しくじったな、と憂鬱な思いでベッドに背中を埋める。
 個室には病院特有の匂いが立ちこめていて、窓を開けたいのだが外の暑さがそれを躊躇わせた。季節は夏――――七月の半ば、大学生にとっては夏休みに入ったところである。
 高校を卒業してはや四ヶ月。高校二年辺りから安定の兆しを見せていた涼宮さんの力はそのままゆっくりと水面に羽が着地するように落ちついて、閉鎖空間に駆り出されることもなくなって久しい。
 北高卒業後、SOS団はみな違う進路を選び、それぞれの道を歩み始めた。朝比奈さんだけは、北海道の家政大に行ったことになっているが実際は未来へと帰っており、近況を知りようがない。
 僕はといえば、私大の学生として、割と多忙な日々を送っていた。まあ、そうは言っても、何足もの草鞋を履いていた高校のころの忙しさとは比べるべくもないが。
 そして三ヵ月があっという間に過ぎ、夏休みがやってきて、その初日――――つまり昨日だ。
 僕は取り返しのつかない、失態を、犯した。

 昨日の朝、僕はいつも大学がある日と同じように目が覚めてしまった。今日から夏休みなのだと思いだし、ほんの少し損をした気分になる。早起きは三文の得と言うのにおかしな話だ。
 SOS団にならって、この夏休みにしないといけないことを、ざっと頭のうちに思い描いてみる。夏休み明けに提出しなければいけないレポート課題がいくつかと、そのための資料集め、誘われていた飲み会への顔だし、機関への業務指示。どれもこれもたいしたことはない。
 一万回以上も繰り返したあの夏休みを筆頭に、高校時代の夏休みは毎日のように予定があった。それを考えれば、今年の夏のなんと暇なことか。自由に使える時間が有り余っている。
 そうなると、次に何がしたいか、ということになってくるわけだが。
「……会いたいなあ」
 本音がころんと結晶になってこぼれ落ちる。
 『彼』に、会いたい。
 僕たちは別に付き合っているわけじゃない。どころか僕は彼に想いすら告げていない。友人として許されていた距離が心地よくて、そこから踏み出す勇気が僕にはなかった。
 卒業した今は、数少ない接点を繋げようと必死だ。なにせ同じ学校同じクラブというアドバンテージを失ってしまったのである。こちらから積極的に約束を取り付けて、なんとか会ってもらっているが、高校のときのように毎日とはいきかねる。週に一・二度がいいところだ。
「お前さあ、俺とばっか遊んでていいのかよ。サークル入ったりとか……その、彼女とか作んねえの?」
 そんな切ないことを言われてしまったこともある。あなたはどうなんです、と訊けば、いたらお前とこうしてねえよ、と返ってきて、僕はこっそりほっとした。
 彼の大学も夏休みに入ったはずだ。誘ってみようか。口実は何がいいだろう、映画? 買い物? 多分、彼はまだ寝ているだろうから、お昼前くらいのほうがいいかな。
 朝食を食べコーヒーを淹れて洗濯機を回し、のんびり11時を待った。そうして、期待と緊張でどきどきしつつ電話をかけたのだが
「……古泉? あー、うん。今日? これから? あー、すまん、今日は無理だ。つうか、バイト始めることにしてさ、だから夏中はバイト入れちまってるんだよ」
 ――――撃沈。
 それはまさか、今日だけではなく夏中会えないということですか?
「いや、毎日入れてるわけじゃないぞ。週5だ。土日は休みだし、時間も午後からの6時間だし」
 それでは夜なら、週末なら誘っても大丈夫だろうか。
 お盆には田舎の祖父母の家に行くという彼の事情を踏まえて頭の中で計算機を弾いていると、「悪い、時間ないからまたな」と電話を切りあげられてしまった。
 さて、どうしよう。テーブルの上には、近くの映画館のホームページが表示されたノートPC。時間が空いてしまったし、せっかくだから周辺の喫茶店でもリサーチしに出かけようかと腰を上げる。ついでにお昼も食べてこよう。
 小さなカバンに財布と携帯、文庫本を入れて、僕は外に出かけた。

 ……この喫茶店は当たりだった。値段が手ごろなのに、もっと高い店と比べても味に遜色がない。品数はさほど多くはないが、そのぶんお薦めの一品にこだわりがあるタイプの店のようだ。映画後の軽食にちょうどいい。
 今度彼を誘ってみよう、彼もきっと気にいってくれるはずだ、とほくほくした気持ちで店を出て、駅前の階段を上りかけ。
 上のほうから、きゃあああっ、という、女性の大きな悲鳴が聞こえた。人が宙に浮き、転がり落ちてくるのが見えて、咄嗟に手を伸ばして掴まえる。ぐん、と腕に負荷。
「くっ……」
 受け止めた身体は加速がついてずしりと重く、神人の攻撃を食らったときの衝撃を思い出した。
 そしてここは力を発揮できる閉鎖空間ではないどころか、きちんとした足場もない階段の上で、おまけに僕は彼のことを考えていて気が緩んでいた。当然の如く、僕は女性を抱えたまま階段を落ちた。ぐるん。
 さようなら僕の人生―――とまではならなかったが、さようなら僕の夏休み――――にはなった。
 申し訳程度に受け身はとったが頭から左側を打ちつける形で落ちたため、脳震盪、左腕左踵骨折、全治二カ月、入院一カ月の診断を下されてしまったのだ。つまづいて足を踏み外したという女性を無事助けられたのはよかったが、こんな怪我では彼を映画や海に誘うどころではない。
 ああ、本当に……しくじった。


 助けた女性が救急車を呼んでくれた。頭の血管を切ったため、結構派手に出血してしまった(見た目ほどひどい怪我でなかったのだが)うえに、脳震盪で気を失っていたので、死ぬと思われたらしい。
 救急車の中で目が覚め、機関のつてのある病院を指定して運んでもらった。病院でレントゲンを撮り、医者から説明を聞き、頭を打ったため経過を見たいのと腕の骨折は不便だろうからとのことで入院となり、申し訳ないが森さんに必要な荷物等持ってきてもらって手続きを済ませた。包帯をぐるぐる巻いた僕の頭を見て、流石の森さんもお小言をひっこめた。
 白いベッドの上での一夜が明け、……そして今、やることもなく一人きりで暇を持て余しているというわけだ。
 個室なのは気楽だが、寂しくもある。こういうときどうやって時間を潰せばいいのだろう。世の入院患者というものは何をしているんだ? 持ち込んだノートパソコンを開く気にはいまいちなれないし、TVはあるが、つまらなくてすぐに消してしまった。
 森さんに頼んで本でも持ってきてもらおうか。いや、自分で売店に行って雑誌を買ってこようか。
 ベッドサイドに立てかけてある松葉杖に目をやるも、立ち上がるのも億劫に感じる。痛み止めの薬のせいで若干眠かった。
 いいや、寝てしまおう。

「……ん」
 顔に西日を感じて目が覚めた。カーテンを閉めないで寝ていたので眩しい。夏の日は長く、六時を過ぎているというのにオレンジの日差しが明るかった。
 しばらくして、看護師さんが夕食を持ってきてくれた。六時半。病院の食事の時間は早いと言うがその通りだ。
 食べ終わって片づけが終わり、また空白の時間ができてしまう。今度は眠くないのでひたすら思考する。
 涼宮さんがイギリスにホームステイ中なのは幸いだった。今は涼宮さんの力は落ち着いているとはいえ、団員が階段から落ちて頭を打ち、入院する、というシチュエーションは彼女の心をいやおうなしに揺さぶったことだろう。世界への何らかの影響がでないとも言えない。
 機関の人員をイギリスへと派遣し監視しているが、涼宮さんは異国の地での生活を楽しんでいるようだ。せっかく満喫しているものを、わざわざ水を差す必要はない。
 では、その他の問題点になりそうなところを潰していこうか――――まず、機関からの報告はパソコンのメールで受け取れるし、こちらからの指示もしかりなので特に不都合はないだろう。夏季休暇中なので大学欠席の心配もしなくて済む。機関の息のかかった病院なので、何かあったときにも融通がきく。
 大学の友人たちに連絡……は、いらないか。見舞いを催促しているようだし、実際見舞いに来ると言われても色々面倒だ。
 ただ、「彼」にだけは……すべきなのだろうか、やっぱり。
 黙っていて後から知られたら、何故言わなかったと怒られそうではある。彼に心配をかけたくないという思いと、彼に心配されたいという思いがせめぎあう。
 それに何より、会いたい。入院している間中会えないなんて拷問だ。会いたい。一月も会えないなんていうのは、彼と出会って以来なかったことだ。絶対に耐えられないと思う。
 電話をしよう、夏休みの間遊べなくなってしまったことをわびて、それから、叶うなら彼に見舞いに来て欲しい。病院では携帯電話は電源を切っているので、電話をかけるなら、病室の外の公衆電話のところまで行かなくてはならない。ベッドから降りようと松葉杖に右手を伸ばしかけ、コンコン、というノックの音で止める。
「はい?」
 看護師さんかな、と思いながら返事をすると、
「入るぞ」
 ありえないはずの声がした。だってまだ、僕がここにいることを教えてはいないのに。彼だった。
「どうして、あなたが、」
「森さんが教えてくれた。これ、見舞いな」
 うろたえて掠れた問いに、彼がそう答えて手に持ったものを差し出した。それは一輪の花だった。
「デイジー……? ですか?」
「ああ。一本で悪いが」
 寝てろ、と僕を制し、病室内にあった花瓶を持って、同じく病室内の入ってすぐ右にある洗面所で水を入れ、それにデイジーを挿してベッドサイドテーブルに置いた。
「これでよし。やっぱ一本じゃ見栄えはしないな……」
 そんなことない。ほわん、と、まるで灯りでもともったような気がした。
「あの……ありがとうございます。わざわざすみません。もしかしてバイト帰りですか?」
「うん、終わってそのまま来た。本当は昨日来るつもりだったんだが、バイト初日だったから時間が長くてさ。面会時間過ぎちまうかなと思ったから。しっかし、お前……」
 僕の姿をじっと見て、
「満身創痍って感じだな。大丈夫か?」
「大丈夫です。見た目ほどひどくはないんですよ」
 頭には包帯、頬には小さな擦り傷、左手にも包帯、足は布団で隠れているが踵に包帯。確かに、ぱっと見た限りではおおごとに見えるかもしれない。けれどどれも、怪我の程度自体は軽いものなのだ。それが長期入院に至ったのは、僕の背景がやや特殊なためというのが大きい。
「そうか? まあ、なんにせよお大事にな」
「はい」
 彼が来てくれたことが嬉しくて、頬が緩んでしまう。現金なものだが、沈んでいた気持ちもたちまちふわふわと上昇した。
「んじゃ、顔も見れたし帰る」
えっ、もうですか。
「長居してもしょうがないだろ。なんだ、寂しいのか?」
 悪戯っぽくにやりと笑う顔に、そうですけど、と返したのはほとんど無意識だった。彼は驚いたように目を丸くした。
「……そ、か。まあ、なんだ、明日も来るよ。バイト先近いしさ、帰りならまいんちでも寄れるから。あ、もちろんお前さえよければだが」
 なんという僥倖だろうか。彼のバイトのせいであまり会えなくなったと思っていたのに、彼のバイトのおかげで毎日会えるかもしれないとは、まさに人生万事塞翁が馬だ。僕さえよければ? そんなものいいに決まっている。
「嬉しいです。寂しくて夜眠れないかもと思っていたところだったんですよ」
 気づかれないようにわざと本音を冗談にブレンドさせて出すと、彼は予想通りにそのまま冗談として受け取ってくれたようで、あーはいはい、と軽く流した。
「じゃあまたな」
ええまた明日。……今夜は幸せな気分で眠れそうだ。


 次の日から、彼はバイトのある平日はついでだからと毎日来てくれるようになった。そして決まって、花を一輪持ってくる。それは小さなひまわりだったり、ピンクのバラだったり、トルコギキョウだったりと、様々だった。
 花瓶の花は増えたり減ったり、夏の花は数日で傷んでしまうので、彼はこまめに花瓶の中身を変えてくれた。
「そういやさ、お前、洗濯とかどうしてんの? メシは病院が出してくれてんだろうけど」
「それも病院にやってもらっていますよ。機関と繋がりのある病院なので、便宜を図ってもらっています」
「へー。そりゃ至れり尽くせりだな」
 面会時間の制限の関係もあって、いつも彼はすぐに帰ってしまうのだが、こうして毎日会えるだけでも幸せなことなのだ。ときどきオセロに付き合ってくれたりして、なんだか高校のころに戻ったようで懐かしかった。
「懐かしいつっても、ほんの数ヶ月前だろ」
 パチリ。盤上は圧倒的に黒優勢だ。
「ああでも、この展開は懐かしいかもな? お前、相変わらず弱い」
 にっと笑うその顔を、好きだ、大好きだと思った。
 でもそれを伝えてしまったら、彼はきっとこうやって来てはくれなくなるだろう。