(前略)

 火曜日。
 目覚めた瞬間、頭の中に新たなソフトをダウンロードしたかのように、昨日まではなかった情報が存在するのに気づいた。
 気づいた瞬間飛び起きた。なによりも強烈な目覚ましだ……!
 長門さんが僕になんらかの防護フィールドを展開したのか、新たな情報は古い情報を上書きする形ではなくきちんと分別されているので、正常な世界の形を僕は覚えているし、今の世界が異常だということ、その相違もはっきりわかる。
 しかし、どちらが正しいか把握できることを諸手を挙げて歓迎はできなかった。そんな余裕が持てるほど、僕は神経が太くない。
 したがって口元を手で覆い、嘘だろう、と呟き、朝の貴重な時間を呆然と潰したあと我に返り、あやうく遅刻しそうになるという失態を演じたのも無理からぬことといえる。
 事態に気持ちが追いつかない。簡易ハイキングコースを早足で歩きながら、前方に僕と同様に急ぐその小さな姿を見つけたとき、頭の中だけで理解していた(つもりになっていた)異常は、身に迫る現実のものとなった。
 新しくインプットされた情報どおりの現在の彼。
 昨日までは確かに「彼」だったはずの彼の着ているのは北高のセーラー服、その背にはポニーテールが揺れ、彼は彼女となっていた。

 その衝撃をなんと言ったらいいだろう。きっとどんな言葉を費やしても表現しきれる気がしないし、おわかりいただけないと思う。
 破壊力が二倍だ。賢明な諸氏は疾うの昔にお気づきだろうが、僕は彼に好意を抱いている。
 それは性的な接触もやぶさかではない類のもので、まさか自分が同性の身体にそういった欲望を抱ける日が来ようとは夢にも思わなかった。
 しかしそれはあくまでも彼に関してだけだ。
 他の部分においては、僕は完全にノーマルであると自負している。
 体育のときに同級生男子の着替えに胸ときめかせたりはしないし、露出した女性とすれ違えばつい視線が肌の上を追いかけたりしてしまう。
 であるからして、ただでさえ恋心というフィルターによって興奮を呼び起こす彼が、男の本能として興奮を呼び起こす女性の肉体へと変化した、これはもう興奮しないほうがおかしい。
 こんなに自分に都合のいい幻があるものか。夢であることを疑い、昨日叩かれたのと同じ甲をつねってみたりもした。痛い。
 脳がフル回転を始める。落ち着け古泉一樹、全力で落ち着け。ここは通学路だ。公道だ。深呼吸をしろ。吸って、吐いて。不自然ではない程度に足だけを速めて横に並べ。
「おはようございます」
 奇跡的に裏返らなかった声をかけると、ぴょこぴょこと跳ねていたポニーテールがびくりと一際大きく跳ね上がった。
 ぎぎぎ、と錆付いたオルゴール人形のような動きで首がこちらを振り向く。そんなに嫌そうにされると傷つくんですけれど。
 でも率直に言おう。可愛い。何遍でも言おう。可愛い。それはもうものすごく。
 機関の敵対勢力が僕を篭絡させるために送り込んできた最終兵器だと言われてもうっかり信じてしまいそうなほどの殺傷能力を秘めている。
 別段顔の造りが劇的に変わったというわけではない。特に美少女なわけでもない。
 しかし彼らしさを失わないままで全体的に女性的に、目は大きく、鼻は小さく、唇はふっくらと、小柄な身体をセーラーに包み、とにかく本当に可愛い。
 長い髪は綺麗にさらさら流れ、ポニーテールが実によく似合っている。こんなにいいものだったのか、彼がポニーテール萌えになるのも頷ける。
 いつもの彼も十分魅力的だけれど、更なる魅力が加わって、相乗効果で動悸が激しくなる。どきどきする。なんだろう、こんな可愛い生き物が存在していいのだろうか。ああもう可愛いなあ。なんでこんなに可愛いんですか。
 その可愛い生き物が居心地悪げに肩をすくめて口を開いた。
「……よ、お」
 地を這う蔦のように声を出したところで、普段よりも高く甘い女性の声だということは明らかだ。けれど彼が元々所有していた声に含まれる色気だとか穏やかさだとかは損なわれていない。寝物語を聞かせてもらえたら安眠できそうな、耳に心地のいい声だった。
 据わった目でじとりと見上げられ、首と顎の成す角に、ああ、身長が随分――――と思ったことは黙っておいた。彼、今は彼女か、とにかくかのひとの機嫌を損ねたいわけではない。
 それにしても可愛い。つい顔がいつもの六割増しくらいでにこにこしてしまう。
「大変ですね」
 歩みを進めながらそうねぎらえば、彼は肺の空気を全部使い切ってしまうくらい深々と溜息を吐いた。
「勘弁してくれ。なんだってこんなことに……」
 ふいに見舞われた事態に心底辟易している、といった風情だ。
 隣の男が胸中で僥倖を喜び喝采を送っていることなど思いもよらないだろう。
 ええ、内なる僕がスタンディングオーベーションしていますが、あなたにしたら今すぐ幕を下ろしたいところなんでしょうね。
 歩きながら煩悶するなかなか器用な真似をしつつ、彼が額に手を当てる。
「嘘だろ……そもそもなんで俺が……あああ」
「いつまでも嘆いていても始まりませんよ。とりあえず急ぎませんか、始業に遅れてしまう。昼休みにでも長門さんに詳しいお話を聞くということで」
 こくん、と頷くのにあわせて尻尾が揺れるのがなんともいえず可愛らしい。水色のセーラーカラーを、こんなにも涼しげだと思ったことがあっただろうか。