『大人の為のお題』より【オートマチック】

三周年記念ストーリー Love Step
異常気象的恋愛症候群 第6話



「井波さん遅いですよね」

聖良の声に、愛子はハッとして顔を上げた。
深く考え込んでいた為に声が届いていなかった愛子は、もう一度訊きなおし「そうね」と曖昧に答えた。
聖良が庇いたいと思う人物。
それは彼女が知っている人物であり、庇いたくなる要素のある人間である可能性が高い。
聖良の口から一葉の名が出たとき、頭の中で一つの可能性が過ぎった。
だが直ぐにまさかと否定してみる。


『ありがとう』


夏の涼やかな風に運ばれ耳に届いたあの声が忘れられない。

素直になるのが苦手な一葉は、これまでもいろんな面で誤解を受けてきたはずだ。
意地っ張りな彼女はそれを決して顔に出すことは無かっただろうが、きっと深く傷ついてきたことも多いはずだ。
自分と重なり痛々しいほど解るからこそ、あの日聖良の純真な魂に触れ、心動かされた彼女の表情を疑いたくないと思った。

「愛子先輩、浦崎先輩に電話してみますか?」

「それが携帯は持っていないのよ。ほら、終業式の後すぐに水泳大会でしょう? 今朝のHRで回収されちゃって…」

「あー、そう言えばあたしもです。監禁されるって分かっていたら、提出しなかったのになぁ…」

唇を尖らせて不満を洩らす聖良の横顔を曖昧に笑って見つめる。
いつの間に用意したのか、アイスコーヒーのグラスがテーブルの上に二人分用意されており、聖良は「どうぞ」という仕草をした。
促されるままにソファーに掛けてシロップとミルクを入れると層を作りながら沈んでいく様子を見つめた。

「ねぇ、聖良ちゃん。井波さんの事だけど…」

あの日、自分のいなかった僅かな時間に二人が何を話したのか、今日までなかなか切り出せず問えなかったのだが、今こそと決意して口を開いた。
その時、それをさせまいとするようなタイミングで生徒会室のドアがノックされた。
聖良を手で制し、愛子がドア越しに相手の名を尋ねる。
ここまでしなくても良いのに…と聖良は愛子に気付かれぬよう小さく溜息を吐いた。

ドアを開けると見覚えのある聖良のクラスメイトが立っていた。風紀委員の橋本 絢(あや)が水泳大会に必要な備品を取りに来たらしい。
聖良のクラスへ行った時に呼び出してもらった事がある為、愛子も絢とは面識があった。
この熱さに夏服の襟元を緩める生徒が多い中、絢は風紀委員らしく胸ボタンを一番上までキッチリと留めている。 肩に触れない長さのストレートボブと一重のやや切れ長の目が知的なイメージだが、洒落た細工の入った赤色のスクエア型の眼鏡が彼女の個性を引き出していて堅物という印象を与えなかった。

「金森先輩? 役員でもないのにどうしたんですかこんな所で。そろそろ終業式が始まりますよ」

「もうそんな時間? …あなた、橋本さんだったわよね? あなたはいいの?」

「わたしは今日の水泳大会の役員ですから、準備があるので出なくても咎められないんです。あ、聖良ここにいたの? さっきのミーティングに来ていなかったからどうしたのかと思ったよ。ここで何してるの?」

事情を知らない絢が首を傾(かし)げた。
真っ直ぐな黒髪がサラリと揺れて頬にかかる。聖良を見つけた瞬間、眼鏡の奥の細めの目が見開かれ、少しだけ大きくなった。
愛子が聖良の生徒会室隔離とボディガードの淳也がまだ来ないことを説明すると、絢は呆れ、聖良は困ったように苦笑した。

「……それって監禁…?」

「あはは、保護よ保護。…まあ、似たようなものだけどね。でもこの間の事が解決していないし、佐々木君だって神経質になっても仕方ないと思うのよね」

「なるほど。それでさっきも警戒して直ぐにドアを開けてもらえなかったんですね。でも聖良だって子供じゃないんですから、浦崎先輩が来るまで鍵を掛けていれば大丈夫ですよ」

「でも、まだ誰の仕業かも目的も判らないままでしょう? 聖良ちゃんはお人よしだから、用事があるとか伝言だとか言われると、簡単に鍵を開けちゃうと思うのよね。だから、一人にはしたくないのよ」

「…うっ…確かにそれは言えますけど、本当に聖良に危害を加えたいなら、外から鍵を使って入ってくる事だってあるんじゃないですか?」

「生徒会室の鍵を持つのは生徒会長と副会長の二人だけ、つまり外から自由に入れるのは佐々木君と高端君だけなの。だから淳也が中をガードしすれば絶対誰も入れない…って仕組みになる筈なの」

「はぁ〜相変わらず会長は聖良にご執心ね。朝は教室にいたのにミーティングに来ていなかったから、どうしたのかと思っていたのよ」

「ごめんね。龍也先輩はみんなに何も説明しなかった?」

「うん、生徒会執行部は知ってたのかもしれないけれど、わたし達風紀委員や体育委員は何も聞いていないわ。聖良の事だから会長から何か仕事を言い渡されているのかもしれないって思っていたし、他の人もあまり気にはしていなかったと思うわよ。でもまさかそんな理由とはね」

絢は聖良がアイスコーヒーを勧めるのをやんわりと断りながら言った。

「龍也先輩ったら心配しすぎなのよ」

唇を尖らせながら自分のコーヒーにミルクとシロップを入れ、不満を態度で表す様に半ばやけくそでグルグルとストローを回す。コーヒーが零れそうな勢いに、絢はクスクスと笑った。

「…それはしょうがないんじゃない? あんな事があった後だし会長も心配なのよ。これまで以上の鉄壁のガードで護っているじゃない。あんなに想って貰えるなんて聖良って幸せ者よ」

「うーん。解るんだけど、あたしは隠れていたくないのよね」

「また言ってる。聖良ちゃんったらあんまり佐々木君を心配させないでよ? 今度何かあったら、それこそ犯人を殺しかねないわ。あたし初恋の人が殺人者になるなんて嫌よ」

「あはは…愛子先輩ったら、オーバーなんだから」

笑い飛ばす聖良の隣で、絢は「ありえそうで怖いですね」と唸った。

「橋本さんもそう思うでしょ? それなのに聖良ちゃんったら、犯人があんな事をした理由を理解したいって言うのよ。んも〜お人よしにも程があるわ。心配で目が離せないわよ。あたしが彼女を置いて終業式へ行けないって気持ち解ってくれる?」

「…解りますよ。大体理解するって…自分を嫌っている人をどうやって理解するの? そういう態度がむしろ相手を苛立たせるかもしれないのに」

額に手を当てて唸る愛子の隣で、絢も同じようなポーズで脱力する。
その時、集合を呼びかける校内放送が流れた。

「あ、金森先輩、行かなくちゃマズイですよ。聖良は事情が事情だから問題ないだろうけど、金森先輩が無断で欠席すると補習を追加されちゃいますよ」

「ああ〜そうなのよねぇ。まったく、うちの学校は何かにつけて罰則として補習をさせたがるんだから、嫌んなっちゃう」

は〜っと大きな溜息をつき脱力する愛子に、「行って下さい」と小声で囁く聖良。
だが前回自分が目を離したばかりに聖良を危険に曝したと責任を感じている愛子は、どうしても彼女を一人にすることが出来なかった。

「いいわよ。どうせ受験生なんだから、いい勉強になると思って竹中の補習を受けるわ」

「そんな!竹中先生の補習は課題が半端じゃないんですよ? 三年生は通常の補習もあるのに…」

「それだけ勉強すれば、きっと夏休み明けにはトップクラスの成績になっているわね」

「そういう問題じゃなくて…」

自分の為に愛子に補習など受けさせられないと、聖良も必死だった。
その様子を気の毒に思ったのか、絢が助け舟を出した。

「じゃあ、わたしが浦崎先輩が来るまで愛子先輩の代わりにここにいてあげますよ。わたしなら終業式にいなくても準備をしていたと言えば通りますから問題ないですよね?」

「え? でも橋本さんはここに何か用事があって来たんでしょう? 戻らなかったら困るんじゃない?」
 
「あ、いけない!そういえば油性マジックを取りに来たんだっけ。 聖良、マジックってどこにあるの? 金森先輩、すみませんが大会本部のテントまで持って行ってもらえませんか?」

「絢ちゃんもああ言ってますし行ってください。浦崎先輩も直ぐに来ますから大丈夫です。愛子先輩の夏休みが補習地獄で終わったら、あたし罪悪感一杯の夏休みを過ごすことになっちゃいます。あたしの為に行ってください。ねっ?」

愛子の心が揺らぐよう、あえて『聖良の為に』という部分を強調すると、引き出しから取り出した8色入りマジックの箱を、押し付けるようにして愛子に手渡した。
ノンビリ屋の聖良にしては珍しく素早い動きに驚き、反射的に受け取ると、反論する隙を与えずグイグイと背中を押され、気がついたら生徒会室のドアの外に追い出されていた。

「お願いですから行って下さい。それじゃまた後でっ」

いつもの聖良からは考えられない強引さと機敏な動きに呆気にとられていると、バイバイと手を振られ、目の前でバタンとドアを閉じられる。
慌ててノブを捻っても、既に鍵がかけられどうすることも出来なかった。
ドアを叩き声を掛けても、聞えているはずなのに応えようとしない事からも、聖良の意志は固いようだ。

「も〜っ、自分だって逆の立場だったら迷わず補習を受ける事を選ぶくせに!」

聖良は誰かが自分の為に犠牲になることを良しとしない。それくらいなら自分が犠牲になることを選ぶタイプだ。
つまり、愛子が補習を受けることになったりしたら、責任を感じて一緒に補習通いをすると言いかねないのだ。
普段は柔軟性が有り余っているのに、こういったことになると岩の如く頑固になるのが聖良だ。
どう足掻いても彼女の決意を覆すことが出来ないことは、嫌というほど解っていた。

「本当に、その頑固さを自分を護ることに活かしてくれたらいいのに…」


愛子は暫く考えていたが、何かを思いついたように顔を上げると、クルリと生徒会室に背を向け長い廊下を駆け出していった。


◇◆◇


淳也は一葉の衝撃的な告白に呆然とした。

聖良と共にプールに落ち、一度は死の危険さえあった一葉の行動が全て自演だったという。
信じられなかったが、考えてみれば符合する点はいくつかあり、可能性が無いわけではない。
だが水底で二人がしっかりと手を握り合っていたと聞いているだけに、信じたくない気持ちが強かった。

「じゃあ、どうしてあの時…」と、口を開いた淳也を遮るように駿平が動いた。
大股で一葉に近づくと、驚いた顔で座り込んだままの一葉の腕を取り、力任せに引き寄せ抱きしめる。
勢いあまって駿平の腕に飛び込んだ一葉は、抵抗することも出来ず放心状態だった。

「そんなの絶対に不可能だ」

「え…?」

「つまらない嘘ついて、何考えてるんだ?」

「嘘なんかじゃ…」

「お前の言う事なんか信じられっかよ。松本と付き合うだとか、俺を好きじゃないとか、訳のわからない嘘ばっかりつきやがって。挙句の果てには蓮見さんを突き落としたって? ありえないってんだよ」

ノンビリとした性格で面倒くさがりの駿平は平和主義者だ。
彼が闘争心をむき出しにするのは水泳の事だけで、それ以外の事で熱くなるなど、一葉の知る限り見たことが無かった。
先ほどのキスといい、突然の抱擁といい、今日に限って珍しく声を荒げ乱暴な振る舞いをする事に一葉は戸惑っていた。

水泳で鍛えられた逞しい腕はしっかりと背中回され、決して逃がすまいと腕に閉じ込めている。
抵抗しようにも少しでも身動きするたびに力を込められてしまう為、下手に動くと息が詰まって呼吸すら儘ならない。
「苦しい」と抗議し、逃げないと約束すると、一度力いっぱい抱きしめてから、互いが見詰め合える分だけ僅かに腕を緩めた。

「一葉が犯人だというなら、何故、あの時蓮見さんと手を握っていたんだ? 落下しながら手を握るなんて不可能だ。先に落ちた蓮見さんを助けようとして手を握った。だが引き上げる間もなく、お前も背後から突き落とされて、二人はそのまま手を放す事無く落下した。だから自分を庇う体制を取ることもできず、水面に叩きつけられることになったんだ。違うか?」

「違うわ。彼女を突き落としてから私も飛び降りたのよ。…疑いを逸らす為に」

「へぇ…。一葉ってそんなに度胸が据わってたんだ。初めてで恐怖も無くあの高さから飛び降りるなんて、なかなか出来ないことだぞ? 人間には防衛本能ってもんがあるからな。仮に飛び込めたとしても絶対に恐怖が先に立って、蓮見さんの手を握るより自分の衝撃を弱くする行動を無意識に優先するのが自然だ。それなのにお前はそれをしなかった。…つまり、あの状況そのものがお前がやっていないって何よりの証拠なんだよ。もちろん一葉に高飛び込みの優れた素質があるなら別だけど、そうでないことを俺は知っているからな。普通の飛び込み台から飛び込んでも腹を打つ。ターンをすれば鼻に水が入ったと言ってパニックを起こす。クロールの息継ぎさえ苦手で、ほとんどノンブレスでやっと25メートルを泳いでいるお前にそれが出来るって? ありえないだろ?」

「違う…違うわ。本当に私が…」

「一葉は絶対にそんな事しない。お前は意地っ張りでどうしようもなく素直じゃないけど、根は純真で優しいんだ。俺の一葉はそんな女じゃない! 俺は一葉を信じているからな」

駿平の迫力に一葉は息を呑み唇を噤んだ。
その表情は明らかに駿平の推理を肯定しており、一葉が言葉を連ねれば連ねるほど、嘘で固めた偽りの鎧は剥げ落ち、駿平の言う純真な部分が現れてくるように淳也には見えた。

だが、何故一葉が頑なに自分を犯人にしたがるのか。
それを考えたとき、淳也の脳裏に一つの可能性が過ぎった。
真偽を確かめようと口を開いた時、静かなホールには不必要なほどの大音響で集合を呼びかける校内放送が流れ、淳也の声は掻き消されてしまった。

「あ…っ、ヤバイ! 早く生徒会室へ行かないと愛子は終業式を欠席の扱いになっちまう。竹中の補習授業なんて受けさせられねぇぜ。井波、早く行こう。武田、お前も早く終業式へ行かないと補習になるぞ」

淳也は急かしたが、駿平は一葉を抱いて座り込んだまま動こうとしなかった。

「先に行ってくれ。俺が一葉を連れていく」

「え? でも遅れると補習だぞ?」

「いいさ、一葉は俺が連れて行ってやりたいんだ。先に保健室へ寄ってから生徒会室へ連れて行くよ。……大丈夫、水泳大会までには会場に戻るようにするから」

「……そうか、解った。じゃあ先に行っているからな」

淳也は一旦二人に背を向けたが、思い出したように駿平を振り返った。

「なあ武田、井波を大事にしてやれよ。彼女はお前の為なら自分を捨てる事だって厭わない最高の女だぜ」

駿平はその言葉を噛み締めるように、細い肩を抱く腕に力を込めて頷いた。
それを見て安心した淳也は、究極のプレイボーイスマイルを一つ残すと、すぐに最愛の彼女を補習地獄から救う為に駆け出した。




淳也の姿が見えなくなると、駿平は一葉を強引に背負い保健室へ向かって歩き出した。

最初は自分で歩くと言って、ジタバタと抵抗していた一葉だったが、抵抗するとお姫様抱っこに切り替えるぞと脅されたとたんピタリと静かになった。
駿平からは見えなかったが、背中に伝わる彼女の体温が上昇したことで、一葉が真っ赤になっている事が伝わってくる。
どんなに突っ張って見せても、所詮見せ掛けだけで、中身はとても純粋なのだ。
不器用さが愛しくて、そんな彼女だからこそ惹かれたのだと、駿平は改めて一葉への気持ちを確認する思いだった。

「なぁ、一葉。何であんな嘘を吐いたんだよ? わざわざ悪者になろうとするなんて…俺以上のバカじゃないか?」

「…いいのよ、そうすれば全て丸く収まるから」

「は? 何を訳の分からない事を言ってるんだよ?」

「…駿平には関係ないわ。もう彼氏でも何でもないんだから…放っておいてよ」

「関係ないわけないだろ? 俺以上のバカを放っておける程冷血じゃないんだよ」

「……バカバカって、うるさいわね。だから私が犯人になれば全部ケリがつくのよ」

「益々訳が分からん。一葉は転校するからそれでいいかもしれないけど、本当の犯人はまだ学校にいるんだから蓮見さんは危険じゃないか!」

「蓮見さんは大丈夫よ。だって彼女の目的は…っ…!」

言ってしまってからハッと言葉を飲み込む一葉に、駿平は愕然とした。

「…彼女って? お前、まさか犯人を知ってて庇っているのか?」

身体を捻って背中の一葉を見ようとするが、彼女は駿平とは反対を向いて逃げ続け、頑なに犯人など知らないと突っぱねる。
意固地な態度に、流石に鈍い駿平も最悪の事を考えた。

「何で庇うんだ? もしかして…俺の知っている奴? 水泳部員とか…」

「違うわ。水泳部の子はそんな事しない。もういいじゃない。全部私がやったのよ。私が学校から去れば全て終わるの」

「そんなんで納得できる訳ないだろ?」

「お願い! もうやめて。これ以上訊くならここで降ろして。保健室なら一人で行けるわ」

駿平の追及に耐えかねた一葉は、背中で暴れだした。
身をよじり背中からずり落ちるほど激しく抵抗する為、流石に駿平も危険だと判断しその場に降ろした。
思わず痛みに呻き座り込んだ一葉に「歩けるのならどうぞ」と挑発的に言葉を掛ける。
一葉はキッと駿平を無視し数歩歩いたが、痛みの余り再び蹲ってしまった。

「歩けないくせに一人で行くって? その足、もしかしたらヒビが入っているかもしれないぞ」

「うるさいわね。ヒビが入っていようと、折れていようと、這ってでも行くから駿平は終業式へ行きなさいよ。今なら補習地獄に堕ちずに済むわよ」

「確かに、今ならまだ間に合うかもな」

そう言うと駿平は一葉に背を向け、スタスタと今来た通路を戻っていく。
駿平の後姿から目を逸らし、遠ざかる足音を聞きながら、これでいいのだと自分に言い聞かせた。


ところが少しすると足音はピタリと止まり、直ぐに駆け足で戻ってきた。
驚いた一葉が振り返るより早く、フワリと身体が宙に浮いた。
突然抱き上げられたことに驚き、喉もとまで悲鳴が上がる。
だが、それは唇を塞いだ熱に閉じ込められ声になることはなかった。

初めて交わしたキスは、乱暴で怒りをぶつけるように荒々しかった。
驚きより怒り。悲しみより恐怖が強かった。
だけど二度目のキスは強引なのに優しくて、駿平の気持ちが伝わってきて、拒むことが出来なかった。

ゆっくりと唇を離した後も頭は真っ白で、お姫様抱っこに抵抗するどころか、言葉を発することも出来ず、駿平の腕の中でグッタリとしていた。

「俺がお前を置いて行くと思った? んな訳ないだろ? 背中でジタバタするから大切なものを落としちまって取りに戻っただけだよ」

「落し物…?」

「ほら、これだよ」

駿平は右手をグイと引き寄せ、手にしたものを目線まであげた。横抱きにされている一葉は必然的に肩を引き寄せられる形となり、二人の距離は更に縮まった。
駿平の唇が額に触れそうな位置に心臓が爆走を始める。
それを悟られまいと顔を伏せて、視線だけで駿平が掲げた物を見た。

目の前に揺れる見覚えのある物に、思わずアッと声が上がる。
それは駿平がスランプから立ち直った最初の大会のときに、一葉が渡したお守りだった。

「これのおかげであの大会で優勝することが出来たからな、俺の宝物だ。…これを失くしたら俺はまた泳げなくなってしまう気がする」

「そんな事ないよ。駿平は自分の力でスランプを克服したもの。お守りなんて無くたって…」

「そうだな…。このお守りの役目は今日までだ」

駿平がポツリと呟き、一葉の瞳をしっかりと見据えた。

「…佐々木に勝ったら、その先は一葉が俺のお守りだから…」

「しゅ…んぺ…」

「俺、きっと佐々木に勝つから…。もう一度だけチャンスをくれ」

「…チャンス?」

「やり直すチャンスだ。今日はお前のために泳ぐ。……応援してくれるな?」

「やり直す? 本気で言ってるの? 私は2学期からもうここにはいないの」

「転校するんだって? ったく、俺に一言も無く逃げるつもりだったのかよ?」

「だって私たちは別れたんだし…。どっちにしろ卒業したら自然消滅じゃない」

「大学へ行けば遠距離恋愛は避けられないと思っていたけど、引越しでそれが半年早くなるってだけだろ? 別れるつもりなんて更々ないし、誰が自然消滅なんてするかよ。遠距離恋愛が不安か? ならお前の引っ越し先にできるだけ近い大学へ行ってしょっちゅう会いに行ってやるよ」

「何言ってるのよ。そんな風に進路を決めるなんてできるわけ無いでしょう? 大体、大学の推薦だってあるのに…」

「推薦は受験が楽でいいかなって思っているだけで、泳げればどこでもいいんだ。特に拘っているわけじゃない」

「そんなのダメだよ。だって大学で本格的にオリンピックを目指して頑張るんでしょう?」

「あー、そのオリンピックを目指してるってヤツ、一体誰が言い出したんだろうなぁ? 俺の夢は別にあるのに」

「オリンピックがそうじゃないの?」

「違うんだ。俺さ、ライフセイバーになりたいんだ。小学生の頃からの夢だったんだよ」

「そんな話初めて聞いたわ」

「誰にも言った事ないからな」

「どうして?」

「うーん…。あのさ、4年生の頃に夏休みのプールで幼馴染を助けようとして逆に自分が溺れた事があるんだよ。スイミングスクールにも行ってたし、あの頃から結構泳ぎには自信があったのに、実際には全然ダメでさぁ。その時、監視員をやっていたお兄さんが助けてくれたんだけど、それがスッゲーカッコよくて、ヒーローみたいに見えたんだよな。…なんかそういう理由って、ガキっぽいって言うか、恥ずかしくて言えないだろ?」

「恥ずかしくなんてないよ。素敵な理由だと思うよ。…でも、あんなに毎日がんばって練習しているのにオリンピックは目指さないの?」

「俺が頑張っていたのは、佐々木に勝ってケジメをつけて、一葉に告白をする為だったんだ。だけどこの理由も恥ずかしいし、大きな声で言えねーだろ? だからオリンピックってのは否定しなかったんだ。否定すると頑張っている理由を詮索されて面倒だから…」

「…告白って…私に?」

「……今までゴメンな。俺、一度もちゃんと気持ちを伝えたことなかったよな。お前の不安な気持ちとか、俺から離れてしまうとか、そんな事考えてもみなかった。お前は俺の傍にいるの当たり前で、何も言わなくても解っていると勝手に思い込んでいたんだ。俺、自分勝手でお前の事なんにも解っていなかったよな」

「…私の事なんて何とも思っていないって、ずっと思っていたわ」

「ゴメン…」

「キスだって、あんな酷いのファーストキスの思い出にしたくないよ」

「ゴメン…って、ええっ? ファーストキス?」

「……そうよ。どうせ駿平も私が遊んでいるから経験済みだと思っていたんでしょ? おあいにく様。私はまだ未経験だし男を悦ばせるような事も知らないわ。…男ってバカよね。外見だけで遊んでいるとか誰とでも寝るとか、自分の都合の良いように妄想しちゃって」

「だったら何で今まで否定しなかったんだよ?」

「否定したこともあったよ。…だけど、私は見た目こんなだし、中学の頃から結構突っ張ってたし、遊んでいるって噂もあったでしょう? そもそも遊んでいるって噂も、中学のとき告られて断った事への腹いせに、私を誰とでも寝る女だっていい加減な噂を流されたことが切っ掛けだったのよ…。もちろんその時はショックで必死で否定したけど、結局周囲は噂を信じて、私はそういう女だってレッテルを貼られちゃったんだ。それからは、なんだか否定するだけ虚しくなって、じゃあそんな風に振舞ってやるわ…って感じだったの。でも、駿平を好きになってから、そんな自分を凄く後悔したわ。駿平には、そんな風に見られたくなかったから…」

「じゃあ毎晩のように夜遊びしてたってのは…」

「あれは両親が喧嘩する度に居たたまれなくて、家を飛び出していたのよ。別に男漁りをするためじゃないわ」

一葉の告白に駿平は溜息と共に脱力した。

「マジかよー? 俺経験ないし、お前に馬鹿にされると思って今まで手を出せなかったのに…」

「は?」

「だからっ、経験豊富なお前に馬鹿にされると思って、怖くてキスもできなかったっつってんだよ」

「はあぁ?」

「あーもうっ! 馬鹿馬鹿しくなってきた。一葉っ!」

「はっ…はいっ?」

「いいか! 今日俺が佐々木に勝ったら、俺のもんになれ」

「へっ?」

「今までビビッて手を出さずに来た結果、えらい遠回りするハメになって、下手したらすれ違ったまま別れるところだったって…こんな馬鹿な話があるか? もう切れた! 絶対に佐々木に勝って、堂々と告白して、お前の全部を俺のモンにしてやる。文句あるか?」

「ちょっ…文句って…はぁ? なんでそう話しが飛躍すんのよ?」

「飛躍してない。オートマチック車だってアクセルを踏んだらいつの間にか4速まで入っているんだ。いつギアが入ったかなんていちいち気にしないだろ? 恋愛だっていつどの段階で進むかなんて誰にも分からないんだよ。キスだってしたし次の段階に進むのは自然だろ? 」

「なに無茶苦茶な理論で説得してんのよ。男の人は次々と先へ進みたいのかもしれないけど、女はそんな訳にいかないの。…キスをしたから次、ってオートマチック車みたいに勝手に気持ちは切り替わらないの」

「一葉は経験の無い男じゃ嫌?」

「…だから、経験とかそういう事じゃなくて…」

「初めての相手が俺じゃダメ?」

「ダメじゃないけど…でも…」

一葉の返答にニッコリと笑うと、駿平は「ヤッタ」とガッツポーズを決めた。
そういう意味じゃないと慌てて否定するも、見事に聞えないフリでかわされてしまった。

「諦めろ。初めて救助したのが、俺をどん底から救い上げてくれたお前だったっていうのは、きっとそうなる運命だったんだ」

「…初めての救助が私? あ…そっか、この間のってそうなるの? …そう言えば、あの時のお礼、まだちゃんと言えてなかったね」

「それも俺が悪いんだよな。お前をほったらかして練習に明け暮れていたから話す機会もなかったんだろ? 色々不安だっただろうに、傍にいてやらなくて悪かったな。先にプールに飛び込んだのも、その後、蓮見さんとお前を嫌がらせから守ったのも佐々木だっただろ? 俺は何も出来ずに見ているだけだったから、なんとなく自分から連絡することができなかったんだ」

「…そんな…駿平がそんな風に感じること無いのに。生徒会長は超人だもの。普通の人はあんな風に動けないわ。比べることが間違ってる」

「まあ、そうなんだけど。だからと言って何もしなかった事は許されないだろ? 良く考えれば、お前が俺に罪悪感を抱いて連絡できなかったって事くらい分かりそうなものなのに…鈍感でゴメンな。何も連絡が無いのは俺を頼りにしていないからだろうって、勝手に思い込んで…ちょっと拗ねていた部分もあったんだ」

「謝らないで。駿平は悪くないよ、もともと私が悪いんだから……」

「…あの時、水の底に沈んでいる一葉を見たとき、心臓が止まるかと思った。お前が息を吹き返すまで生きた心地がしなかったよ。…本当に無事で良かった」

抱きしめられる腕に力が入る。
腕の強さに駿平の気持ちが流れ込んできて一葉は幸せな気持ちで体を預けた。
駿平の胸を打つトクトクと少し早めの鼓動が心地良く伝わり、自分の鼓動がそれに重なっていく。二人で同じリズムを刻んでいるのが嬉しくて瞳を瞑った。

「一葉…―――」

「何? ゴメン、聞き取れなかった」

「……あ…いや、ほらあのさ、松本と付き合うっての、嘘なんだろ? もし本当なら俺、あいつに勝負を申し込まないといけないんだけど?」

手袋を投げる仕草でおどけてみせたが、その目は真剣で、一葉は胸が一杯になった。
色よく焼けた長い腕を伸ばし、ギュッと首に繋がると泣き笑いで言った。

「…勝負なんてしなくてもいいわよ。勝っても負けても、私は駿平しか好きにならないんだから」

震える一葉の声に駿平の胸も熱くなる。

早くなる鼓動に一葉が気付かないことを祈りながら、先ほど一葉が聞き取れなかった言葉を、もう一度心の中で呟いた。



―― 一葉…お前の事が好きだよ――



今度こそちゃんと『好きだ』って言葉できちんと伝えるから。


もう一度やり直せたら、二度と寂しい思いなんてさせないから。


絶対に佐々木に勝って、お前を手に入れるからな―。





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2009年最初の更新が『Love Step』です。
正月なのにいつまで夏の話を書いているんでしょうか…。
実は昨年12月には既に出来ていたのですが、忙しさの余り最終調整ができなくてUPできませんでした(>_<)
こんなダメダメ柊花ですが、今年もよろしくおねがいします。

さてさて…一葉と駿平も何とか纏まりそうな感じです。
締め出された愛子と生徒会室へ向かう淳也のその後は…?
そして聖良と一葉が庇おうとする真犯人の目的とは?
続きは1月中にはUPしますので、ガンバレーとエールを送ってやってくださいませ!

2009/01/04
朝美音柊花