香穂子の肺が涙の水で満たされていく。
エントランスのさざめきは、まるで海の音のようだ。このまま、溺れて。

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香穂子はただぼんやりと、何をするでもなく奥のベンチに座っていた。
不思議な感覚だった。妙に現実感がない。夢を見ているのに近い。
ああ、終わってしまったんだ……という、冷めた感想が浮かんできて、エントランスのぴかぴかした床に落ちる涙はなかった。
永遠に失ってしまったものを悲しむのには、もう一度その事実を直視しなければならず、そしてそれは想像を絶する痛みを伴うものだと香穂子はどこかで知っていた。
だから、心は無意識のうちに防衛機能を働かせているのだろう。
けれどそれは「逃げ」で、根本的な解決にはならない。

どのくらいそうしていたのだろう。

「日野さん?」
かぶさった影に顔を上げれば、ベンチの前に柚木が立っていた。
「あ……」
生徒の数はすでにまばらで、随分長い時間、香穂子はただ座っていたことになる。
ぼんやりしていた頭が覚醒し、頼まれた楽譜を探し忘れたことを思い出して、顔がさぁっと蒼くなった。
「あ、あの、先輩」
「楽譜は?」
「……えっと、探すの忘れました……」
最悪だ。柚木のコンクール練習に関わる、大事なことなのに。
「ごめんなさい」
謝って済むことではないが、それでも香穂子には謝ることしか出来ない。
「……別に、いいけど。明日俺が直接貰いにいくさ」
「ごめんなさい」
もう一度頭を下げると、その上に意外と大きな手のひらがぽんとのった。
「もう下校時刻だ。帰るぞ」
はい、と香穂子は、ようやくその場所から立ち上がれた。




「……で、どうして?」
「え?」
声をかけられてそちらを向けば、頬杖をついた柚木と目が合った。どきり、とする。
柚木が何を訊ねているのかはわかる。けれど、口に出すのはためらわれた。
「あの……」
静かなエンジンの音。少しだけ揺れる車内。切り取られた空間、忍び寄る薄闇、窓の外を通り過ぎる人々の群れ。
ガラスで隔てられた向こうとこちらとでは、まるで別の世界のようだ。
向き合うのは、怖い。痛みに耐えるのは、つらい。
けれど今は隣に柚木がいてくれる。そう思ったら勇気が出た。
「金澤先生に、好きだって言ったんです」
失恋をした。告白して、ふられた。
「言っちゃったんです。断られるってわかってたのに。困らせるだけなんだって、わかってたのに」
それだけの、どこにでもある、世の中には溢れすぎている、陳腐な話。
「でも、言わずにいられなかった。そうしなきゃいけなかった」
だけど香穂子にとっては、たった一つの、大切な恋だった。
「だから、もう、この恋は死んじゃった」
言いながら、ぽろぽろと涙がこぼれてくる。
柚木に見られていることが恥ずかしく、それをぐい、と乱暴にぬぐおうとしたら、さえぎられた。
なんだかいいにおいのするハンカチを目元に当てられて、香穂子のまばたきでこぼれた雫が吸い込まれていく。
「せんぱ……?」
そっと触れるその指先は優しかった。
気持ちが良かったので、香穂子は時折肩を震わせながら、黙って目を閉じて柚木に任せていた。
しばらくすると呼吸が落ち着いて、ほぅ、と小さく息を吐いた。
「先輩って、精神安定剤みたい……。先輩といると、痛いこと考えなくてすむ」
金澤のことも、乗り越えられる気がしてくる。
不思議ですね、と赤い目元で微笑んだ。
「……じゃあ、ずっと側にいてみる?」
柚木の声音ががらりと変わって、香穂子は大きな目を瞬いた。
だから香穂子の初めてのキスは、目を閉じる暇がなく、彼の長いまつげを見ながらのものになった。


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