑えるものを失った気持ちは一気に駆け出してしまっていた。 こうなってしまえば、もう止めることは不可能だった。 ――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪―― 白衣に染み付いた煙草、金澤のにおい。そこにあった背中。 どうしてここに? 柚木は知っていた? だとしたらどういうつもりで。 次にとるべき行動が見つからない。身体が動かない、声がのどに張り付いて出ない。 振り向いた金澤の目に自分の姿が映るのを見てしまって、香穂子は強張った身体をどうすることもできないまま、ただバカみたいに立ち尽くしていた。 「お、おっ? 日野じゃないか」 香穂子はこらえようと唇を噛もうとした。 「……っ」 ひとたび言葉を解放してしまえば、取り返しがつかなくなると知っていた。 だって、こんなの。不意打ちだ。 今までずっと我慢していたのに――我慢していたから、反動はものすごかった。 抗えない、自分の想いを抑える術が見つからない。 圧倒的な力の前に、対する香穂子は無力だった。 「そういや、最近会ってなかったよな。お前さんになんかしたかなと悩んだんだが」 避けていることはばれているだろうと思ってはいた。 今まで散々つきまとっていたのがぱたりと止めば、誰だって不信に思うに違いない。 「あ、責めてるんじゃないぞ」 この状況を、なにもなかったかのようにやりすごすには、香穂子は子どもすぎて、そして金澤に恋をしすぎていた。 「あー……、だから、なんつーかその……久しぶり……だな」 まるで照れているかのように言葉を捜す彼に、香穂子は最後の砦が落ちたのを理解した。 いけないと思うのに、感情とともに唇を開くのを止められなかった。 この人が好きだ。 「好きです」 たった一言。 4つの音でしかないそれが、なんて決定的な意味を持つことだろう! そのあまりにも強い言葉だけが、香穂子と金澤の間にある宙に置かれて、部屋の空気の色でさえも変えてしまった。 金澤が目を見開いて、それからそらすのを、香穂子は泣きたい気持ちでただ黙って見ていた。 香穂子はきっと、初めからこうなることを知っていたのかもしれない。そんな気がした。 それでも言ってしまいたかったのだ。 「……日野」 その後に続く言葉も、香穂子は知っている。 一度してしまったことは、二度と元には戻らない。 チャンスは一度きりで、二度と来ないのだ。 そのことも、香穂子は知っていた。 金澤と香穂子は恋人にはなれない。この想いが成就することは無い。 「俺は、お前さんは可愛い生徒だと思ってる――だが、それだけだ」 金澤は、香穂子と目を合わせようとしなかった。それでいい、と思う。 きっと今、自分は涙をこらえて変な顔をしているだろうから。 そのまま見ないでいて欲しい。そのぐらいは願ったって罰は当たらないだろう。 声が震えないようにするのは難しかったが、うまくごまかした。 「ごめんなさい」 それだけ言うと、香穂子は柚木に言われた楽譜を探すこともできないまま、音楽準備室を飛び出していた。 ――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪―― NEXT BACK |