廊下は走ってはいけません、なんてことは、小学生でも知っている常識だ。
 教室の中を走るのは朝倉に殺されそうになったときにやっちまったが、まあそういう危機的状況下は例外で大目に見てもらうとして、普通はやらないわな。
 クラスメイトの迷惑になって顰蹙を買うし、机や椅子も邪魔だしさ。
 勿論、放送室の中を全力疾走なんてのはもってのほかだね。迷惑極まりない。
 ここは放送部が平和でのどかなお昼の校内放送を行ったりするための場所のはずで、汗の滴るグラウンドでもなければ凌ぎを削りあうトラックでもない。
 だがハルヒに常識は通じないし、こいつが白だと思ったら鳩が白くなり、秋なのに春のごとく桜が咲くくらいだから、放送室が競技場に変わるなんてのも、ハルヒにかかれば朝飯前の簡単なことなのだ。
「くおらー! もっとちゃんと走りなさい、キョン!」
 放送室のブースの外で、ハルヒが拳を振り上げる。
 お前な、壁に激突せんばかりの必死な俺の走りが見えないのか。
 ブースの内と外とは隔てられちゃいるが、透明なガラス張りだからしっかり見えるはずだ。
 純粋に応援してくださる朝比奈さんを少しは見習え。
「キョ、キョンくん頑張ってくださぁーい……!」
 あなたの声援で一粒三百メートルですよ。
 ちらりと横目で見れば、朝比奈さんははわわ、と真っ赤な顔で、長門は放送機材の前にちょこんと座り、ガラスと同じくらい透明な瞳でこっちを見つめている。
 そして古泉は俺の横こちら側、つまりブースの中で変わりばえのしない笑みを浮かべていた。
 その手にはハルヒ作の台本が握られており、表紙に書かれたけったいなタイトルは、俺の脳が認識を全力で拒否するような、恥ずかしいなんてもんじゃないシロモノだった。
 シャミセンしかり、SOS団しかり、ハルヒのネーミングセンスはつくづく壊滅的だと思っていたが、まさかここまでとはな。恐れ入るぜ。
「ほら、あと3往復っ!」
 ハルヒ監督はかなりのスパルタで、監督ってより陸上の鬼コーチのようだ。
 ハルヒのご注文どおり散々走らされた俺はすでにグロッキーでぜぇはぁ言っている。
 でもって、そのぜぇはぁこそがハルヒの目的なのだった。
「ストップ! 古泉くん、マイク!」
 結局部屋の端から端まで20往復させられ、その場にしゃがみこんで荒い息をつく俺の眼前に、集音マイクが差し出された。
 あーくそ、俺とは大違いの涼しげなにやけ面が忌々しい。
「……は! っはぁっ、っあ、」
 肺が、肺が爆発する。
 まったくね、なんでこんなことやってんだかなあ。疑問を抱いてしまう。
 お前も少しはおかしいと思わないのか古泉よ。
 例えば朝比奈さんのあえかな吐息の音なら喜んで録音し即携帯の着信音に設定、毎朝の目覚ましに使用したいくらいだが、俺の苦しげな呼吸音なんて録ったところで何も益はない。
 目覚ましに使った日には気色の悪さで目が覚めるだろうよ。
 それはそれで早起きが出来ていいかもしれんが、朝っぱらからサブいぼを立てるような真似はごめんだ。
「はぁ、っはぁ、はぁ……ふっ……」
 よし、少し呼吸が戻ってきた。顔を上げると、ハルヒの叱責が飛んだ。
「ダメね、全然ダメ! まるでなっちゃいないわ! キョンあんた、もっと色っぽい喘ぎ声出せないの!?」
 無茶言うな。
 人をへとへとになるまで走らせておいて勝手なことぬかしやがって、色っぽい喘ぎ声なんて、そんなものを俺に求めるのがそもそも大間違いなんだ。
 最初から間違ってるんだから、そりゃ満足いく結果なんて導き出せるわけないだろ。
 しかも喘ぐ演技なんつう気色の悪いこと、真面目に出来るかよ。
「古泉くんはちゃんと出来てたわよ!」
 名指しされた男が恐縮です、と毒にも薬にもならない笑みを浮かべた。
 俺より先に軽く試し録りをした古泉は、走らされることもなく一発オーケーを貰っていたりする。
 つうか、俺を古泉と一緒にされても困るっつの。
 なんせ古泉ときたら普段の声からしてやたらと吐息が多かったり熱がこもっていたり湿っていたり無駄に色気過多過剰過分なのだから、色っぽい喘ぎなんてもろやつのお得意のフィールド、独壇場じゃねえか。俺の管轄じゃねえんだよ。