え、と思った瞬間にはもう、俺は膝をタイルにしたたか打ち付けていた。
 とっさに両手をついて四つんばいのような格好になり、そのまま倒れこむのはなんとか回避できたがかなりつらい。
 ザァザァと降り注ぐ湯が、短い前髪の先から途切れることなく滴り落ちる。
 込みあげる強烈な吐き気に、慌てて手で口元を覆う。
「ぅ……」
 視界がマーブル模様を描き出す。やばい、これはやばい。吐く!
 乱暴にシャワーを止め、俺はずぶ濡れの身体を気にしている暇もなく、転がるように風呂を出た。
 ユニットバスだったらそのまま便器に吐けたのにな。
 とりあえず俺は目に飛び込んできた洗面台のふちにつかまって、胃の中のものを逆流させた。
 あまりの苦しさに涙が浮かぶ。肺も胃もぎりぎり絞られてるみたいだ。
「……っ……は、はぁ……はっ……」
 身体は正直って本当だな。
 どんなに虚勢を張ったって、俺の身体は騙されちゃくれなかったってことだ。
 それでもなんとか吐き気を宥めすかし、やがて治めると、手のひらで水をすくって口を濯ぐ。
「はぁ……」
 ぶるりと身体が震えた。そういえば裸のままだった。しかも拭きもせず出てきてしまったんだった。盛大に床を濡らしている。
 俺はタオルを探したが、あいにく見当たらない。
 とにかく風呂に入ることだけを考えていたから、あがった後の具体的なことは頭の中から抜け落ちていたのだ。
 古泉に頼んで持ってきてもらうしかないか。
 それと着替えも……ああもう本当に俺は古泉に迷惑をかけっぱなしじゃないか!
 自分で自分が嫌になる。情けない、情けないぞ俺。もう少し頑丈だと思ってたんだがな。
「っくしっ」
 しかしいつまでも自己嫌悪に浸ってもいられなさそうだ。
 風邪をひいたりなんかしたら、余計に迷惑をかけることになる。ああくそっ。
 思い通りにならなくて、うまくいかなくてもどかしい。
 誰かを思っての行動が単なる自己満足と化し、かえって誰かの足を引っ張る、これだから人間関係ってやつは。
 俺は濡れた頭をがしがしと掻き、意を決して廊下へと通じるドアを開けた。
「古泉、あのさ……」
 返事はなかった。
「古泉?」
 俺はもう少し大きな声で呼んでみる。やっぱり返事はない。
 不安が俺の心臓を握りつぶした。
「古泉!」
 ほとんど叫ぶようにして名前を呼びながら、思わず廊下に出てしまう。
 返事どころか気配すらなかった。
 そこは電気がついてはいるものの蛻の殻で、がらんとした空間でしかなかった。
 誰もいない。古泉がいない。
 古泉は、古泉はどこに行ったんだ? 閉鎖空間でも発生して呼び出されたのか?
 俺はおかしなくらい動揺して、古泉の名前ばかりを繰り返した。その全部が壁に吸収されて消えた。
 足元から這い登ってくる不安は、きっと蛇の形をしている。
 そいつが鎌首をもたげ俺の首に牙を突きたてようとしたとき、背後でガチャリと音がした。
 振り返る。
 玄関のところで、ジャージから私服に着替えた古泉がコンビニのビニール袋を提げて立っていた。
「えっ」
「こ、いず……み」
 そりゃ驚くだろうよ、帰ってきたら全裸の男がお出迎えなんだから。
 だが今の俺には古泉の不幸な境遇を思いやってやる余裕なんかまるでなかった。
 自分の感情でいっぱいいっぱいだったんだ。
 俺は衝動に突き動かされるままに古泉にしがみついた。
「うわっ!?」
 古泉の服が濡れるかもとか、俺が裸だとか、そんなことも全部吹っ飛んでいて、ただ古泉の存在だけを求めていた。
「え、ちょっ、どうしたんですか! なにかあったんですか!?」
 うるさい俺のことはどうでもいい。
「どこ行ってたんだよ……っ」
 なじるような口調になってしまい、古泉は驚きを継続させながらビニール袋を軽く持ち上げた。
「あの、あなたの着替えを、と思って……服は僕のがありますが、さすがに下着はそれじゃまずいでしょうし……その」
 あなたがシャワーを終えるまでには帰ってこれると思ったんですが、と続けた古泉の声はどこか焦っていた。
 俺はそれを聞きたくなくて、濡れた額を古泉の胸に押し付けた。
 ちくしょう知ってたけどお前背高いな。