何かが起こっていることは確かだ。俺はちらりと後ろの席を気にした。おそらく全ての元凶であろうと思われるハルヒは、岡部よりほんの少し先に教室に滑り込んできたかと思うと一時間目早々から机に突っ伏して寝ている。羨ましい。俺は頬杖をついて溜息もついた。
　とりあえずこの後の十分休みでもいいから長門のクラスに行ってみよう。自分の身に何が起きているのかもよくわからんままじゃ気持ち悪い。
　黒板に白墨がぶつかるカツカツいう音と、教師の読経のような声が教室に響いている。こうしてると通常の授業風景なんだがな……教師が一切俺に当てないのと、女子がチラチラ盗み見てくるのはいささか気になるが。
　しかし、こういうときに限ってと嘆きたくなるが、教師はチャイムが鳴ってもキリのいいところまで終わらせたいからと授業を続けた。ようやく教師が授業の終了を告げ日直が起立礼の号令をかけるころには、廊下にはすでに休み時間に入った他のクラスの生徒のざわめきが満ちていた。
　十分休みが半減して五分しかなくなってしまったが、長門のクラスに向かうべく教室を出ようとし……た出鼻をくじかれた。
「キョンくん、この子たちが呼んでるよー。キョンくんに用があるんだって」
　ドアの近くの席のクラスメイトが、声を張り上げて俺を呼んだ。ドアの横には見たことのない女子が二人立っていて、そのうちの一人はもう一人のほうの背中にやや隠れがちにもじもじと俺を見ている。
「ひゅー、キョン、また告白かよ」
「なんでお前ばっかりモテるんだ！」
　教室の中で男子の野次が飛び交ったが、俺はこの憧れのシチュエーションがハルヒの力によるものであり、俺に本当にモテ期が到来しているわけではないとわかっているため、ちっとも嬉しくない。むなしいだけだ。しかし呼ばれているのに無視するわけにもいかんだろう。
　俺は複雑な気分でドアのところへ行き、さて彼女たちに何を言ったものかと思ったところで――――横から手首を掴まれた。
「へっ」
「すみません、彼はお借りしますね」
　俺の手首を掴む手の持ち主である古泉は、女子二人にそう断りを入れた後、その場の誰にも有無を言わせずぐいぐいと俺を引っ張って歩き出した。
「お、おい」
「お話があります。あなたも知りたいことがあるのではないですか。それとも、今の女子に告白されてみたかった？」
　別にそんなことはない。あ、念のために言っておくが今の答えは後者の件についてだぞ！
「……つうか、授業始まるだろ。もう三分もないぞ」
　カップラーメンも作れなけりゃウルトラマンだって怪獣を倒しきれん時間しか残されていない。
「大丈夫ですよ、あなたのクラス、二時間目は自習になりますから。僕のクラスもね」
　古泉は振り返りもせずにそう言った。機関の根回しってやつか。
　そのままずんずん引っ張られて、ＳＯＳ団の部室に連れ込まれた。
「――――長門！」
　いてくれたか。
　長門はいつもの窓際の席に座って本を膝の上に広げてはおらず、部屋に入ってすぐのところに待ち構えていたかのように立っていた。
「あなたの尋ねたいことはわかっている」
　さすが長門さん、頼りになるぜ。ところで古泉、お前いつまで手首を掴んでるつもりだ。
「これは失礼」
　古泉はゆったりと笑って手を離した。あーあ、ちょっと赤くなっちまってるじゃねえか。
　長門は黒蝶貝みたいな目を俺の手首に向けていたが、
「……昨夜一時、軽度の情報の改変が観測された。その中心にいたのは、あなた」
　長門は淡々と続ける。
「現在、あなたは多くの人間から好意の対象とされている状態」
　古泉はにやにや笑っている。長門はじっと俺を見つめ、
「わたしも改変の影響を受けている。今、わたしはあなたに好意を抱いている……好きということ」
　マジですか長門さん。そ、それは、なんというか……。いやでもハルヒのせいだしな。ごほん。気を取り直して訊く。
「しかしまた、なんだってそんなことに？　ハルヒのやつ、ハーレム系ラノベでも読んだのか」
　特に取り柄のない主人公が特に何かをしたわけでもないのになぜかやたらめったら美少女たちに好かれるやつな。そこで古泉が口を挟んできた。
「おそらく涼宮さんは、こう考えたのですよ。自分が好きになるくらいのあなたなのだから、他の人間が好きにならないはずはない……とね」
　発想が飛躍しすぎてついて行けん。もうちょっと地に足を着けたおそらくにしてくれ。そもそも前提がおかしい、どっから出てきたんだそれ。だいたい、それならハルヒの態度もどこかしら変わってるもんなんじゃないか？　長門が影響されるくらいなんだからさ。だがあいつはいつも通り、いや、むしろ微妙に俺を避けてる感じだったな。そういえばおはようさんを言う暇もなく岡部が入ってきてしまったし、授業中もあいつは俺にちょっかいを出すことなくずっと机に突っ伏していた。
「で、俺はどうすればいいんだ。どうすればこのおかしな世界が元に戻る」
「……」
　長門は首を古泉の方に向けた。それは、自分の口からは言いたくない、という意思表示のように見えた。古泉はどこか諦めの混じったゆるりとした笑みで、探偵役が解説をするように片手を顔の前で動かした。
「涼宮さんの能力は願望を実現するというものです。涼宮さんは、あなたに言いたいことがあるのでしょう。彼女が望みをかなえれば、事態は収束します」
　俺に言いたいこと？　なんだそれは。
「告白ですよ。あなたが好きだと伝えたいのです」
　君が好きだと叫びたいってか。お前のその手の話はそろそろ聞き飽きた。俺にアイラービューと囁くハルヒなんざ想像もできんね。ふん。
「あなたはそう仰いますが、僕は自分の推理になかなかの自信がありますよ。今朝も手紙を貰っていらっしゃったでしょう？」
「……見てたのか」
「ええ、まあ。先ほどの告白にいらしていた女生徒もそうですが、ああいう風に、大勢の人間があなたを好きになり、あなたに告白するのが当然の世界ならば、涼宮さんもあなたに告白がしやすくなるでしょう」
　ご高説結構だが、それよりも俺には気になることがある。
「なあ古泉、さっきから気になっていたんだがな」
「はい、なんでしょう」
「なんでお前、そんな顔してんだ」
「そんな顔……と言いますと」
　すっとぼけんなよ、自覚がなかったとは思えん。お前、解説中ずっと笑顔に失敗してたぞ。
「それはそうでしょうね。……僕もあなたのことが好きなんですから」
　なんだ、お前も谷口や国木田みたいに俺の心の友だか親友だかのポジションに納まりたいのか。それなら安心しろ、俺はお前のことちゃんと仲間だと思ってるから。
「いえ、違います。僕がなりたいのはあなたの恋人ですよ」
「は」
　まったく無防備なところにシュートを決められて一歩も動けなかったゴールキーパーのようになった。
　だが、よく考えれば長門ですら俺を好きだと言うくらいの強力な世界改変である、古泉も影響されていておかしくない。
「そう、これは仕方のないことなのです。長門さんが抗えないものに、僕ごときが抗えるはずもありません」
　俺はなんとなく先ほど掴まれていた手首をさすった。古泉は諦観の混じった、だがどこか「言ってやった」的なすがすがしい微笑を浮かべた。
「この様子では、朝比奈さんも同様でしょう」
　マジか。朝比奈さんがか。ほう。朝比奈さんがねえ。
「僕と長門さんはともかく、感情を隠すのが苦手な朝比奈さんでは、少々まずいことになりかねませんね。涼宮さんの前であまりあからさまな態度を取って刺激してしまうのは……いや、それとも発破をかけることになるのかな」
　古泉は何やら考え込むと、
「とにかくあなたは、なるべく涼宮さんがあなたに切り出しやすいようなシチュエーションを作るようにしてください。さりげなく話しかけるとか、それとなく二人きりになってみるとか」
　だからその顔で言うなって。
「ん？　どうした長門」
　つとつとと俺のそばまで近寄った長門は、おもむろに腕を広げ、横から俺の腹のあたりにきゅうと抱きついた。
「！？」
「長門さん！」
　何故か俺ではなく古泉が慌てた声をあげる。
「……な、なが、と？」
「我慢ができなかった。……嫌？」
「いや、いや……ではない、かな。うん」
「……」
　きゅう、がぎゅう、へと変わる。あー、なんだろうねこれは、どうしたらいいんだろうね。プレゼントにもらったでかいぬいぐるみに抱きつく幼女みたいなもんだと思えば……。あと古泉の目がじっとりしてきて怖い。
「……そろそろ二時間目が終わりますよ。三時間目は何も手を回していませんので、教室に戻ったほうがいいのでは？」
「あ、ああ。そうだな。……長門も、な？」
「情報操作は得意」
「いや駄目だろ。授業があるなら出ないと」
　そう言うと、長門はいささか名残惜しそうに腕を離した。
「……また、放課後に」
「ああ。またな」
　ていうか長門って授業出てるんだろうか。ノートなんか取る必要ないだろうし、席について微動だにせず黒板を見つめていそうだ。はあ、やれやれ。
　教室に戻るべく階段を下り、
「もし……」
「んあ？」
　少し後ろを歩いていた古泉が言った。
「もし、僕が先ほどの長門さんのように行動に移したとしたら、あなたは許してくれるでしょうか」
　ぐい、と引っ張られたかと思うと、階段の影に引きずり込まれ、背中に壁の硬さと冷たさを感じた次にはもう、唇に何かが触れていた。
「んっ……！」
　あまりにも突然すぎて、俺は目を白黒させるしかない。古泉の端正な顔のどアップがあって、さすが美形はアップにも耐える。こいつなら地デジになっても大丈夫だ。などと混乱気味に考えている間にし、舌が！　おいこらちょっと待て、待てって、ここ学校だし、うあ、なんだこれやば、やばい。
「ふあ……っ、ん……は、」
　これにキスなんていう生易しい名前をつけて呼んでいいものなんだろうか。ぐちゃぐちゃでとろとろで、熱くて激しくて、混ざり合って溶けて、なにがなんだかわからなくなる、俺の知らない、なんかもっとすごい、とにかくキス以外の何かだ。世の中にこんな唇同士の接触法があるなんてきいてない。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
　息を整えるのも一苦労だった。くそ、涙出ちまった。
「な、長門はここまでしなかっただろうが……！」
「すみません。我慢できなかったんです」
　言葉だけは一見しおらしいが俺は騙されない。古泉の目はぎらついていて、とても今ので満足しているようには見えなかった。ここが学校じゃなくて、古泉が肉食の動物で、俺が餌だったら、頭からがぶりと食われていただろう。
「っ、おま、何考えてんだよ学校だぞ！？　誰かに見られたら……ってなんで嬉しそうなんだよ、この状況で」
「だってあなた、気にすることがそれだから」
「はぁ？」
　古泉はにやける口元を抑えきれないまま「いやあ」と言い、
「長門さんがここまでしていないとか、誰かに見られたらどうするとか、怒るポイントがずれてるなって。僕がキスしたこと自体を怒っているわけではないようなので……」
「……」
　俺までハルヒのおかしな力が効いてるんだろうか。古泉の指摘はもっともだった。そうだ、俺は男に無理矢理キスされたんだから、怒ってもいいんだよ。怒り狂ってなんのつもりだとなじってぶん殴ったっていいくらいなんだ。
　古泉はここでいつものネガティブ思考が過ぎったらしく顔を曇らせた。
「それともあなたは、キスしたのが誰でも怒らないのかな。さっきの長門さんの抱擁がキスだったとしても、あなたは黙って受け入れそうですし」
　いや、だってそりゃ、長門は殴れないだろ！？　仮に朝比奈さんでもそうだよ。ていうかお前、長門や朝比奈さんにキスされて怒る男がいたら逆に見てみてえよ。
　ただ、……一つ言えるのは、これが他の男、たとえば谷口やコンピ研の連中だったら俺は間違いなく問答無用でぶっとばしてるし、国木田だってまずは理由を問いただしたのち返答如何によっちゃぶっとばす。
「ではなぜ僕はあなたに殴られていないんでしょう」
　知るか、自分で考えろ。
「ねえ、僕は期待してもいいんでしょうか？」
　考えたらしい古泉が俺の手を取り、指を絡めてくる。俺はなんとかそれを振り払った。
「するな。お前、これはハルヒの能力による一時的な気の迷いなんだから、これ以上はなにをどうしても不毛なだけだろうが。どうにもならん」
　授業も始まっちまうし、今の出来事はお互いなかったことにしてさっさと教室に戻るべきだ。
「そう――――……そうですね」
　古泉はへたくそな笑顔を浮かべてゆっくりと身体を離した。真に不毛なのは俺の方だ。多分この気持ちはハルヒと関係がない、と気づいたってどうしようもないことに気づいてしまった。
　と、身体を離したはずの古泉が一歩踏み込んだ。
「でも、僕は今、あなたが好きなので。涼宮さんの力のせいでおかしくなっている、苦しい、という大義名分を使って、あなたの同情心や優しさにいくらでも付け込みますよ」
　だから嫌だったらすぐに殴ってください、と低く甘く耳元でささやかれて背筋が震えた。
　欲しいものがあったとして、今だけしか手に入らないとわかっていて、でもそれが今だけでも手に入るなら、俺はその蜜の味が知りたい。二度と味わえないのに甘さが忘れられず苦しむとしても。きっと今が終わった後に残るのは後悔だけなんだろう。
　だが俺は欲望に打ち勝てるほど聖人じゃなかった。古泉は勘違いしているようだが、優しさじゃない、このまま流されたらどうなるのか気になった、そういう破滅的な好奇心だ。
　おかしいな、さっきまでバカバカしいラブコメだったはずなんだが、シリアスになってきたぞ。
　旧校舎の空き教室に二人して飛び込むように入って、抱き潰されるかと思うくらい必死に掻き抱かれた。
「こ、いずみ、」
「好きです……好きです、好き、」
　言えるうちに言えるだけ言っておこう、みたいな感じで古泉はキスの合間に何度も何度も繰り返した。好き、キス、好き、キス、好き、しりとりか。
　二時間目の終わりを告げるチャイムが鳴る。休み時間もすぐに終わって、三時間目が始まるだろう。
　それでも俺たちはひたすらキスをしていた。



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