暗闇の中、あたしは恐怖で動けないでいた。
怖い…。
怖い…。
何がそんなに怖いのか。
思い出そうとすると、それを拒むように更なる恐怖が襲ってくる。
怖い…。
右も左も上も下も、どこを見ても真っ暗な闇。
目を開けているのか閉じているのかも判らない。
前にも似たようなことがあった。真っ白で眩しくて、やっぱり何も見えない空間だった。
でもなぜだろう?
あの時も一人だったけれど、今のような孤独も恐怖も感じなかった。
どうして今はこんなにも怖いの?
どうして今はこんなにも寂しいの?
何か大切なものを失ってしまったような孤独感は何?
恐ろしいほど空虚な気持ちは何故?
…もしかして、あたし死んだのかな?
このまま闇の一部になってしまうから怖いと思うのかな?
大切な人にもう会えないから孤独を感じるのかな?
もうパパやママにも、廉君にも会えないの?
そんな思いが脳裏を過ぎったとき、ポツリポツリと頬に落ちてくる温かい感覚があった。
ああ…雨だ。
雨が降っている。
空も雲も見えなくて、確かなものは何も無い深い闇の中だけど、頬を濡らす雫の温かさは、確かに本物だった。
あたし…まだ生きているんだ。
雨の感覚に呼び覚まされるように意識が少しずつ鮮明になる。
誰かが頬を伝う雫を拭ってくれている。
香織…と名前を呼ばれた気がした。
とても悲しげな、震える声で。
廉君?
泣いているの?
これは…雨じゃなくて廉君の涙?
どうして泣いているの?
あたしのせい?
あたしが闇の中で動けないでいるから?
ああ…行かなくちゃ。
目覚めなくちゃ。
廉君の重荷になるわけにはいかない。
あたしは…
誰の枷にもならないと決めたのだから。
その瞬間、 グイと意識を引き上げられる感覚があった。
フワリと浮遊感を感じた後、ズシリと身体が重くなる。それが闇から抜け出した合図だった。
目覚めたら、きっと目の前には心配そうに眉を潜める廉君の顔がある。
心配かけてごめん。あたしは大丈夫よ。
そう言って安心させてあげなくちゃ…。
そう思いながら、ゆっくりと重い瞼を開いた。
だけどぼんやりとした視界に最初に映ったのは、澄んだ夜空に煌く無数の星と、闇を照らす銀の月だった。
あれは錯覚だったの? 廉君の声を聞いたと思ったのも、頬を濡らした温かさも、闇が見せた幻だったの?
急激に不安になり身を起こそうとした。
けれど身体は鉛の様に重くて、まるで金縛りに遭ったように指すらまともに動かせなかった。
どうやら酷い怪我をしているらしく、無理に動こうとすると激痛が走る。
でもどうしてこんな怪我を負ったのか。そもそも、なぜ夜の森の中にいるのか、まったく解からなかった。
必死に記憶を手繰ってみても、浮かんでくるのは漠然とした恐怖だけ。
言いようのない不快感から逃れたくて、あたしは救いを求めるように廉君の気配を探した。
身体を動かせないため、意識を集中して周囲を探る。
木々が風に揺れザワザワと葉をすり合わせる音が昼間よりずっと大きく聞こえる。
夜行性の動物達の鳴き声や森を駆ける気配も感じることが出来た。
その中に紛れて誰かの足音が聞こえた。
気配を忍ばせ慎重に歩いているらしく、相手の緊張が伝わってくる。
殺気を感じてあたしは身を硬くした。
足音の主は、あたしとは反対の方向へ進んでいるようだ。
あたしには相手を確認する術は無く、張り詰める空気があたしの中に根付いた恐怖が増幅させ、弱りきった精神は極限まで追い詰められていった。
怖い…。
助けて、廉君。
お願い、傍にいて。
廉君…廉君…廉君…。
気が付けば、あたしは必死に廉君の名を呼んでいた。
ただ、ただ、廉君に助けを求めることで、恐怖に耐えることしか考えていなかった。
相手に悪意があれば殺されるかもしれない状況下で声を出すなんて、自殺行為だとどうして気付けなかったのか。
恐怖はあたしから思考能力を奪い、もはや冷静な判断はきなくなっていた。
声にすらならないうめき声を聞きつけて、靴音が近づいてきた。
正体の判らない影に、ビクリと身体が震えたのを悟られただろうか。
心臓は張り裂けそうなほど鳴っている。
緊張で気が遠くなる。
誰かがすぐ傍で膝をついた。
あたしは失いそうになる意識を保つだけで精一杯だった。
混乱しているためか、現実を受け入れることを拒否しているのか、なかなか視線が定まらない。
あたしを覗き込む人が廉君だと理解するまで、少し時間がかかったように思う。
「傍にいるよ。…大丈夫だ。安心して少し休んでおいで」
優しい声に、目覚めてから初めて心の安らぎを覚える。
あたしは安心して廉君が導くままに瞳を閉じた。
その時だった。
『香織、大丈夫だ。…安心しておいで』
廉君の言葉に誰かの声が重なった。
霞が掛かった記憶の中に確かな声がよみがえり、何か大切なものを失ってしまったような感覚が再びこみ上げてきた。
思い出そうとすると頭がズキズキする。
先ほどより気持ちが落ち着いてきたせいか、それまではあまり感じなかった身体の痛みも徐々に鮮明になってきた。
痛みが現実を…記憶を連れて来る。
あたしは大切なことを忘れている。
あれは誰の言葉だったの?
ーーーーー!
突然、フラッシュが焚かれたように生々しい記憶が蘇り、思い出したくなかった光景が次々と脳裏に映し出された。
それまで漠然としていた恐怖が巨大な津波のように形を成して心を飲み込んでいく。
あれは全部夢だと自らに言い聞かせ、恐ろしい記憶を否定する為に意識が途切れた最後に見た場所へ視線を向ける。
だけどあたしが見たのは、記憶の中と寸分違わぬ光景。地面を染める大量の血の中で倒れる安田さんの姿だった。
受け入れ難い現実の前に、頭が真っ白になった。
そのあとのことは、覚えていない。
気がついた時には廉君に凄い力で羽交い絞めにされていた。
後から聞いた話では、安田さんが死んだと思い込んだあたしは、パニックになり安田さんに縋りいて揺さぶっていたらしい。
その行為は僅かに繋いでいる命の灯を消すに等しいことだ。あの時廉君が止めてくれなかったらと思うとゾッとした。
落ち着きを取り戻した今、あたしは必死に安田さんの止血をしている。
何かをしていないと、また恐怖に飲み込まれて取り乱してしまいそうで怖かったし、廉君に何かを質問されるのが嫌だったからだ。
廉君の視線が痛い。
本当は今すぐにでもあたしを問い詰めて、何があったのかを訊きたいはずだ。
それをしないのは、あたしの身体を労わってくれているのだと思う。
地面を染める血はいったい誰のものなのか。小村がどうなったのか。何故あたしがこんな怪我を負ったのか。
訊きたい事はたくさんあるはずだ。
解かっている。安田さんがこんな状態の今、あたしには全てを明らかにしなければいけない義務があることは。
…頭ではちゃんと解かっている。
だけど思い出すのも、口にするのも怖くて…
できるなら今すぐこの場から逃げ出してしまいたかった。
救急車のサイレンが少しずつ近くなってくる。
静かな山間の別荘地に救急車が連日呼ばれるなんて、きっと前代未聞のことだと思う。
その全てに自分が関わっているなんて、まるで悪夢みたいだ。
どこでおかしくなってしまったんだろう。
たくさん楽しい思い出を作ろうとやってきたはずの別荘だったのに…。
廉君のことをもっと知りたくて、もっともっと近い存在になりたくて…。
純粋にただ、ただ、大好きで、彼の傍にいたかった。
ただそれだけだったのに。
どうして?
もうイヤ…。
もうこんなのはイヤだ。
狂気に満ちた小村の笑い声も…
夜の闇を真っ赤に染めた血しぶきも…
頬に飛んだ返り血の生暖かさも…
もう忘れたい。
何もかも忘れてしまいたい。
傷ついたり、血を流したり…
……誰かを犠牲にしたり…
こんな悲しいのはもうイヤだ。
こんな苦しいのはもうイヤだ。
こんなところ…っ!
『好きという感情でどんなことにも耐えられると思っているかもしれないが、その気持ちだけで全てを補える程、世の中簡単じゃない。むしろ苦境が続けば続くほど、愛情が薄れる事だってあるんだ』
理事長先生の言葉を思い出しハッとする。
あれはこういう意味だったのかもしれない。
一族の血の重さを知った時、あたしは廉君との恋に耐えられなくなって逃げ出したくなると…そう忠告していたのかも…。
逃げる…?
逃げたら…二度とこんな思いしなくても済むの?
全て悪い夢の中の出来事だったと、記憶の奥底に封印したら、楽になれるの?
パパやママと一緒に家に帰って、当たり前の日常を繰り返したら、忘れられる?
安田さんがお父さんであることも、双子の姉妹がいることも、いつかは忘れられるのかな?
廉君のいない学校で普通の学生生活を送ったら……?
そしたら…
二度と苦しまなくて済むの?
何も知らなかった頃に戻れるの?
時間をさかのぼって廉君と出逢う前に戻れるとしたら…
あたしは彼に恋をしない道を選んで、苦しまなくて済むかもしれない。
最初からやり直せたら、今も何も知らずにいたかもしれない。
でも…
あたし…
それで今よりも幸せ……かな?
大切な人も…
大切な気持ちも…
全部…
何もかも忘れて…
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意識が戻ってからの香織の揺れに
少しだけ触れるつもりが、どこが少しだ?って長さになってしまいましたので、一旦ここで区切りますσ(^◇^;)
今回ばかりは気丈な香織も流石にボロボロです。
逃げ出したくなって当たり前ですよねぇ…普通は。
2010/06/20