走る。走る、走る。何か怖いものが来る。得体の知れない黒いもの。大きな影のようなもの。暗闇に光る目を不気味に浮かび上がらせ、真っ赤な長い舌を出し、身体を引き裂く鋭い牙を持っている。逃げなくては、捕まったら食べられてしまう。草がざあと一斉に風に薙ぎ払われる。近付いてくる。追ってくる足音が背中に迫っている。ほら、もうすぐ後ろ。耳元に獣くさい息がかかるような気さえした。
走れ。走れ、走れ。必死に駆けるも幼い足はすぐに限界を訴え、幾度も縺れて転びそうになる。息が切れた。胸が破けそうに苦しい。恐怖で涙がこみ上げてくる。しなる長い腕が後ろから何本も伸びてきて、着物を掴もうとする。あっと思った次には躓き、身体が宙に浮いた。そのままの勢いで地面に強く叩きつけられる。打った箇所がじんと痛む。もう起き上がれない。走れない。誰か助けて、秀吉さま、おねねさま、佐吉、市松、誰か……! 覆い被さってくる重い影に呑み込まれ、目の前が墨で塗り潰された。―――幼いころの記憶。


 清正は足もとの土に視線を落とし、砂粒を運ぶ蟻の列をぼんやりと見ていた。どこかで鳥が囀っている。嫌なことを思い出したな、と胸のうちで呟いた。慣れぬ土地での滞在で心が惑っているのかも知れない。
「……清正。もう起きていたのか、早いな。何をしている?」
 早朝の空気は玻璃のようにぱきんと澄んで、宗茂の低い声をよく透した。かけられた言葉に振り向くと、宗茂は秀麗な美貌に微笑を浮かべて立っていた。
「別に、目が覚めちまったから散歩だ。お前こそ早いな」
 九州、立花の城。清正は秀吉の命で立花の援軍として一足先にこの地に入ると、後続の秀吉の軍が到着するまで猛虎奮迅のごとき働きで島津の攻勢を凌ぎ、逆に大きな痛手を負わせた。秀吉の本隊が到着してからその勢いはますます苛烈なものとなり、奪われていた岩屋城を宗茂と共に取り戻して、とうとう島津の軍勢をこの地より追い払ったのだった。今は残る戦後処理のため、三成と共にここに厄介になっている。
「なに、少し鍛錬をしようと思ってな。ひとまず島津の脅威は去ったが、いつまた誰に攻め込まれるとも知れぬ。お前も一緒にどうだ」
 見れば、宗茂の手には木刀が一振り握られている。少し鍛錬、ね、と清正は思った。薄手の着物の上からでもわかる鍛えられた逞しい身体つきが、日々の弛まぬ修行を物語っている。この男の実力は本物だと、先の戦いで清正自身もよく知るところだ。何事も涼しい顔で軽々と容易くこなしているかに見えてその裏には積み重ねられた多くの修練がある。宗茂は才溢れる若者だが、天から与えられた才に慢心はしない。宗茂のそういうところは、清正の目に好ましく映った。実力のある男は嫌いではない。
「そうだな、少しつきあってやるよ」
 にぃ、と笑って清正は了承し、宗茂に向きあった。宗茂と共に、稽古場として使われている、庭に面した小さな部屋へと赴く。木刀が一本しかないため、互いに素手で組み合うことになった。相手の襟を掴み、引き寄せる。力は五分、どちらも一歩も譲らず周囲には緊張が満ちた。気を抜けば足を払われる。ぴんと張り詰めた空気は気力を奪うが、目の前の相手には僅かな隙も見せてはならない。仕掛けてはかわされる攻防が続き、しかし均衡が崩れた瞬間を突いて、一本を取られ、また一本を取り返した。知ってはいたが、強い。だが清正とて負けてやるつもりはない。
「次で仕舞いにするか」
「……そうだな」
 清正は額の汗を手で拭った。疲労の色はお互い様だ。だが若干向こうのほうに余裕がある気がする。注意深く宗茂を見つめ、どこかに切り込む隙はないかと探った。その美しい茶色い目の奥に、ふと炎を認めて、意図せずに身体が強張る。好機を見逃す宗茂ではない。瞬く間に清正の身体は床に転がっていた。
「……俺の勝ちだ」
「くっ……」
 清正の首の真上に宗茂の太い腕があり、宗茂がそうしようと思えばこのまますぐにでも抑え込まれてしまうだろう。勝負は完全に決まっていた。
「参った」
 諦めて降参を宣言した。身を起こせないでいる清正を見下ろす宗茂の顔には意地の悪い笑みが浮かんでいて癪に障る。とはいえ一瞬でも意識を他所に向けてしまった己が未熟だった。あのとき、宗茂の瞳に微かに揺らぐ炎の色に、見覚えがある気がしたのだ。まさかと思う心と、やはりと思う心が胸を占め、反射的に竦んでしまった。ただの好意にしては熱が高すぎる、清正の肌をぞわりと撫でるその名は―――情欲。思わず肩が震えた、その反応がいけなかったのかもしれない。
「……っ」
 清正は先ほどと同じ炎を、かち合った宗茂の目に見出してしまった。お互い着物の襟は乱れ、胸元ははだけ、覗いた鎖骨には首筋から汗が伝っている。今や宗茂の視線に滲む雄の欲は、はっきりと清正を対象として定めていた。戦い組み伏せたことで、他者を服従させ支配したいという男の本能的な欲望が顕在化したのか、宗茂本人に自覚はないのかもしれないが、よく似た視線に晒されたことのある清正には感じ取れてしまう。だが宗茂が自分に?
「清正……」
 清正の口から同じように宗茂の名前は出なかった。宗茂の低い声が耳から入りこんで背筋を震わす。目が逸らせない。
 好きだと言われたことはある。だがそれは純粋な能力に対しての称賛でしかないと思ったし、宗茂は常態からして口説き文句のように言葉を使うから、自分に向けられたものもそういった意味のない言葉のひとつなのだと思った。つまり、清正は本気に取っていなかったのである。この男は誰を褒めるのにも同じように言うのだろうと。好きだと言う二文字にそれ以上の意味などない。
 友情を築けるのではないかという予感はあった。清正と宗茂とでは異なるというより正反対とさえ言える部分が多かったし、軽薄な印象を与える宗茂の態度は清正の苦手とするものだったが、不思議と一緒にいるのが心地よかった。しかしそれは肉に直結する感情ではない。ないはずだった。
「清正」
 清正、と重ねて呼ばれる。まるで愛おしいものでも呼ぶような響きが滑稽に思えた。口づけられて清正が覚えたのは嫌悪ではなくただ落胆だった。
「ん、」
 軽く口を吸われ、清正が拒まないでいると、ぬるりと舌が入ってくる。その慣れた様子に、やはり宗茂にとってはこんなことはよくあることなのだろうと思った。しばらく咥内を蹂躙していた舌が出ていくと、清正はふっと息を吐いた。宗茂が覆い被さっていた身体を起こし、汗で貼りついた清正の髪をかき分ける。
「これ以上はここではまずいな」
 庭に面した障子は開け放たれているし、外は明るい。庭の木がさわさわと枝を揺らす。
「清正?」
 ほら、と差し出された手を掴んで清正はゆっくり立ち上がった。
「どうした清正。どこか打ったか?」
「ああ……いや。平気だ。なんでもない」
「なら良かった」
 清正はそっと手を離す。たった今口吸いを仕掛けてきた男は何事もなかったように、立てかけてあった木刀を拾った。
「いずれまたやろう。お前との勝負は面白い。そうだな、次はきちんと木刀を二本持ってくることにしよう」
「構わんが、俺の得意な獲物は槍なんだがな」
「ああ、お前の槍の扱いは見事だったな。美しかった。正に獲物を狩る虎だ」
 宗茂の言葉に嘘や偽りの響きはない。本心から言っているのだ。
「立花の風神にお褒めいただくとは光栄至極だな」
 襟を正し、べたついた身体の不快感に顔を顰める。身体を清めたい。気付いた宗茂が「水と手拭いを用意させよう」と笑った。草履をはいて庭に降りる。
「――――清正。今夜、俺の部屋に来ないか」
 頷きながら、いい友人になれると思ったのにな、と清正は残念に思った。