世界がひっくり返ったのではないかと思った。 自分の身に起こったことが信じられない。実はやっぱりこれは夢で、わたしは寝ているんじゃないか? だって、ありえない。柚木にキスされるなんて、魔法だとかファータだとか、コンクールに選ばれたこととかよりありえない。 というか、あって良いのだろうか? ――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪―― 香穂子は目を見開いたまま、離れていく柚木の顔を呆然と見ていた。 状況に思考がついてこず、たっぷり数秒の後ようやくのろのろと唇に手をやった。 温かい。そして少し湿っている。感触がある――ということは。夢では、ない。 「……あの」 「なに?」 柚木の顔はどこか楽しげだ。 対する香穂子にはそんな余裕など欠片もない。 「今の、なんですか」 「お前、いくらなんでもキスを知らないなんてことはないだろう」 「そのくらい知ってます、で、でも、あの、じゃあ今のやっぱりキスですか」 「……ふざけてるのか?」 「す、すみませんあの、大真面目です! ……キスですよね」 「だから?」 名前はわかる、けれどそれをした意図が読めないから。 「どうして、ですか」 柚木は心底呆れたように香穂子を見た。 香穂子自身、呆れられるだろうなとは思っていたのだが、それでも訊かずにはいられなかったのだ。 少し肩をすくめながら、香穂子は柚木の言葉を待つ。 「わかれよ。お前が忘れたいんなら、手伝ってやるって言ってるんだぜ?」 香穂子は驚いて聞き返していた。 「えっ、いいんですか?」 「俺にとってメリットがないわけじゃないしな。お前で遊ぶのは楽しいし」 この気持ちを枯らすのに、もっと長い時間がかかると思っていた。 けれど柚木が、香穂子を助けてくれると言う。 金澤のことを忘れられるのなら。香穂子はそれを感謝こそすれ、拒む理由などない。 「返事は?」 極上の笑みで柚木が問う。枯れた葉は、地面に落ちて養分となり、新たな芽を育む豊かな土になる。 香穂子は頭を下げた。 「よろしくお願いします」 でも具体的にどうすればいいんでしょう、そう訊ねた香穂子に柚木は言った。 「まずヴァイオリンを弾くときに、俺のことを考えながら弾くようにするんだね。意識して行えば、感情がついてくる」 「感情……」 金澤を好きだという気持ち。 「お前の音は、必ず誰かのためにあるからな。今まではその対象のほとんどが金澤先生だったみたいだけれど――」 音には感情が滲んで溶け出すから。そして、敏い人にはその色が見えてしまうから。 「別の誰かを想って弾けば、次第にそれが自然と出来るようになるさ」 「先生を想う気持ちが、音に出なくなる?」 「そう。他の事で飽和状態になれば、余計なことを想う暇も出来ないだろう?」 音楽室で柚木に対して弾いたように。 香穂子はヴァイオリンケースを抱えなおす。 明日から、香穂子の音はきっと変われる。 ――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪―― NEXT BACK |