腹が満たされれば次に眠気がやってくるのが定石だが、午前中惰眠を貪ったのに再び横になるのはなんとなく気が引けてしまい、俺は潔くベッドに別れを告げることにした。
 なんせ今日は平日だ。一般の高校生は勉学に励んでいるお時間なのだ。
 それなのに自分はだらだらと怠惰に過ごしてるなあ、という後ろめたさのようなものがあったのと、ただでさえあまり成績が良くないのに授業一日分遅れたら追いつくのが面倒くせえなあ、と思ったのと、他人の家で特にすることのない居心地の悪さが手伝ったせいもあって、だからだ。
「古泉、お前ヒマ?」
 長門が乗り移ってるんじゃないかと思うくらい読書に没頭中の古泉に声をかける。
 その本、そんなに面白いなら教えたらいいんじゃないだろうか。や、俺じゃなくて長門に。
 古泉は栞も挟まずに本をぱたんと閉じた。その顔にはいつもの爽やかスマイルが張り付いている。
「ええ、まあ、特にこれといってすることもないですが」
 なんでそんな持って回った言いかたをするのかね。ヒマです、の四文字ですむのにな。
 俺は単刀直入タイプなので率直に言うぞ。
「勉強教えてくれないか」
 悔しいが古泉は俺より遥かに成績がいい。
 以前の俺なら古泉に教わるのはプライドも邪魔して甚だ不本意なのだが、家に泊まってしまった今、それに比べれば勉強を教えてもらうくらいがなんだ。毒を食らわば皿まで。
「いいですよ」
 にこりと笑う。いつもの古泉だ。なのに何かが引っかかる。
 何が引っかかっているのかわからないから気持ち悪い。ただでさえキモイ笑顔が更にキモイ。
 しかし一宿一飯の恩人にそんなこと言えやしない。俺はそこまで恩知らずではないつもりだ。
 よって俺はその違和感を流すことにした。どうせたいしたことじゃないから気にするな、と思った。
 それはもしかしたら、これ以上傷つくことを拒んだ俺の、無意識の防衛だったのかもしれない。
 そのまま気づかなければよかった。
 ――――古泉が俺を避けているだなんて。

 透明な棘に似た奇妙な不安を漠然と感じながら、俺は古泉に数Aを教わっていた。
 一般に数学は女より男のほうが得意だというが、俺とハルヒなら女のハルヒのほうが数学を得意としている。
 というかハルヒは数学に限らずほとんどの教科で俺の上をいく。
 決して真面目に授業を受けているようには見えないんだが、それでも成績が良いんだから神様ってやつは不公平だ。
 しかし古泉に言わせりゃその神様イコールハルヒであるからしてハルヒは「平等」という概念から見事に外れているからこれは当然の帰結なのかもしれん。
 ……などと俺は不毛な言葉をつらつらと並べて現実逃避していた。
 何故なら目の前に広がる数字の羅列がさっぱりわからんからだ。なんだこれは暗号か。どうやって解くんだよ。
「ですからこう……」
「待てよ、じゃあこっちは……」
「いえ、それはさっきの式を当てはめて」
 俺たちは隣り合って直接床に座り、足の低いテーブルの上に教科書を広げて覗き込む。
 古泉の整った顔に浮かぶ笑みは、すっかり見慣れたもので、なんらおかしなところなどないはずだ。
 違和感が心の中でどんどん膨れる。無視させまいと警告音を鳴らしてくる。
 消しゴムがテーブルから転がり落ちた。
「あ」
「ああ、いいですよ僕が……」
 古泉がテーブルの下から消しゴムを拾い、俺に手渡した。
 指がどこにも触れないように気をつけて。
「どうぞ」
 俺は礼を言おうとして出来なかった。
 古泉は特に気にしたそぶりもなくテーブルに向き直る。気づかれているなんて思いもよらないのだろう。
 だが俺はわかってしまった。
 古泉はいつもの古泉だ。
 昨日の、泣いたり焦ったり怒ったり忙しかった、仮面の剥がれた古泉ではなく、それ以前の古泉に戻っている。
 それなのに、いつものように気色悪いほど顔を近づけたり身体を摺り寄せてきたりはしない。
 俺と一定の距離を保ち、バリアのように笑顔を貼り付け、全身で俺を拒絶していた。