学校へと続く坂道が、こんなにもきついと思ったことはない。一歩一歩踏み出す足を、こんなにも重いと感じたことはない。体育で三キロ走らされた次の日だって、ここまで肉体的に疲労したことはない。いっそのこと、今日は休んでしまおうかとも思ったさ。だがテスト前のこの時期に丸一日欠席することが、後の点にどれだけ響くことか。そう、テスト前だ。忌々しい、実に忌々しいテスト前。そしてそのテスト前とやらのせいで、俺はこんな事態に陥っている。
「おっす、キョン! なにのろのろ歩いてんだよ」
 谷口のアホが、後ろから俺の背中を叩いた。常日頃からこいつは本当にアホだなあと呆れることはあっても、殺意を抱くまでには至らなかったはずだ。しかし今胸によぎった感情は間違いなく殺意と呼ばれるものだった。のんきな谷口は自分が生命の危機に立たされているとも知らず、俺の返事がないのを訝しく思ったのか眉を顰めた。
「ん? どうしたんだよ」
 心の広い俺は、背中から全身へと波のように伝わる痛みに内心悶え苦しみながらも、いつものふっつーの顔で答えてやる。
「おす」
「おお。……なんかお前顔色悪くねえ?」
 当然だ、俺はついさっき、自分の迂闊さにより地獄の苦しみを味わってきたばかりなのだ。くそ、自転車になんか乗るんじゃなかった。
「まあいいや、俺先行くわ。んじゃな」
 俺の歩みの遅さに焦れたのだろう、谷口は片手をあげて行ってしまった。本人的には颯爽としているつもりなのだろうが、その仕草、お前がやっても全然格好良くないぞ。俺はムカつくほどにそういう仕草が似合う男の顔を思い浮かべた。
 変態エスパー少年古泉一樹。
 ああ、あの整ったニコニコスマイルを殴り飛ばせたらどんなにかすっきりするに違いない。思わずこぶしに力の入ってしまった俺を、誰も責めることはできやしないだろうぜ。古泉は顔がいい、運動神経がいい、それに成績もいい。低空飛行の俺に比べて、随分な余裕がある。近頃の下降気味の成績に流石に焦った俺は、背に腹はかえられないと古泉にテスト勉強の助力を請うた。それが昨日。俺はやつを自分の家に呼んで勉強を教わるつもりだった。やってきた古泉は実に色々と教えてくれたよ。これっぽっちも知りたくなかったことまでな!
 テスト前でさえなかったら、俺は家族の出払っている家に古泉を呼び、自分の部屋にあげて勉強を教わるなんて愚行を犯さなかったはずだ。だからこの、俺の身体を蝕むもろもろの痛みは、元を辿ればテスト前という時期のせいなのだ。
 そして直接的な原因のほうを挙げるなら、俺をレイプした古泉のせいだ。

(中略)

 で、目が覚めたら、ネクタイで手首を固定されていた。
「なに縛ってんだ」
「だって暴れるでしょう? あなた」
「そりゃ縛られてたら暴れるだろ」
 両手をひとつにまとめて、頭の上で縛られている。背中が痛くないのはベッドの上だからだ。俺はさっきまで床に座っていたはずだろう? なのになんでこんなことになってんだ。瞬間移動か。わけがわからん。古泉が混乱真っ只中の俺に覆いかぶさってきた。
「えっ……うわ、ちょっ、なに……っ」
 本気でわけがわからん! なんで俺は縛られている? なんで俺はベッドの上にいる? そしてなんで古泉は俺に圧し掛かって、あまつさえ膝を割ってくるんだ。
「や、ま、待て待て待て! なに!?」
 慌てふためく俺に、古泉は笑いながら言った。
「わかりません?」
 ああさっぱりわからないね、説明してくれ。……すまん嘘だ、本当はそうなんじゃないかなと薄々は思い当たることがある。ただ、冗談だと思いたい。冗談、だよな?
「僕が冗談でこんなことをすると思います?」
 お前ならありえるかもしれないだろ。存在からしてふざけた野郎だからな。
「ひどいなあ」
 ちっともひどいと思っていない顔で言う。もうちょっと顔に説得力を持たせる努力くらいしたらどうだ。
「随分と余裕なんですね」
 余裕に見えるか!? この俺が!! 白状しよう、先ほどからこの異常な状況にそぐわない普通の会話が成り立っているのは、情けないことに単に現実を受け入れられずパニクってるだけだ。だってこれって強姦じゃないか? しかも俺は男で相手も男。しかも古泉。笑える、いや笑えないちっとも笑えない、これでパニクるなってほうが無茶だろ。ナポレオンの辞書に不可能という文字がないように、俺の辞書にも男同士のセックスという文字はない。こんなことの引き合いに出したナポレオン、すまん。やはり混乱してるときに思い浮かぶ考えはくだらないものばかりだ。そんな俺の混乱などまったく気にもしないで、古泉は俺の服をたくし上げる。ことここに至って、ようやく俺は抵抗を思い出した。遅いんだよ俺のニューロン。
「この変態、バカ、やめろって! っ!」
 古泉が俺の首に吸い付いた。思ったより柔らかな唇の感触と、ねとっとした舌の熱さと、吸われる痛みとを一度に与えられる。
「なんとでも。あなたがどんなに抵抗したところで、僕は最後まで思いを遂げさせてもらいますから」
 なんていい笑顔だ、最高に殴りたい。腕が縛られていることがつくづく悔やまれる。

(中略)

「お、前……変……」
 ほどほどに正気ってことは残りのほどほどじゃない部分は狂気だってことを、今更ながらに悟った。もっと早く気づいておくんだった。何もかも後手に回っている。
「僕はあなたが好きです」
 そうかよ。俺も実を言うとそこまで嫌いではなかったぜ、友人としてという意味だし、それすらもほんの10分前までの話だけどな。今は現在進行形で嫌い度が加速中だよ。これ以上お前の評価が地に落ちる前にさっさと退け。
「好きな人を抱きたい。そう思うのはそんなに変なことでしょうか?」
 目的ではなくてそこまでの手段が問題なんだ、手段が。これじゃ俺の意思を完全に無視したレイプじゃねえか。犯罪だぞ。
「本当は僕だって、もっと優しくしたいんですよ? でも、あなた嫌がって断るかなと」
 当たり前だ、男に犯されて嫌がらない男は相当の希少種だと思うぜ。宇宙人や未来人や超能力者とタメをはれるね。
「それは涼宮さんが喜びますね」
 ハルヒが喜んだりしやがったら、俺はあいつとの付き合い方を変える。
「冗談ですよ」
 俺としてはこの、古泉が俺の上に乗って肌をまさぐっているという状況も含めてまるごと冗談にして欲しいんだが。非常に残念ながら、古泉が指し示した範囲はハルヒが喜ぶという部分だけだった。
「涼宮さんに知られたら、僕は殺されるでしょう」
 突如飛び出した物騒な単語に、俺はぎくりと身体を強張らせた。ハルヒは殺人を犯せるようなやつじゃない。だが、無意識の改変によって人ひとり消すなんてことは簡単に出来る、そういう能力を持っている。いつもニコニコイエスマンである副団長が、団員しかも男をレイプするような変態だと知ったら流石にあいつもショックだろう。そしてそのショックで世界を変えてしまうかもしれない。
「だから、お優しいあなたは僕を殺させないために、誰にも言わないで黙っていてくれますよね」
 にっこりと笑う。自分の命を盾に取った脅迫だ。待てよ、そもそもお前が俺に何もしなければ現状平和で万事解決じゃないか。一考の余地はあると思うが。
「それは無理な相談です」
 なにごともやる前から諦めるなよ。やってみたら案外なんとかなるかもしれないだろ。
「ええ、僕もそう思ったからこそ、こうしてあなたを組み敷いているわけです」
 無理矢理押し倒したらなんとかなるかもしれないって? どうなるっていうんだ。
「そうですねぇ……んっふ、あなたが病みつきになって、自分から僕を求めるようになる……とかどうです」
 気色悪い笑い方に鳥肌が立ちそうだ。どうですって、そんな都合のいい展開があるか。現実とエロ本をごっちゃにするな。俺はノーマルで、可愛い女の子が大好きで、童貞捨てたいと思ったことはあれど処女を奪われたい願望などこれっぽっちも持ち合わせちゃいない普通の男子高校生だぞ。
「そう信じているあなたを開発して、才能を発掘するのが楽しいんじゃありませんか」
 生憎だが元からないものは発掘できない。お前はピラミッドの発掘作業にでも加わってろ。そうすりゃその変態性も少しは世の中の役に立つだろう。
「でもあなた、勃ってきてますよ」
「んっ!」