「…………」
小さな呻き声が張り詰めた空気を緩めた。
驚いて振り返ると、香織が薄っすらと目を開いた所だった。
茂みの気配が気になったが、香織を放り出すことはできず、意識だけはそこにおきながら、彼女の傍に跪(ひざまず)き声をかけた。
香織は焦点の合わない瞳をぼんやり泳がせ周囲を見回していたが、僕を見つけるとそこで視線を止めた。
「…れ…ん……く…」
「起き上がってはダメだ。頭を打っている可能性もあるから、救急車が来るまで安静にしていて」
痛みを押して起き上がろうとする香織に慌てて手を貸し、再び横たえる。
香織は黙って頷いただけで、放心したまま何も無い空間を見詰めている。その瞳は虚ろで、いつもの輝きはなかった。
まだ混乱しているのか、自分の居る場所も、何故怪我をしているのかも理解できていないらしい。
僅か二日。その間に彼女は二度も立て続けに死の恐怖に直面したのだ。しかも酷い暴力を受けて、一時的に記憶が混乱している。
その心は身体同様に深く傷つき怯えているはずだ。
香織がどんなに我慢強くても、まだ17歳の普通の女子高生だ。この状況下で平静を保てるとは思えなかった。
「傍にいるよ。…大丈夫だ。安心して少し休んでおいで」
少しでも恐怖から遠ざけたくて、そっと髪に触れ、安心させるように撫でると、香織は唇の端を少し上げ、力なく微笑んで瞳を閉じた。
こんな状況下でも微笑もうとする彼女の強さが痛々しかった。
香織が落ち着いたのを確認してから、安田さんの止血を始める。相変わらず森は気になったが、今は二人の処置を優先することにした。
携帯のライトを掲げ、刺された位置を確認するが、ベッタリと血に染まった包帯の上からでは、怪我も出血している位置も判らない。まずは包帯を切って傷を確認しようと先ほどのナイフを構えた、そのときだった。
香織がハッと目を開き周囲を見渡した。
そして隣で倒れている安田さんを見つけると、怪我など忘れたよう飛び起き、胸に縋りついた。
「い…や…いや…いやっ、いやああぁぁぁーっ! お父さん、お父さんっ。嫌よ、死んじゃいやーっ!」
安田さんを揺さぶり号泣する香織に言葉を失う。
彼女のこんなにも取り乱した姿は初めてだった。
封印していた記憶が戻ったときも、出生の秘密を知ったときも、確かに感情的ではあったが、こんな風にパニックになったり慟哭することはなかったのに…。
安田さんが死んだと思い込んだ彼女は、慢心の力で僕の制止を振り切ろうとする。
暴れる香織を強く抱きしめ、僕の声が耳に届くまで必死で諭し続けた。
「香織、香織、落ち着くんだ。安田さんはまだ生きている。そんなに揺さぶってはダメだ」
ようやく僕の声に反応を示すまでどのくらいかかっただろう。
僅か数分、いや、数十秒だったのかもしれないが、とても…とても長く感じた。
「…生…きてる?」
「ああ、安田さんは生きている。とにかく落ち着いて。僕が止血するから香織は安田さんに呼びかけ続けていて。いいね? ほら、救急車の音が近づいてきているだろう? さっき電話したから別荘からもじきに人が来る。安田さんは大丈夫だよ、きっと助かる。いや、僕らが助けるんだ」
安心させるべく力強く断言したものの、止まる様子の無い出血に表情が硬くなる。
だが香織には効果があったらしい。唇をキュッと噛み締めると、コクリと頷いて、直ぐに包帯の上から傷口を押さえた。
包帯から滲む血が指の間からジワリと流れだす。それを止めたくて、小刻みに震える小さな手に自分の手を重ねた。
「僕が代わろう。傷口を確認するから包帯を切るよ」
「いいの、あたしがやる。あの人が止血してくれたの見ていたから、この上からでも昨日の傷の位置は判るわ。あたしが…あたしがお父さんの血を止めるの。あたしが助けるの。お父さんは…あたしを庇ったんだもの」
「昨日の…傷?」
香織の言葉にハッとした。
安田さんは小村に刺されたのだとばかり思っていた。
だが、傷が開いて出血しているのだとしたら…僕は大切なことを見落としていたことになる。
ドクンと身体の血が逆流した。
血まみれの安田さんと香織。そして傍らには血が付着したナイフ。
地面に広がる血の量からも、二人が刺されたと考えるのは必然だった。
だから僕は思い込んでしまったのだ。この血は二人が刺されて流したものだと…。
だが香織に刺傷は無く、安田さんにも新たな傷はない。
だとしたら明らかにおかしい。
僕が手にしているナイフの血は誰のものだ?
地面に広がる大量の血は誰のものだ?
考えられるのは一人だけだった。
森へと続く血の跡を視線で追い、闇の中に傷を抱える男の幻を追う。
そこには既に先ほどの気配は感じられなかった。
刺したのは安田さんだろうか?
それとも…?
瞳に涙を浮かべ、父を呼びながら止血を続ける香織の血に染まるブラウスで視線が止まった。
「香織、辛い事を言うけど落ち着いて聞いて。これからいう三つのことを約束して欲しいんだ。まず一つ、安田さんをお父さんと呼んじゃいけない。この森の中には小村以外にもおじい様の手の者が潜んでいるかもしれない。誰が敵か判らない今、二人の関係を知られるのは危険なんだ」
香織はハッと表情を硬くした。
昨日からの一連の出来事に加え、先ほど知り得た実の両親の真実。そして一族の闇をも垣間見た彼女には、直ぐに意味が解ったらしい。
安田さんの耳元に『お父さん』と小さな声でささやいた後、決意を込めて言った。
「護ってくれてありがとう。今度はあたしが護る…。絶対に死なせないからね、安田さん」
僅かな表情の変化も見逃すまいと安田さんを注視する瞳には光が戻り、表情は凛としていた。
「それから二つ目の約束だ。香織、君はこの後救急車で病院へ運ばれる。安田さんの事が心配だろうけど、まずは自分の治療をして欲しい。今は極限状態で痛みもあまり感じないかもしれないけれど、君の怪我は自分で思う以上に酷いんだよ。頭を強打していたり、内臓に損傷があれば深刻な事態になる。安田さんの事は僕の両親に任せて、君はご両親と一緒に医師の指示に従って、きちんと検査を受けて欲しいんだ」
「でも…安田さんはあたしを庇って…」
「今無理をして後遺症でも残ったら君を庇った安田さんの思いが無駄になる。彼が目覚めたときに安心させるためにも…解かるね?」
「…う…ん…そうね、解かったわ。でも検査で問題が無ければ安田さんに付き添っていてもいい?」
「…お医者様が許可してくれるなら構わないけど…。無理はダメだよ? 僕も出来るだけ早く用事を済ませて病院へ行くからね」
「廉君…何処かへ行くの?」
「僕は小村を捜す。本当は君に付き添っていたいけど、あいつを捕まえなければ君と安田さんの安全は確保されないからね。大丈夫、今夜の内に必ず見つけてやるよ」
「…小村を? ダメよ、廉君。危ないわ! あの人、おかしいの。狂っているんだわ」
「狂ってる? だったら尚更野放しにはできないよ。…あいつは生きている限り安田さんを狙ってくる。多分、君のこともね」
香織はビクリと肩を震わせた。
「あいつは怪我をしているね。血の跡が森の中に続いている。…今ならそんなに遠くへは逃げられないはずだ。必ず捕まえるよ。二度と怖い思いはさせない」
「廉君…お願い、追わないで。あの人追い詰められているわ。何をするか判らない。あたし…怖くてたまらないの。もし廉君にまで何か遭ったりしたら…」
重ねた手から震えが伝わってくる。
僕は一旦手を離し、香織を背後から抱きしめるように身を寄せ直してから、もう一度香織の小さな手をすっぽりと包み込むようにして手を重ねた。
「…小村と何があった?」
質問と同時に香織の肩が大きく跳ね、重ねた手の震えが大きくなった。
彼女の中の恐怖を振り払うように背中からギュッと抱きしめ、耳元で優しく語りかけた。
「…ねぇ、香織。僕は君が好きだ。誰よりも大切に思っている。君の背負っているもの全てを受け入れてずっと一緒に歩いていたい。何があってもこの気持ちは変わらないよ。だから…だから僕には全てを話して欲しい。君が受けた痛みや苦しみを僕に預けて欲しいんだ」
「…廉…く…ん」
「独りで抱えないで。独りで苦しまないで。言っただろう? その心も身体も髪の一房までも君はもう僕のものだって。君の苦しみも、悲しみも、痛みも、罪も…全てを受け入れる覚悟はあるよ。僕らは二人で一人なんだよ」
香織は暫く俯いていたが、やがて自分を奮い立たせるように力強く頷いた。
気丈に振舞っているが、度重なるショックで彼女が受けた傷は、肉体的にも精神的にも相当大きい。
父親を助けたいという強い気持ちが彼女を駆り立てているが、本当なら座っているのもやっとだろう。
香織はとても強い。
僕よりも遥かに強い精神力を持っている。
だけど僕は知っている。
限界を超えたときの彼女の脆さを。
だから怖かった。
小村のことを問えば、張り詰めたものが切れてしまう気がして…
三つ目の約束を口にすれば、香織の心を壊してしまう気がして…
目の前の道を避けては通れないと知っていても…進むのがとても…怖かった。
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香織と安田さんに何があったのか?
次回、香織が語り始めます。
さて、廉が不安を抱える三つ目の約束とは…?
2010/05/05