Little Kiss Magic 3 第45話



闇の中を香織の気配を探りながら走る。
懐中電灯を持たずに飛び出した事を後悔したが、別荘裏の森は護身術の練習場でもあり知り尽くしている。
武さんが海外に行くまでは、毎年夏はここで合宿をしていた。森の端々まで走らされたり木に登ったりと、忍者修行のようなことをさせられた僕に知らない場所は無いし、今夜は思いのほか月が明るいから問題は無いと思っていた。
だが実際に走り出すと、夜の森はどこまでも僕に容赦がなかった。

木々の間から漏れる僅かな月明かりだけが頼りの森は、手を伸ばした先さえも満足に見えない。
神経を張り詰め、気配を探りながら走る僕の足を、木の根が絡めとり妨害する。
嘲笑うように闇から伸びる枝が、シャツを肩口から派手に引き裂き、こめかみを叩いた。
生暖かいものが流れ出し、目尻を伝って左眼の視界が奪う。

「あぁクソッ! なんでこんな時に…」

舌打ちをして血を拭ったその時、香織の声が闇を切り裂いた。


「お父さんを殺さないで」


今まさに香織の目の前で安田さんが殺されようとしていると悟った。
紀之さんの言うとおり小村が『鵺』だとしたら、重傷の安田さんに勝ち目のないのは明らかだった。
おじい様が香織を狙っていたのなら、彼女にも危険が及ぶ可能性は高い。
香織を連れ去ろうとした目的は不明だが、一度失敗した以上、今度は誘拐だけで済まないかもしれない。

一刻の猶予も無かった。

再びこめかみから血が流れたが、拭っている暇は無かった。
声の方向から香織の位置を推測し、闇の中を疾走する。
だが焦る気持ちと裏腹に、木の根に足を取られ、枝に進路を阻まれ、僅かの距離がなかなか進まない。左眼は流れる血液で霞み、ほとんど見えなかった。
まるで自分の周囲だけ時間がゆっくり進んでいるような錯覚に苛立ちが募った。

走り続けているのに苦しさも熱も感じない。

流れる汗は氷のように冷たかった。


肩からダラリと腕に垂れ下がった袖が木々の枝に絡むのが邪魔で、力任せに引きちぎる。
バリッと鈍い音がしたのと、女の悲鳴が木々を震わせたのは、ほぼ同時だった。

ビクリと身体が硬直し、足が止まった。

聞き間違いであって欲しいと願いながら、全神経を限界値まで研ぎ澄まし声を追う。
だがその願いを打ち消すように、猛獣の咆哮のような男の声が闇夜に轟いた。

喉から搾り出されるような長い叫びは徐々に闇に溶けてゆく。

後には恐ろしいほどの静寂が訪れた。



心臓が凍るような冷たい感覚に、頭が真っ白になり時間が止まった。



冷静にならなければと自分に言い聞かせ、必死に頭の中を整理する。
悲鳴は確かに香織のものだった。状況から考えて男の声は安田さんに間違い無いだろう。
最悪の状況が脳裏を過ぎり、一刻も早く二人の無事を確かめなければと思った。
だが香織の悲鳴でショック状態に陥った僕は、極度の興奮に身体が震えて指一本動かすこともできなかった。

「く…そっ! どうして…っ!?」

焦れば焦るほど、身体が硬直して金縛りに遭ったように動けなくなっていく。
精神力の弱さを突きつけられ、未熟な自分を呪った。

どうして僕はいつも香織が危ないときに傍にいないんだ?

どうして僕には彼女を護る力がないんだ?

紀之さんのポルシェに押し付けられたときも、ホテルで僕を待っていたときも、僕がもう少し早く来ていれば怖い目に遭うこともなかった。
この間の事だって、僕は傍にいるどころか何もかも終わってからノコノコやってきた。あの人が助けてくれなかったら、どうなっていたかと思うとゾッとする。
香織は心の傷も癒えぬまま、今また深い恐怖の中にいる。
それなのに僕はまた…彼女を護るどころか、傍に行くことすらできないで佇んでいる。

なんて情けない男なんだ。

このままでは浅井グループを背負い、香織を護り、おじい様と戦うなんて不可能だ。
…もっと大きくなりたい。強い心が欲しいと、強く思った。


『彼女が大切なら絶対に離れるな。命を懸けても必ず護ってやれよ』


父親の形見だというバイクのキーを投げてよこした、あの人の顔が浮かんだ。
冷静な判断。計算された動き。冷たい物言いをするが、その言葉の裏は温かいものがあり、彼の人柄を窺い知ることができる。
とても心の強い人だと思った。
彼のような人ならば、僕の父のように多くのものを護れるのかもしれない。

―Tatsuya.Sー

ハンカチの刺繍の名を心の中で復唱する。

僕も…彼のようになりたいと思った。

これまでにも強くなりたいと思ったことは何度もある。
だけど、浅井グループを統べる技量のある男になりたいと思ったのは初めてだった。

瞼の裏に香織の笑顔が浮かぶ。

ーー会いたい。

今すぐに無事を確かめて、香織を抱きしめたかった。
動かない身体のもどかしさに唇を強く噛み締める。

ーー強く、なりたい!

ギリッと音がして口内に鉄の味が広がった。
痺れるような痛みが走り、その瞬間身体の拘束が解けた。
停止していた時間が動き出すと同時に、血の滾るような爆発的な感情が込み上げてくる。


「香織――っ!」


全身が沸き立つような感覚を抑えることができず、声の限りに香織の名を叫ぶと一目散に走り出した。
悲鳴のした森の中心部までは、昼間なら5分と掛からない距離だった。頭の中で瞬時に最短距離を弾き出し、合宿中のトレーニングを上回るスピードで走る。
先ほどまでの迷走が嘘のように、木の根も枝も邪魔することなく僕を森の深部へと導いていく。
僕の殺気に恐れをなし、木々達が道を開いていくように見えた。

森の中心まであとわずかの所で人の気配を感じ足を止めた。
すばやく身を隠し、周囲に人影を確認する。
近くに落ちていた1メートルほどの枝を握ると、いつでも対峙できるよう構えた。

そのとき、夜風に紛れたほのかな香りに気が付いた。
それは間違いなく香織を抱いてシャワーブースへ飛び込んだ時のそれと同じだった。
香織が近いことを確信して闇に目を凝らす。
月明かりが一筋の道を作るその先に、枝に絡まった長い髪が一房揺れていた。
枝に絡まった髪を解く時間を惜しみ、根元から引きちぎったらしい。数本などという単位ではない。相当痛かっただろうし、出血もしたかもしれない。
森の地理に明るい僕とは違い、香織にとって夜の森はとても恐ろしかったに違いない。木の根に足を取られ、その身を傷つけながらも、彼女を突き動かした父親への思いに胸が詰まった。

きっと香織は近くに居ると確信して進む。
やがて森の中心が見えてきた。直径10メートルほどに切り開かれた円形広場で、夏の合宿で武さんや聖さんと何度もキャンプをした馴染みの深い場所だった。

枝を握りなおし、視界を遮る枝の間から様子を窺うと、白い月の光が斜めに射し込み、闇色の森に広場を浮き上がらせていた。
乏しい光源ではあるが、闇に慣れた目には状況を知るに十分だった。


香織は安田さんに護られるようにして、広場の中心に倒れていた。

その髪に、顔に、洋服に…赤黒い液体がベッタリと付着した状態で。

悪い夢だと思いたかった。

大地に染み込む命が、赤黒いシミを作っていくのを呆然と見詰める。

まだ乾かない赤が生々しくぬめり、香織を染めていた。

最悪の状況も覚悟していたつもりだった。

だがあまりにも凄惨な光景に、僕は思わず目を伏せた。





Back / Next


Copyright(C) 2010 Shooka Asamine All Right Reserved.


やっと香織を見つけた廉でしたが、血に染まった彼女を前に絶句してしまいます。
果たして二人の安否は? 

久しぶりの更新です。 水面下ではずーっと進めていた作品なので、自分的には途切れていた間隔はなかったのですが…
最終更新の日付をみてビックリ(°Д°;≡°Д°;)!!!でした。
お待ちくださっていた方、遅くなってごめんなさい。
随分お待たせした上に、まだ引っ張ります。(>_<)重ね重ねごめんなさい〜
2010/04/10