夜風が運んでくる血の匂いに弾かれたように茂みを飛び出す。
まだ小村が近くにいるかもしれないとか、他にも仲間がいるかもしれないとか、そんな考えは一瞬で吹き飛んでいた。
どうか無事でいて…。
どうか生きていて…。
浮かんでくるのはそんな言葉だけだった。
二人に駆け寄り香織に覆いかぶさるようにして倒れている安田さんの脈を診る。
顔色がまるで紙のように白いのは、決して月光のせいではない。
肌蹴たシャツの間から見える包帯は赤い布と錯覚しそうなほど染まり、弱々しい脈でかろうじて命を繋いでいた。
これほどの重症でありながらも香織を護ろうとする安田さんの力は強く、引き離すことは容易ではなかった。
娘を護ろうとする父親の執念に絶句する。
だがこの状態では香織の容態を確認することができず、気持ちは焦った。
香織のブラウスはベッタリと血に染まっている。
傍(かたわ)らに落ちているナイフが生々しく血を滑(ぬめ)らせて、月の光を受け不気味に輝いている。
その血が誰のものかを考えるのが怖かった。
横たわる二人の周囲に染みた血の跡にゾクリと背中が寒くなる。
とても安田さん一人の出血量とは思えず、やはり香織もかなりの重傷を負っているのだと確信した。
「香織、香織! しっかりしろ! 僕の声が聞こえるか? 応えてくれ! 香織っ!」
自分の心臓が耳元で五月蝿くて、香織の脈も取れない。
香織の肩に食い込んだ安田さんの指は血色を失い白くなるほど強く、強引に引き剥がせば肉まで削げそうだった。
必死に呼びかけながら指を一本ずつ剥がしに掛かるが、潤滑油のようになった血が指を滑らせ、何も進展しないまま時間だけが過ぎていった。
焦りがパニックを連れて来る。
頭が真っ白になった。
どうすればいい?
このままでは二人とも失血死してしまう。
……死…?
香織が…死ぬ?
僕はこのまま香織を護りきれず失うのか?
助けることもできず、ただ見ているしかできないままーー…?
そんなのは…嫌だっ!!
こんな形で君を失うなんて…嫌だ…嫌だっ!
「嫌だ! かお…りっ、香織…お願いだ。僕の声を聞いて…っ! 安田さん…香織を放して…放してっ!」
香織を護る腕を、肩を、背中を何度も叩いて叫んだ。
安田さんが瀕死の重傷で、乱暴に扱えば危険であることも、頭から吹き飛んでいた。
「放せ…っ! 香織を放せ。…助けて……お願いだ。香織を助けて…っ! 放してくれえぇぇぇっ!」
助けて…香織を助けて…。
この手を放してくれたら何でもする。
香織を助けてくれたら何でもする。
お願いだ。誰か…
誰でもいい。
神様…いや、たとえ悪魔であってもかまわない。
僕の魂が代償であっても後悔しない。
だから…だから…
お願い。誰かっ…
「…香織を…助けてくれ…」
救いを求め天を仰ぐ。
その瞬間思い出したのは、顔も知らない一族の女性だった。
百合絵さん…
百合絵さん、お願いです。どうか香織を連れて行かないで。
あなたの娘をどうか助けてください。
出逢ってから今日まで、香織は僕にたくさんのものをくれた。
宿命を受け入れ立ち向かう力も、恐れずに人を信じる勇気も、全部香織が教えてくれたものだ。
彼女がいるから、僕は強くなれる。
彼女がいるから、浅井という名に押しつぶされること無く立っていられる。
香織には感謝することばかりで、僕はまだ何も返していない。
いつかきっと彼女に相応しい男になって、誰よりも幸せにすると、そう思っていたのに…。
まだなにも果たしていない。
まだ香織に相応しい男になっていない。
たくさん幸せな笑顔をあげることも…
たくさん思い出を重ねることも…
何もできていない。
護るって約束したのに…
命を懸けても護ると誓ったのに…
『命を懸けても必ず護ってやれよ』
命を懸けて…。その言葉に反応したように彼を思い出した。
こんなとき彼ならどうするだろう。
そうだ…。
彼はたった一人で香織を助け、安田さんに適切な処置を施し、冷静に警察へ通報していたじゃないか。
あの時彼が置かれた状況と今の僕に、どれほどの違いがあるというんだ?
雷に打たれたような衝撃だった。
こんな時でも彼ならばきっと最後まで諦めない。
決して奇跡に縋ったりもしない。
どんな状況でも自分の力を信じ、命を懸けて恋人を助けるはずだと思った。
彼は何があっても自分を信じる強さを持っている。だが僕は強さを求めるばかりで、自分自身すら見えていない。
彼との決定的な違いに、温室育ちの甘えを突きつけられたようだった。
ー自分を信じられないお前に、彼女が護れるのか?ー
彼が僕を見たら、きっとそう言って冷笑するだろう。
確かに僕は自分を信じきれていなかった。
目の前のことで精一杯で、冷静に状況を判断する事も、先を見越した的確な行動もできていなかった。
だから子供なのだと一笑されてしまえばそれまでだ。
……それでも…僕は浅井を継ぐ者だ。いずれ彼以上の力を求められるときが来る。
その時にも、今みたいに誰かに救いを求めるのか?
―いや、違う!
彼に対する羨望と嫉妬心。それが僕の萎えかけた心に火をつけた。
この世にいない人に助けを求めるなんて…。そんなことをしてなんになる?
冷静になれ。 落ち着いて考えろ。
僕はまだ全力で彼女を救う努力をしていない。
血の香(か)に呑まれて一瞬でも弱気になってしまうなんて、どうかしていたんだ。
それまでの不安がスウッと退いて、神経が研ぎ澄まされていく。
難渋していた交渉が一気に流れに乗った時と良く似た感覚だった。
怖いものが無くなり、不可能でも可能に出来る気がしてくる。
圧倒的な力に背中を押されるような、この感覚。
胸の奥から、二人ともきっと助けてみせると強い気持ちが湧き出てくる。
ー香織を護るのは神でも悪魔でも百合絵さんでもない。
ーこの僕だ!
そうさ、僕にはできる。
誘拐や暴漢に襲われることを想定したシュミレーションは、子供の頃から何度も受けたし、こういう時の応急処置も学んだ。
いつもと同じ。仕事モードの浅井 廉になればちゃんと対応できるはずだ。
気持ちを切り替え、冷静に香織の脈を診る。
脈はしっかりしており、怪我をしているにしても安田さんほど重傷ではなさそうだった。
再び安田さんの腕に取り組みながら、父に救護を要請する。次いで警備に小村追跡の指示を出し、なんとしても見つけ出せと発破をかけた。
電話越しに父が何か訊いていたが、一方的な説明だけ済ませると『とにかく急いで!』と電話を切った。
心配する父の姿が浮かんだが、今は一秒だって無駄にはできなかった。
意識を失っても尚、娘を護ろうとする父の力は生半可なものではない。
安田さんの関節がギシギシと嫌な音を立てたが、ここで止めることはできなかった。
折れる可能性を心で謝罪してから、掛け声とともに満身の力を込める。
ズルリと腕が離れ、安田さんは勢いで人形のように転がり仰向けに倒れた。
「香織、診るよ」
意識の無い香織に断りを告げ、ボタンに手を掛ける。だが血を吸ったシフォン素材のフリルが指に張りつき、逸る気持ちをあざ笑うように邪魔をした。
「時間が無いんだ。ゴメン」
やむなくブラウスの下から3つほどボタンを引きちぎり、胸の辺りまで引き上げて診る。
月明かりの下、白い肌が浮かび上がった。
「え…? 傷が…ない?」
香織の身体には刃物の傷などなく、それなりの覚悟をしていた僕は呆気に取られた。
洋服から染みた血で汚れてはいたが、出血を伴う外傷はなく、思わず安堵の息を吐く。
「…刺されて…いない? じゃあこの血は安田さんの…?」
ガックリと脱力して膝をついた。
同時に理性が戻って、乱暴に香織の服を肌蹴たことが恥ずかしくなり、慌てて戻そうとする。
だが、その手を下げることはできなかった。
香織の身体には確かに出血を伴う傷はない。
だが僕は見つけてしまった。
さっきベッドで見た真っ白な肌にはなかったはずのものを。
闇の見せた錯覚だと思いたくて、恐る恐る携帯のライトで照らし診る。
そこには血の汚れで直ぐには気付けなかった忌まわしい傷が、ハッキリと浮かび上がった。
患部を照らすライトが怒りに震えた。
香織の身体には幾つもの内出血があった。
容赦なく蹴られたのだろう。その数は腹部周辺だけで十箇所は下らない。
更に全身を照らしていくと、足には広範囲に渡る擦過傷があり、不自然に乱れた髪の一部には血がこびり付いていた。
安田さんの影になっていた時は気付かなかったが、良く見ると洋服には靴跡が幾つも残っている。
きっと同様の傷が身体中にあるに違いなかった。
震える指で香織の服を整え、乱れた髪を軽く撫でつけ、頬に飛んだ血を拭ってやる。
それでも震えは治まらず、鎮まらない怒りを拳に託して地面に叩きつけた。
小村が香織を何度も蹴り、髪を掴み、引きずる様子が瞼の裏に浮かんでは消える。
彼女は痛みに悲鳴を上げたことだろう。
止めてと叫んだかもしれない。
僕の名を呼び助けを求めたかもしれない。
その時に傍にいなかった悔しさが、形となって頬を伝った。
ハラハラと幾つもの粒となって香織を濡らし、頬に残る汚れを洗い流していく。
あれだけの暴行を受けながらも顔に傷がないのは奇跡だった。
「小村…絶対に赦さない。…どこへ逃げようと…きっと見つけ出してやる」
香織の傍に落ちているナイフを手に取ると、それが小村であるかのように見詰めて言った。
ナイフは血にまみれても尚、何かを求めるように冷たく硬質の輝きを放っている。
吸い上げた血を賛美しているようにも、更なる血を欲しているようにも見えた。
このナイフを収める鞘は、お前の胸だー…
どす黒い感情がドクンと血を騒がせ、気持ちを昂らせる。
紀之さんに掴みかかったときにも感じたどこまでも冷たい怒り。その数倍にも膨れ上がった残酷な感情が制御できない。
これが一族の狂った血なのかもしれないと、遠くで自分を分析するもう一人の自分が居た。
復讐なんて間違っている。
そんなこと解かっているけれど、押さえがたい何かが自分の深いところで目覚めていくのが解かった。
その時、茂みがガサリと動いた。
気配を感じた気がして闇に目を凝らす。
父の命を受けた者が到着したのか。
それとも…小村か?
その場が緊張に包まれた。
瀕死の安田さんと未だ意識の戻らない香織を動かすことはできない。
何としても僕が二人を護らなければ…。
ナイフを構え、強く握り締める。
茂みから目を離すことなく、静かに足を踏み出した。
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瀕死の安田さんになんて乱暴な…(滝汗)血だらけの香織を前にして、重傷と思い込んでしまった廉は必死です。
普通の少年よりも多分いろんな面で大人な廉ですが、流石に香織が死ぬかもしれないと思った時は冷静でいられないでしょうね。
怒ったり泣いたり落ち込んだりキレたり…忙しいです。ハイ…σ(^◇^;)
でもって、まだもうちょっと、このジェットコースターみたいな感情起伏続きます。
2010/04/29