ぺたんと座ったまま、しばらく放心していた。雨の気配を感じて顔を上げる。
 涙雨ってやつかな、ぽつぽつと窓ガラスを濡らす。
 この期に及んでまだ、古泉、傘持ってっただろうか、なんて考えてしまう俺は末期だ。
 心配する必要はない。あいつならどうせ車だ。
 俺は腰を上げて洗面所に向かった。
 顔についた精液を流そうとしたが、シャワーのほうが手っ取り早いと思い直し、勝手に使わせてもらうことにする。ついでに身体も洗ってしまえ。
 いつの間に用意したのか、昨夜と違ってタオルと着替えが籠にしっかり置いてあるのを見つけ、複雑な気分になった。
 古泉の馬鹿野郎。
 俺も大概馬鹿だけどあいつも相当だ。
 俺はもやもやした感情を抱えたままシャワーを勢いよく出して、汚れた顔を洗った。
 とんでもないことをしちまったという思いはあれど、たぶんあのときの俺は、ああすること以外ぶつけかたを思いつかなかったんだとも思う。
 自分の感情の振幅が大きすぎて測りきれなくて、振り回されてへとへとになる。
 古泉からしてみればえらい迷惑な話だろう。
 一方的に八つ当たりみたいにぶつけられて、ああ、本当に全部俺からの一方通行。空回りしまくっている。
 嫌だ嫌だばっかりでこれじゃガキだ。おいおい、我侭はハルヒの専売特許だったはずだろ。
 出口の見えない、超絶難解な迷路に迷い込んでるみたいだ。しかもミラーハウスな。
 どれが自分の本当の気持ちなのかわからなくなる。
 全部が全部俺なのかもしれないし、全部偽者なのかもしれないし、手を伸ばした空間には何もなかったり、鏡に映って歪んだり、掴みかねている。
 ただ確実に言えるのは、俺はまだ古泉の家に居たいということ。
 結局行き着くのは、俺はもう少し古泉のそばにいたいということ。
 未だ鬱血の痕の残る身体を洗う。熱のせいで汗をかいていたのでボディーソープも勝手に使った。シャンプーも同様に以下略。
 なんだこの無駄にフローラルかつ爽やかな香りは、男が使うものじゃないぞ。こういうのは可愛い少女が使うべきで、だがそんなものが似合ってしまうのが古泉の古泉たる所以なのだろう。
 香りにリラックス効果でもあるのだろうか、俺は煮立っていた頭が少し冷えて、古泉が帰ってきたら腹を割って話そうと思った。
「だから早く帰って来いバカ古泉」

 風呂から上がり、俺はソファにもたれながら古泉を待った。
 雨脚はさっきより強くなっている。闇もその濃さを増して、俺の不安と比例していく。
 遅いな、そんなに巨大な閉鎖空間だったのか?
 俺は待ってる間の暇を潰そうと、というか不安を忘れようとテーブルの上にあった本を手に取った。
 古泉が空腹も感じず夢中で読んでたやつだ、面白いに違いない。
 ぱらぱらとめくる。小難しい推理小説のようだ。
 事件が起こる前に古泉が帰ってこないかなと思ったが、読み進めても玄関のドアが開くことはなかった。
 それにこの小説、つまらなくはない、面白いのだろうが、そこまでのめり込むほどかと言われると首を傾げざるを得ない。
 とうとう探偵役が謎解きを始めてしまった。
 古泉のやつ、いくらなんでも遅すぎないか?
 日付はとっくに替わってしまって、最後まで読み終えて「わかってみれば案外単純なトリックだったわけね」なんて感想を持つ。
 その後、知らないうちにソファでうつらうつらしていたんだろう。
 ドアの閉まる重たい音で覚醒した。げっ、朝の五時!?
「――――こいずみ……?」
 ふらふらと疲れた様子で古泉が入ってくる。
 濡れてはいなかったが髪の毛は心なし乱れているし足取りも危うい。
 その尋常じゃない姿に出端をくじかれ、俺は言おうと思っていた言葉をとりあえず全部飲み込んだ。
 それよりも今はこいつを休ませることが先決だと判断したのだ。
「……帰っていなかったんですか」
 常より低い声だった。目に宿る色は鋭く暗く、俺を突き刺した。
 そんな目を向けられるとは思っていなかった。絶望が心を塗りつぶしていく。
 ああ、もう、駄目、なんだな。
 わかった、と言うつもりで、俺は立ち上がって古泉に近づいた。
「忠告しましたよね」
 古泉が疲れきった笑みを浮かべる。
「わかったから……お前、休んだほうがいいぞ」
「結構です」
「だってふらふらじゃないか。寝ろよ」
 思わず差し伸べた手を、古泉は振り払った。
「――――っ、あなたが寝たあとのベッドに寝たくないんですよ!!」
 意味の理解を脳が拒否するぐらい衝撃的な言葉だった。