僕が話し終えた後も、誰も口を開く者はいなかった。
香織と百合子さんの出生の秘密。
まるで映画か小説のような事実を皆が納得するには時間を要するようだった。
榊 俊弥の真の目的。
それはもう一人の娘、百合子さんの奪還だったと考えられる。
その為に彼は危険を冒して一族に潜り込み、その機会を窺っていたのだと考えれば全ての疑問は解き明かされる。
だが、僕が香織と出逢って事情が変わった。
彼が僕の恋人を自分の娘だと知ったのは、香織の迎えを頼んだ住所を見たときが初めてだったに違いない。
あの夜のいつになく動揺した様子に今だからこそ合点がいく。知人の住所の近くなので驚いたとそれらしい言い訳で誤魔化してはいたが、あれは知人などではなく実家の住所を見た為の動揺だったのだ。
あの日彼はどんな思いで香織を迎えに行ったのだろう。
父と名乗ることも出来ず、どんな気持ちで香織を見守り続けたのだろう。
同じような気持ちで、ずっと百合子さんを遠くから見守っていたのだろうか。
春日から監視を命じられ、
十数年間母の姿を見続けた彼は、どんな思いで職務をこなしていたのだろう。
一族に縛られる女性の姿を百合子さんを重ね、一日も早く彼女を解放する日を夢見ていたのでは無いだろうか。
榊 俊弥の心境を思うと、言葉に表しがたい気持ちになった。
「なるほど…確かに百合絵の葬儀に尾田が来なかったのは覚えている」
長い静寂を破り、僕を思考の深みから引き上げたのは父の声だった。
「…まさか自殺だったとは。瀬名が尾田の百合絵に対する仕打ちは万死に値すると言った理由がようやく分かったよ。
夫婦仲が良くなかった事は知っていたが、尾田は妻の葬儀を実家に押し付け顔を出すことすらしなかった。挙句に喪も明けぬうちに新しい女を家に連れ込んだんだ。尾田が娘の生存を喜ばず、瀬名に押し付けた時は腸(はらわた)が煮えくり返るようだったが、そういうことだったのか」
父が忌々しげに言うと、紀之さんはギリと唇を噛み締め言葉を繋いだ。
「あれから数年後、尾田は突然不審な死を遂げ、その後尾田コーポレーションは巨額の負債を抱え倒産した。社長の死は経営不振によるノイローゼで山中で自殺したと報道されたが、俺にはどうしても納得がいかない。もしかして…」
紀之さんの言いたい事を察知して、僕は固まった。
香織やご両親を前に、これ以上一族の血生臭い闇の部分に触れることは好ましくない。
父も同じ事を考えたのか紀之さんを視線で一喝した。
その瞳はいつもの穏やかな紳士のそれではなく、僕でさえも見たことの無い、一族の血の香が漂う冷たいものだった。
だが、僕らにはそれが答えだった。
紀之さんが言いかけたとおり、尾田の死は自殺ではなかったのだろう。
経営の悪化も、娘の死に泥を塗った尾田を許さなかった瀬名が追い詰めたのかもしれない。
安田さんは尾田家の崩壊をどんな思いで見つめていたのだろうか。
少しは無念を晴らすことが出来たのだろうか。
それとも…その手で尾田を追い詰めたかったと思ったのだろうか。
こうしている間も香織の無事だけを祈り、この別荘へと夜の闇を彷徨っているのだろうか。
深手を負い暗闇の山中に身を隠し、今にも倒れそうによろけながら歩いている姿が脳裏に浮かんだ。
「とにかく安田さんを捜そう。彼が鵺に狙われて逃げているならば危険だ。それにあの怪我で動き回ったりしたら…」
僕の声にそれまで放心していた香織が突然立ち上がり駆け出した。
予測しなかった行動に油断していた僕は、瞬時に動けず遅れを取った。その隙に彼女はテラスへ続くガラスドアを開け放ち、室内履きのまま外へと飛び出していってしまった。
「香織っ! クソッ、どこに小村がいるか分からないってのに。父さん警備を回して香織を援護させてくれ。きっと安田さんを捜しに行くつもりだ」
言い終わる前に父は既に内線で指示を出していた。瞬時に判断し行動を起こすその素早さには、自分の父親ながら舌を巻く思いだ。
こんなときの父にはいつものおちゃらけた雰囲気など微塵にも感じられない。
冷静な判断と、迅速な行動、的確な指示。一部の隙も無いほどに張り詰めた空気が父を包み、その一角だけ空気が違う。
これが家名を継ぎ、当主となるということなのだと、こんな時なのに、自分に課せられた未来の重さに心が塞ぎそうになった。
だが、落ち込んでなどいる暇は無かった。
その間にも、香織の両親は香織を追いかけようとしていたのだ。
慌ててそれを制したが娘の身を案じ興奮した父親の力は思った以上に強く、簡単に振り切られてしまった。
次々と判明した真実。
目の前で明らかに変化していった香織の心。
16年間娘として育ててきた彼女が、実の父親を求めて闇に消えた事に動揺しないほうがおかしいだろう。
だが今この闇の中に秋山氏が出たら、捜索する人間が更に増える事は目に見えていた。
「この森は闇が深い。あなたにまで何かあったら香織がどれだけ心配するか…。どうかここでお待ち下さい」
秋山氏の腕を強く掴み真っ直ぐに彼の瞳を見据えると、自分でも驚くほど凛とした声が部屋に響いた。
「香織は僕が命に代えても必ず無事に連れ戻します」
決意を伝えるように掴んだ腕にグッと力を込めると、秋山氏の瞳に少しずつ冷静さが戻ってくるのが分かった。
苦しげに顔を歪ませギュッと両目を瞑る。それから少しの間を置いて、僕の肩を掴むと「香織を頼む」と小さく呟いた。
返事の変わりに肩に置かれた大きな手にポンと手を重ね応えると、すぐに身を翻し香織が消えた闇に向かって走り出す。
僕の後を追いかけるように紀之さんもすぐに外へ飛び出した。
こういうときの行動の速さは流石、常日頃から危険を意識している一族の人間らしいと思った。
「紀之さんは森の北側をお願いします。僕は南へ回る」
「分かった。何かあったらすぐに携帯を鳴らせ。幾ら護身術を一通りやっていても相手は鵺だ。くれぐれも無理をするなよ」
厳しい表情でそう言い、返事を待たずに駆け出した紀之さんの姿は、すぐに森の闇に呑まれ見えなくなった。
足音が闇に吸い込まれ、森の奥深くへと消えてゆくと、一瞬の静寂が訪れる。
昼間は木の葉が風に揺らぎ、煌く木漏れ日で幻想的に輝いていた森も、今は音も命も全て吸収し、暗闇に閉じ込めるブラックホールのようにしか見えない。
香織はこの闇の中、一人で安田さんを探しているのだろうか。
耳を澄ませ、全神経を磨ぎ澄まし香織の気配を風の中に感じてみるが、闇は香織の存在など知らぬとでも言うように、何も語らない。
不気味なほどに静まり返り大きく口を広げる闇を、まるで生き物に対峙するように睨みつけると、迷う事無く紀之さんとは反対方向へと足を踏み入れた。
***
居ても経ってもいられなかった。
廉君は仮説だと言ったけれど、お父さんのこれまでの気持ちを考えたら、事実なんてもうどうでもよかった。
安田さんの優しい瞳に見つめられると、いつも言い知れない安心感に包まれる感覚があった。
その感覚は、信頼から来るものなのだろうと思っていたけれど…
やっと分かった。
お父さんだったんだ―…
初めて会った日から、ずっとあたしを温かい目で見守ってくれた優しい笑顔を思い出して、お父さんがどんな想いであたしを見つめていたのかと思うと、心が張り裂けそうだった。
今なら何も言わなくても分かる。
お父さんはあたしをとても愛していた事。
たとえ会えなくても、ずっとずっと、愛し続けてくれていた事。
そう思ったら身体は自然と駆け出していた。
今すぐに会いたかった。
『お父さん』と呼んで腕の中へ飛び込みたかった。
テラスから庭を抜け、闇をぼんやりと照らす外灯が心細げに車の通らない車道を照らしている脇を抜ける。
目の前に森が開けると真っ暗な口を広げるその中へ、あたしは迷わず足を踏み入れた。
追われているお父さんが目立つ公道を歩いてくるとは思えなかった。
お父さんはきっと森にいる。そう思ったら、そこに広がる無限の闇も、怖いとは思わなかった。
お父さんが助けを求めているような気がして、一刻も早く捜さなければという思いで頭の中は一杯だった。
深手を負い、森の何処かで身体を休めているお父さんの姿が浮かんでは消えてゆく。
ねぇ。お父さんはどんな気持ちであたしを見守っていたの?
本当は自分が父親だと名乗りたかったんでしょう?
愛していると…
会いたかったと…
そう言って抱きしめたいと思ってくれていたんでしょう?
深い闇に包まれた森の中に自分の鼓動だけが響き木々を震わせる。
静寂が耳に痛くて、僅かに吹き抜ける夜風に、木々が葉を擦り合わせる音も心臓を鷲づかみにするほどに大きく聞こえた。
右も左も分からず、ただ感情のままに闇雲に走ってきたけれど、心は何かに導かれるようにその場所が近いと告げていた。
それはあたしの無事を確かめたいと願うお父さんの気持ちが引き寄せていたのか…。
あるいは、あたしの会いたいという強い気持ちが本能で位置を感じていたのか…。
いずれにせよそれは偶然ではなかったと思う。
その場所にたどり着いたとき、まるであたしを待っていたように、強い風が舞い枝葉が大きく揺れた。
その瞬間…
風に煽られた枝葉の間の闇が突然避けた。
そこには銀の月に照らされ、対峙する二人の男の姿があった。
あたしの角度からはお父さんの後姿しか見えなかったけれど、立っているのがやっとなほど弱っていることがハッキリと判かる。
一緒に居るのは小村だった。
廉君の話で彼が危険な人だと解っていたけれど、お父さんが危険だと思ったら、そんな事は頭から瞬時に消えてしまった。
お父さんを助けなければ。
その思いだけで茂みから飛び出そうとした。
その時…
小村から発せられた血の通わない台詞に、あたしはショックの余り一瞬動けなくなった。
「あんたを殺り損ねたせいで、俺も追われる羽目になっちまった。こうなったら何が何でも、あんたを殺るしか俺が生き残る道はないんでね。瀕死のあんたを消したところで俺の株は上がらないが、死ぬよりはマシだ。…覚悟してもらうぜ」
小村がナイフを舐めた赤い舌が、まるで命を吸い上げる生き物のように動いたのがたまらなく恐ろしかった。
ニヤリと笑ったその口が悪魔のように裂け、血走った両眼には狂気がうごめいている。
あたしを気遣っていた気が弱そうな優しい青年とは、まるで別人だった。
獲物を捕らえた肉食獣のように充血した目でお父さんを見据え、細い銀の刃を向ける。
空に浮かぶ月の様なそれは鋭い光を放ち、月明かりだけが頼りの薄暗い中でも、不気味なほどに冷たく輝いていた。
小村がジリジリと間合いを詰める。
おとうさんが身構えながら少しずつ後退していくのを、どうしてよいか分からず呆然と見つめていた。
その時、僅かに角度が変わって、お父さんのシャツが血に染まっているのが見えた。
既に小村に刺されたのか、それとも傷口が開いたのか。
どちらにしても相当の出血で、包帯も腹部を押さえる左手も鮮血で染まっている。指の間から尚も流れ出ようとするおびただしい血の量に、あたしは悲鳴を呑み込んだ。
小村に刺されなくても、このままでは死んでしまう。
嫌よ。
やっと会えたのに。
やっとお父さんって呼べるのに。
まだ伝えていないのに。
安田さんがあたしのお父さんで嬉しかったって―…
「その傷でどう足掻いても逃げられねぇよ。大人しく刺されたほうが苦しまずに死ねるぜ」
血の通わない声で告げられる「死」という言葉に頭が真っ白になった。
お父さんを殺さないでー…
何を考える間もなく身体は無意識に動き、二人の間に両手を広げて割り込んでいた。
突然あたしが現れたことで小村はかなり動揺したらしく、お父さんに向けていたナイフの切っ先が僅かに方向を変えた。
そしてそれはー…
真っ直ぐにあたしの胸に向かっていた。
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随分間が開いてしまいましたが、久しぶりの更新です。お待ち下さった方、ありがとうございます。
俊弥を庇い小村の前に飛び出した香織でしたが…
ここで終わるかー!と怒らないで下さいーっ☆頑張って書きますっ....((φ(^∇^’)ガンバッテマース
2008/08/06