ここしばらく冬の置き土産のような肌寒い日が続いていたのだが、啓蟄を過ぎてようやく春らしくなってきた、春のうららの、とでも歌いだしたくなるような陽気に恵まれた三月、春休み。
 せっかく学校のほうから来なくていいと言ってくれているものを、なんでわざわざ俺たちSOS団は制服までしっかり着込んで校舎に勢揃いしているのだろう。
 あゝ、ハルヒの召集には逆らえない悲しき団員の務めよ。
 文芸部部室の定位置に腰を下ろした俺の周囲には代わり映えのしないいつものメンバーがこれまた定位置について無表情で本を読んだり見飽きた笑みを浮かべて囲碁の石を弄っていたりエンジェルスマイルで甲斐甲斐しくお茶を淹れてくださったりしている。
 朝比奈さんのご尊顔を拝見できるのは嬉しい限りだが、こう連日ハルヒに引っ張りまわされていると蓄積された疲労にうんざりもしようというものだ。
 春休みというのは、課題の少ないのをいいことに、片付けるタイミングのわからなくなったコタツに入って完熟した蜜柑でも食いながらシャミセンと一緒にぬくぬくとまどろんだり、番組改変期の内容のない特番をなんとなく眺めてだらだらと時間の無駄遣いをしたり、布団に包まって蓑虫の真似をしたりと、一年のうちでもっとも怠惰に過ごすことを許された至福の休暇期間じゃないか。
 それが今年はどうだ、春眠暁を覚えずどころか毎朝何かしらの予定を入れられて、平日より早起きをする日も少なくない。
 つい数日前もこうやって部室に集められ、涼宮ハルヒ超監督に「朝比奈ミクルの冒険」の続編である「長門ユキの逆襲」の予告編を撮ることを宣言されたばかりだ。
 さて、じゃあ今回俺たちを呼び出した張本人であるハルヒの姿が見えないのは一体どういった了見なんだろうな。事と次第によっては今すぐ帰っても構わないんじゃないか。つか帰りてえ。
「涼宮さんは一番最初に部室にいらっしゃって、あなたが来る前に所用を足しに出て行かれたんですよ。すぐに戻ってくるでしょうから、帰らずにここで待っているべきです」
 正面の古泉が黒石を置きながら微笑んだ。
 そこに置く意味がわからない。せっかく黒を持たせてやったというのに、その貯金もあっという間に使い果たすこいつの弱さときたら、もうゲームセンスがないとかそういう次元じゃないな。
 で、ハルヒの所用ってなんだ?
「保健室が開いているかを確認しにいったの」
 なぜかメイド服ではなく、例のウェイトレスの衣装で給仕をする朝比奈さん。
 目の保養になるという点では些かも不都合はないが、朝比奈さんがこの格好ということは、俺たちは撮影のために呼び出されたということだろうか。
「保健室?」
「なんでも、そこで撮りたいシーンがあるそうですよ」
 俺の白石が作った目を残念そうに見下ろした古泉が言う。
 やっぱり撮影関係か。
 俺は溜息をつきながら、奪った黒石を碁笥の蓋の上に置いた。
 カラン、と音がしたその一瞬後に、部室のドアが勢いよく開け放たれた。
 春一番(モノマネ芸人ではない、念のため。したがって顎がしゃくれていたり拳を天に突き上げたりしたわけではない)のように入ってきたのはいわずと知れた涼宮ハルヒである。
「みんな、移動するわよ!」
 団長の机の上からメガホンを掴むと、ハルヒはぐるんと振り返って監督というよりは傲岸不遜な大御所女優の表情で一同を見回し、号令をかけた。
 もちろん、それに逆らえる人間などこの場にいやしない。
 というかそんな人間はそもそも最初からここにこないで、家のリビングで寝っ転がってバラエティ番組でも見てるだろう。そういうものにわたしはなりたい。
 しかしイーハトーヴは現実にはない理想郷なのである。
 したがって俺は暴風雨のようなハルヒパワーには負け越しており、今回も古泉と手分けして碁石を片付け、椅子から立ち上がった。
「キョンはこれ持って」
 てっきりカメラを渡されると思ったのだが、ハルヒが押し付けてきたのはでかい紙袋だった。
「なんだこれ」
「保健室についてからのお楽しみよ」
 楽しみに出来るようなものが入っているとは到底思えないがな。
 お馴染みになったカメラは、俺ではなくなぜか長門へと譲渡される。
 そういや今日の長門は朝比奈さんと異なり魔女の格好をしてはおらず、制服のままだ。
 ということは本日撮影分にユキの出番はないということなのだろう。
 メガホン片手に張り切るハルヒを先頭に、朝比奈さん、長門、少し離れて俺、そして俺と同じく紙袋を持たされた古泉が続く。
 熱心な運動部が活動している掛け声が風に乗って聞こえてくるが、彼らの次に活発なのが我らSOS団なのではないだろうか。
 なにせ毎日のように東奔西走、ハルヒの引く綱に引きずりまわされているからな。
 それこそ東に病気の犬がいれば行って解決してやり、西に疲れたコンピ研があれば行って下僕のようにこき使い、南に幽霊の目撃情報があれば行って怖がるどころか大喜びで探し、北に喧嘩があれば面白いからとさらにけしかける、そういうものになっちまっている。
 なんて迷惑な集団なんだ。
「あなたもその集団の一員だということをお忘れなく」
 迷惑集団の副団長を任されている男が言った。息がかかるからもう少し離れろ。
「……強烈な記憶過ぎて忘れたくても忘れられねえよ」
 手に持った紙袋が古泉のそれとぶつかった。