「香織、辛い事を言うけど落ち着いて聞いて」
自分を見失いそうになった、その時、廉君の声が負の思考からあたしを引き戻した。
ーーー!
あたしったら、今、何を考えていたの?
たとえ記憶をなくしても、抜けない棘のように胸の奥深くで疼き続ける、消すことの出来ない痛みを、あたしは知っている。
大切な事を忘れて、今よりも幸せなはずが無いって、良く解かっている。
それなのに、あんな事考えるなんてどうかしていた。
忘れられるはずが無い。
お父さんの苦しみも、お母さんの悲しみも、双子の姉妹を縛る鎖も…全て忘れて、あたしだけ楽になんてなれるはずが無い。
廉君への気持ちを誤魔化して重荷から逃げたとしても、決して幸せなんかじゃない。
もしも…過去に戻ったとしても、やっぱりあたしはもう一度彼に出逢いたいし、また彼に恋をしたいと思う。
廉君ごめん。
一瞬でもあなたを裏切るようなことを考えてごめん。
不幸な事故ばかり立て続けに起こって、苦しんでいるのは廉君も同じ。
…ううん、きっとあたし以上に心を痛めているはずだ。
護身術とか、身体を鍛えるトレーニングをしていたのは、きっと今回のようなことがいつ起こってもおかしくないからだったって、今ならば解かる。
もしかしたら、彼自身、身の危険を感じた出来事は、過去に何度も経験しているのかもしれない。
きっと小さいときから嫌なこともたくさんあっただろうし、怖い思いもいっぱいしたんじゃないかと思う。
それでもちゃんと現実を受け入れて、自らの宿命と向かい合ってる。
それだけじゃなく、あたしのことまで常に気を配って…。
それなのにあたしは…
一瞬でも逃げることを考えた自分が情けなくて、彼を真っ直ぐに見ることができなかった。
「これからいう三つのことを約束して欲しいんだ。まず一つ、安田さんをお父さんと呼んじゃいけない。この森の中には小村以外にもおじい様の手の者が潜んでいるかもしれない。誰が敵か判らない今、二人の関係を知られるのは危険なんだ」
あたしが自身と葛藤している間も、廉君は真剣な面持ちで話し続けていた。
その内容の深刻さに、あたしには一気に現実に引き戻された。
自己嫌悪に陥っている暇など一秒だってないほどに、状況は切迫していたのだ。
安田さんをお父さんと呼んではいけない。
廉君の言うことは正しい。
既に安田さんがあたしの実父だと知ってしまった人物が逃げている。あたしの血縁を辿っていけば、彼が榊
俊弥である事まで突き止められてしまう可能性は高い。
安田さんの意識が戻っても、二度と父と呼ぶことは出来ないのかもしれない。
彼の正体が明るみに出ることを避けるためには、あたしとの関係を決して外部に知られるわけにいかないのだから。
あたしはじっと安田さんの顔を見つめた。
整形して元の顔はわからないけれど、もしかしたらあたしと良く似ていたのかもしれない。
せめて一度でいい、お互いの顔を見て、ちゃんと向き合って『お父さん』と呼んでみたかった。
叶うことの無いささやかな願いを胸にしまいこみ、心を落ち着かせるために一つ呼吸をする。
これが最後と覚悟を決めて、安田さんの耳元に唇を寄せると、万感の思いを込めてささやいた。
「お父さん」…と。
もしも、あの闇の中を彷徨っているのなら、この声を頼りに戻ってきて。
今度はあたしがあなたを護るから…
お願い。きっときっと還ってきて。
心の中で祈り続けるあたしに、廉君は悲しげな表情をした。
けれど時間は待ってはくれない。すぐに仕事モードの冷静な顔に戻って言葉を続けた。
「香織、君はこの後救急車で病院へ運ばれる。安田さんの事が心配だろうけど、まずは自分の治療をして欲しい」
廉君の告げた『二つ目の約束』に耳を疑った。
片時も傍を離れず安田さんを看病するつもりだったあたしに、その条件が納得できるはずはなかった。
「今は極限状態で痛みもあまり感じないかもしれないけれど、君の怪我は自分で思う以上に酷いんだよ。頭を強打していたり、内臓に損傷があれば深刻な事態になる。安田さんの事は僕の両親に任せて、君はご両親と一緒に医師の指示に従って、きちんと検査を受けて欲しいんだ」
両親と言われて胸が痛んだ。
電車に轢かれそうになったばかりだというのに、無謀にも夜の森に飛び出して、きっと死ぬほど心配するだろう。それなのにこんな怪我をして、ママなんてショックで泣いてしまうかもしれない。
それでも、あたしを庇って瀕死の重傷を負った安田さんを他の人に任せる気持ちにはなれなかった。
「今無理をして後遺症でも残ったら君を庇った安田さんの思いが無駄になる。彼が目覚めたときに安心させるためにも…解かるね?」
あたしに後遺症が残ったら安田さんの思いが無駄になる。
廉君だってあたしの気持ちは痛いほど解かっているのだ。それでも告げなければならなかった苦しみが伝わってくるだけに、その言葉は重く、頷かないわけにはいかなかった。
「…う…ん…そうね、解かったわ。でも検査で問題が無ければ安田さんに付き添っていてもいい?」
「…お医者様が許可してくれるなら構わないけど…。無理はダメだよ? 僕も出来るだけ早く用事を済ませて病院へ行くからね」
「廉君…何処かへ行くの?」
廉君は一緒に病院へ付き添うものと思っていたあたしは、用事という言葉に胸が騒いだ。
この状況下で廉君があたしの傍を離れるとしたら、それはあたしがもっとも恐れる理由のような気がしたからだ。
そしてその予想は見事に的中してしまった。
「僕は小村を捜す」
やはり、と思うと同時に、急激に不安が押し寄せてくる。
小村の狂気めいた視線を思い出し、ゾワリと肌が粟立った。
「本当は君に付き添っていたいけど、あいつを捕まえなければ君と安田さんの安全は確保されないからね。大丈夫、今夜の内に必ず見つけてやるよ」
「…小村を? ダメよ、廉君。危ないわ! あの人、おかしいの。狂っているんだわ」
「狂ってる? だったら尚更野放しにはできないよ。…あいつは生きている限り安田さんを狙ってくる。多分、君のこともね」
ビクリと肩を震えたのを、廉君は感じただろうか。
確かに、生きている限り安田さんを狙ってくる。
でも小村が廉君と対峙すれば、きっと廉君は殺されてしまう。
あの男の狂気を目の当たりにしたあたしにとって、それは確信に近かった。
「あいつは怪我をしているね。血の跡が森の中に続いている。…今ならそんなに遠くへは逃げられないはずだ。必ず捕まえるよ。二度と怖い思いはさせない」
「廉君…お願い、追わないで。あの人追い詰められているわ。何をするか判らない。あたし…怖くてたまらないの。もし廉君にまで何か遭ったりしたら…」
怪我をしているからこそ、あの男は恐ろしいのだと、どうしたら解かってもらえるだろう。
全てを伝えるのは、あまりにも恐ろしくて、あたしは震えることしかできなかった。
そんなあたしを勇気づけるように、廉君はあたしを背中から抱きしめて、あたしの手を包み込むように大きな手を重ねた。
頬に近い位置に顔が寄せられ、廉君の吐息を感じる。
右肩にコトンと顎が乗せられた。
「…小村と何があった?」
とても静かな、単刀直入な問い。
恐れていた質問に、あたしは声が詰まって言葉が出なかった。
解かっている。逃げちゃいけないって。
だけどフラッシュバックする記憶に、悲鳴を飲み込むのが精一杯だった。
飛びそうになる意識。
それを繋いだくれたのは、廉君の強い言葉だった。
「…ねぇ、香織。僕は君が好きだ。誰よりも大切に思っている。君の背負っているもの全てを受け入れてずっと一緒に歩いていたい。何があってもこの気持ちは変わらないよ。だから…だから僕には全てを話して欲しい。君が受けた痛みや苦しみを僕に預けて欲しいんだ」
とても静かな声だった。
だけどその言葉には、とても強い意志が込められていて、恐怖に震えるあたしを奮い立たせてくれる。
「独りで抱えないで。独りで苦しまないで。言っただろう? その心も身体も髪の一房までも君はもう僕のものだって」
この時、あたしは恐怖の根底にあるものにようやく気がついた。
壮絶な暴力も、闇の中で繰り広げられた死闘も、小村の狂気も怖かった。
だけどそれ以上に怖かったのは、廉君があたしから離れていくことだった。
全てを話したら、廉君に嫌われてしまうかもしれない。
それが何よりも怖くて、思い出したくなかった。
廉君という支えを失ったら、あたしの心は壊れてしまう。
あの悪夢に押しつぶされきっと耐えられない。
それが解かっていたから…。
だけど廉君は優しい声で導いてくれた。
「君の苦しみも、悲しみも、痛みも、罪も…全てを受け入れる覚悟はあるよ」
闇の中に一筋の光が降りたようだった。
恐怖で冷え固まった心を、あたたかな毛布が包んでくれる。
彼の心が直に伝わってきて、胸が温かくなっていく。
何も言わなくても解かる。いつものその感覚が胸いっぱいに広がっていった。
あたしの全てを、彼は受け入れてくれる。
あたしの傷も、苦しみも、罪も…
「僕らは二人で一人なんだよ」
廉君の言葉が一つ一つ心に響いてくる。
まだ高校生なのに、こんなにも重い言葉を躊躇無く口にできる彼に、背負っているものの重さを感じた。
彼の置かれた立場の背景には、常に一族の血の不気味な気配が見え隠れしている。
血の鎖はあたしの想像などより遥かに太く、複雑に彼に絡みついていて、まるで大蛇のように、彼をがんじがらめにしているのだ。
それでも廉君はその重さに耐え、更にたくさんのものを背負う運命を受け入れている。
だからこそ、彼はとても自分に対して厳しいし、常に努力を怠らない。
とても大きい…とても強い心を持った人だと思う。
あなたは自分のことを頼りないって言うけれど、そんなことはないよ。
あなたって本当に凄い。
あたしも強くなりたい。
あたしは誰かの枷になって生きるのはイヤ。
廉君の枷になって生きるなんてイヤ。
廉君が『浅井』の重さに耐えているように、あたしの中にも一族の血が流れているというのなら、あたしも…運命の重さに耐えなくちゃいけないよね。
どんなに眼をそむけ続けても、あの恐怖も罪悪感も一生消えないもの。
だったら、あたしが自ら向き合って克服するしかないんだわ。
どんなに辛くても、どんなに怖くても…あたし負けない。
だってあたし何も失いたくないもの。
大丈夫よね。
あたしには廉君がいる。
いつだって信じて、支えてくれている。
廉君が一緒なら、怖くない。
あたしは自分を奮い立たせるように力強く頷いた。
廉君はあたしの気持ちを察したように、キュッと抱きしめる腕に力をこめてくれた。
背中に伝わる熱が気持ちを伝えてくる。
あたしは彼に勇気をもらいながら、ゆっくりと口を開いた。
Back /
Next 執筆中です....φ(・ω・` )カキカキ
Copyright(C) 2010 Shooka Asamine All Right Reserved.
逃げ出したくなって当たり前の状況なのに、頑張って持ち直しましたね。やっぱり香織って強いです。根性あります。
しかし長かった…。書いてて辛かった(涙)
次の章は更に痛くて辛いシーンです。あぁもう書きたくない(T_T) いや、がんばって書きますけどね。進めなくちゃ幸せにしてやれないし。
もうちょっと辛いシーンお付き合い下さい。痛いシーンがあるので、小学生の方は一応ご両親に確認が必要になりますからね〜。痛いの苦手な方もスルーしてください
2010/06/20