『大人の為のお題』より【好敵手】

三周年記念ストーリー Love Step
異常気象的恋愛症候群 第5話


水泳大会から3週間…
終業式の早朝、龍也に呼び出された淳也は生徒会室のある別館へと向かっていた。

別館に繋がる渡り廊下からは、水泳部が早朝練習をしている様子が良く見える。
その中にスタート台で構える駿平の姿を見止め、思わず足が止まった。
勢い良く飛び込み流れるようなフォームで他を引き離す姿に、水泳大会の予選を思い出す。

あの日、あんな出来事がなければどちらが勝っていたのだろうか…。
予選では僅か0.3秒の差で勝った駿平だが、その結果で満足したとはとても思えなかった。
3年生は既に引退だというのに、未だに一人早朝練習に出てくる駿平の気迫のこもった練習は、 まるで決着がつかない好敵手ライバルへの闘志が彼を突き動かしているように思えた。

その様子を渡り廊下の反対側から見つめる人影があった。水泳大会の後、マネージャーを辞めた一葉だ。
切なげな表情が、彼女の苦しい胸の内を語っている。
自分のせいで龍也との勝負が中止になったと責任を感じている一葉は、水泳部を辞め駿平とも別れたと耳にした。
今日は転校する彼女にとって最後の登校になる。駿平に別れも告げずひっそりと立ち去るつもりなのだろう。

咳払い一つ許されない空気の中、駿平の姿を一瞬も見逃すまいと見つめる一葉。
邪魔をしてはいけないような気がして、淳也はそっと足音を忍ばせてその場を後にした。


再び生徒会室へと向かいながら、淳也は水泳大会から今日までの出来事を思い返していた。

因縁の勝負直前、総立ちで熱く沸き立つ会場で、愛子から水着盗難の犯人が別にいると聞かされたのは、今まさに選手に合図を告げる長いホイッスルが鳴り、龍也たち選手が緊張した面持ちでスタート台に登った時だった。
嫌な予感に駆られ、「この勝負がついたらすぐにあいつらを拉致して二人の所へ連れて行く」と告げ、愛子には聖良たちの傍にいるよう指示すると、すぐにターゲット捕獲に選手控えのテントへ向かう。
だが次の瞬間、飛び込みプールで、何かが水面に叩きつけられる大きな水音がした。

嫌な予感は現実のものとなったのだ。

振り返った淳也が目にしたものは、レースを放棄し飛び込みプールに消える龍也の姿。
そして、愛子がその後を追って飛び込もうとする所だった。
寸での所で引き止めた淳也は、腕の中で泣き崩れてしまった愛子を抱きしめたまま、水面を見守り無事を祈ることしか出来なかった。

緊迫した空気が流れる中、全員が浮上してきたとき、会場にはホッとした空気が流れ一旦緊張は薄れたが、意識を失った恋人を抱いたまま離そうとしない龍也の様子に、再びその場は重苦しい空気に包まれた。
全校生徒が固唾を呑んで見守る中、一葉にはすぐに職員らによる処置が施されが、龍也は手を貸そうとする保険医を拒絶し、誰も聖良に触れることを許さなかったのだ。

自らの命を分け与えるように唇を重ね、息吹を吹き込む。
湧き水のように懇々と溢れ出る純粋な想いは、静かに唇を通して注がれていく。
やがて聖良がその想いに導かれるかのように目覚めた時、二人の深い絆に多くが感動し胸を熱くした。
熱烈な龍也ファンといわれるグループでさえ、今度ばかりは心を動かされたのか、最近では二人を祝福する雰囲気がそこはかとなく漂っているほどだ。
『災いを転じて福と成す』とはこういうことを言うのかもしれない。


だが、全てが良い方向へと解決したわけではなかった。
注目の夏の出会い系行事が不発に終わり、更に賭け競泳がなし崩しになってしまった為、翌日の学内には不完全燃焼的な雰囲気が漂っていた。
それ故、一部の学生の不満の捌け口は、中止の原因となった事故へ、更にその当事者である聖良と一葉に向けられてしまったのだ。
安静を要した聖良たちが休んでいたのは、ある意味幸いだったかもしれない。
根も葉もない噂が飛び交い、中傷めいたことが囁かれ始めるまで半日と掛からなかった。

面白半分の噂は、すぐに尾ひれがつき、あっと言う間に原型が分からないほどに変化する。噂が雪だるま式に大きくなり、収集がつかなくなる前に歯止めをかけなければ、ありもしない事実で二人が傷つくのは時間の問題だった。

だがその日の午後、耳障りな噂が囁き始めた事にタイミングを合わせたように、新聞部が水泳大会の特集記事を発行した。
実はこうなる可能性をある程度予想していた龍也は、水泳大会の直後、既に行動を起こしていたのだ。

病院の検査で聖良の無事を確かめた後、彼が一番最初にしたのは新聞部部長に連絡を入れる事だった。
学校始まって以来の秀才の謎に包まれたプライベートは、常にスクープを狙われている為、龍也は新聞部を毛嫌いしている。
通常なら、龍也自ら連絡を取るなどありえないのだが、今回ばかりは違った。
龍也は自分の発言が学校に与える影響をよく知っている。それを最大限に利用し情報操作を試みたのだ。

タイミングもその効果も龍也の計画通りだった。
唯一つの誤算以外は…。

事故の経緯をサスペンスドラマのシナリオのように編集した記事に注目が集まったのは勿論だが、何といっても龍也が恋人への想いと、犯人への怒りを吐露した記事には、学校中が驚嘆し、「犯人は必ず俺が見つけ出す!」と派手な見出しと共に、聖良にキスをしている写真が掲載された新聞は、歴代最短スピードで売り切れるという偉業を成し遂げた。

だがこの写真の掲載は龍也も知らされていなかった。
写真は、聖良が目覚めたとき、喜びの余り我を忘れ、無謀にも酸欠の聖良にキスをして、親友の二人に慌ててストップを掛けられた時のものだった。
新聞部部長も利用されっぱなしはゴメンだということだったのだろうが、龍也にしたら大きな誤算だった。
人前で素を曝した瞬間をスクープされた屈辱的な写真の無断掲載に、憤死するほど怒ったのは言うに及ばない。
しかし、この写真効果は絶大で、悪評は一瞬にして消え去ってしまったのだから、これも災いが転じて福…という事なのかもしれない。
実際、記事の内容は多くの共感を呼び、今や二人は『公認のカップル』から『理想のカップル』に昇格し、学校全体で応援するムードが浸透しつつある。
その為、聖良はこれまでと別の意味で注目され、簡単に犯人が危害を加えることは出来ないような状況にある。
ここまで計算して新聞部を利用したことにも驚くが、利用できるものは自分自身であっても最大限に利用するあたりも大したものだ。
逆境をも逆手に取り順境へと一変させてしまう見事な手腕に、淳也はただ舌を巻くばかりだった。
敵に回すのは心底恐ろしい男だが、味方につければこれほど頼もしい男はいないだろう。
去年の冬を思い返して、もしもあのまま敵対していたら…と思うと、つくづく敵で終わらなくて良かったと思った。


生徒会室まで来ると、形ばかりのノックと共に返事も待たずにドアを開く。

窓際のソファーには、先ほどの記憶の中の不安げな顔をした人物とは打って変わった、仏頂面をした生徒会長が長い足を組んで座っていた。
クールビューティと呼ばれるだけあって、眉間に寄せられた皺すら計算されたように美しく、黒曜石のような漆黒の瞳は嘘偽りを許さない絶対零度の冷たさで見るものを射抜く。
だが決して心が冷めている訳ではない。

精神的に弱っている聖良達を護るため、水泳大会の後始末が落ち着くまで休ませたのも龍也だった。
おかげで一葉も悪評に苦しめられる事無く、翌週には通常通りの学校生活に戻ることが出来たのだ。聖良の為だけにやったことで、一葉の事は偶然だと本人は言い張るだろうが、実はそうではない不器用な性格に淳也は気付き始めていた。

「この顔じゃそんな事誰も信じねぇだろうなあ」

声に出したつもりは無かったが、無意識に呟いてしまったらしい。
「何のことだ?」と問うが、その目に射るような鋭さが無いのは自分を信頼しているからなのかもしれないと思うと、少し嬉しい気がした。

「俺の顔なんて気にしている暇はねぇぞ。大体お前遅いんだよ浦崎」

「はっ?遅いって今7時15分だろ? 約束どおりだ」

「ドアをノックしたのが7時15分55秒。入室したのが58秒。って事は、ほぼ16分だ」

「…細けぇやつ」

「時間がない。7時半から生徒会役員のミーティングがある。その前にお前と話しておきたかったからな」

ピリリと緊張が生徒会室を包む。
二人しかいない空間が密度を増し、急に重苦しくなった気がした


人の噂も75日というが、情報化社会の現代において、噂はそんなに長く続かない。
どんな噂もせいぜい1週間から10日と言ったところで、ほかに注目が集まればすぐに記憶から薄れていく。
夏休みが近づくにつれ、学内は浮かれ気分になり、誰も水泳大会の話題など口にしなくなっていった。
それは学校全体の雰囲気を考えると良いことであるが、いまだ犯人の分からない不安を抱えた聖良と一葉にとっては、不安を残す夏休みとなる事を意味していた。

このままでは夏休み明けには事件の事など忘れられ、再び聖良が狙われないとも限らない。
どうしても夏休み前に犯人を挙げたかった龍也は学校長に水泳大会の仕切り直しを頼むという最終手段を取ったのだ。
再び狙われる可能性は否定できない。リスクは大きく校長も最初は渋ったが、龍也の熱意についに折れた。
元々龍也と駿平の勝負を楽しみにしていた所を突かれ、誘惑に勝てなかったというのもあったかもしれない。

2度目とあって強制参加ではないが、事前調査では出席率は95%にもなった。それほど龍也たちの勝負は注目されているのだ。
自らを餌に犯人が食いつくことを祈って龍也はその日に賭けていた。


淳也はソファーの隣の窓に寄りかかり、腕を組んで龍也の言葉を待った。
龍也は身を起こし、長い足を組みかえると、呼吸を整えるように一つ息を吐いてから口を開いた。

「終業式は10時から、プールサイドで行われる。俺は挨拶した後、暁に後をまかせて、競泳の準備に入る。…悔しいが今回ばかりは聖良の傍にいられないし、響も暁も会場を離れられない」

悔しさと不安に拳を握る手に力が篭り、ギュッと強く瞳を閉じる龍也の心中を察して、淳也はその肩に手を置くと力を込めた。

「…大丈夫だ、信じろ。聖良は僕が…いや、僕と愛子がきっと守ってやる」

「金森は大丈夫なのか?」

淳也は驚きに目を丸くした。
愛子は聖良が病院へ運ばれた後、意識を失い保健室へ運ばれた。その後も余り体調は思わしくない為、淳也がいつも寄り添っているのだが、元来聖良以外に興味のない龍也が他人の体調に気付いていたとは驚きだった。
しかも自然に出た愛子の体調を気遣う言葉。これまでではありえない事実に、驚きながらも、聖良のおかげで確実に人間らしく調教され…もとい、確実に穏やかになった龍也の変化に、二人の絆を感じ、気持ちが温かくなっていった。

「…うん、愛子はあの事故を、自分が聖良たちから目を離したせいだと強く責任を感じているんだ。体調が悪いのも、毎晩あの日の事を繰り返し夢で見るせいで眠れないらしくて…」

「あれは金森のせいじゃない」

「僕もそう言っているんだけどさ、何といっても聖良に関しては保護者みたいなつもりでいるし、責任感の強いところがあるからな。犯人が分からない間は不安でいられないようなんだ。…僕は愛子の為にも、絶対にヤツのシッポをつかんでやる」

窓の外へ視線を移す淳也の瞳が一瞬強い光を放つ。
危険を孕む荒療治ではあるが、大切な人の為にも絶対に解決してみせると意気込む気持ちは、淳也も同じだった。

そんな淳也を龍也は不思議な感覚で見つめていた。
少し前までは許せるとは思えなかった、聖良に危害を加えた男。
だが今は、暁や響に次いで信頼に値する存在になりつつある事を否定出来ない位近く感じるのは、互いに似たものを感じているからだろうか…。
龍也の視線に気付いた淳也が窓から視線を外し振り返る。龍也はゆっくりとソファーから立ち上がり、同じ高さでその視線を見据えると、一呼吸置いて口を開いた。

「聖良を頼む。…お前にしか頼めないんだ」

親友の二人にしか心を開かなかった龍也が、初めて他人に頼みごとをした瞬間だった。



◇◆◇  ◇◆◇  ◇◆◇  

午前9時00分。
10時から始まる終業式を前に、プールサイドでは生徒会役員と水泳大会実行委員によって慌しく準備が整えられていた。
だがその中に龍也と聖良の姿は見えなかった。

表向きは夏休み前に意気消沈した学内を盛り上げる為に企画されたと思われているため、恋人ゲットに燃える学生に再び火をつけたのは言うまでもなく、仕切りなおし水泳大会には、皆拍手喝采だった。 更に一度は中断された賭け競泳も再燃し、テンションに拍車をかけお祭り騒ぎのような有様だ。
これには一度は大ブーイングを浴びた賭け競泳の言い出しっぺである暁としては、ホッとしたことだろう。

事前アンケートで不参加者は既にリストアップし調査済みであるため、聖良を狙った者は水泳大会参加者に含まれることになる。
不参加者の中に聖良の名が連ねられたのは必然だった。



「いやですーっ。龍也先輩が何て言おうと絶対に参加しますからね」

「だーめーだ。聖良は生徒会室で待機だ」

縋るように見上げる潤んだ瞳には弱いが、流石に今日だけは微塵にも心動かされる訳にはいかない。
珍しく強気で言い張る聖良を振り切るようにして、生徒会室を出ようとする…が、制服の裾をガッチリつかまれそれは叶わなかった。

「あーっ、逃げるなんてズルイ! 今回は大人しく観覧席で見ているから大丈夫ですってば。ねぇ〜愛子先輩からも龍也先輩を説得してくださいよぉ」

聖良は助けを求めるように視線を彷徨わせたが、愛子も今度ばかりは龍也に強く出ることは出来なかった。

「ごめんね。あたし、またこの間みたいなことがあったらと思うと怖くて…。今回ばかりは聖良ちゃんの味方は出来ない。誰がやったのか分からない以上、聖良ちゃんが会場へ行くのは危険だと思うし、佐々木君の判断が正しいと思うの。井波さんももうすぐ来るし、二人でここで鍵をかけて待機していて」

「…井波さんも?」

「ええ、さっき佐々木君に頼まれて淳也が迎えに行ったみたいだし、もうすぐ来ると思うわ」

頼みの綱の愛子にも諭され、「そうですか」とうな垂れる聖良。
可哀想だとは思うが、今日ばかりはこうすることが彼女の為なのだと、愛子は自分に言い聞かせた。

聖良とて、愛子の言うことも、龍也の心配も、十分すぎるほど解っている。
ビケトリは生徒会の仕事で手が一杯だし、 龍也は今度こそ最終決戦を中断するわけにいかない。愛子はまだ体調が優れず、自分が会場へ行けば更に心配をかけてしまうだろう。
どれだけ自分で身を護ると言い張っても、皆に迷惑をかけるのは目に見えており、大人しく生徒会室隔離を呑むしかないのだった。

「俺が泳ぐときだけは迎えを来させるよ。だったらいいだろ? とにかく今日は大人しくしててくれ。もう役員の最終ミーティングまで時間がねぇから…俺、先に行くな」

「あたしも役員なのに〜」と愚痴る聖良を無理やり納得させるとドアノブに手をかける。だが、ふと何かを思い出したように戻ってきて聖良に耳打ちをした。
コクンと頷く聖良に「そっか。じゃあ、思いっきり勝負してくる」と言い残しニッコリと笑うと、大急ぎで生徒会室を出て行ってしまった。

「もぉ…龍也先輩も愛子先輩も心配しすぎなんですって」

「…聖良ちゃんの気持ちも解るけど、あんな事があった後だし…」

「うーん。解るんですけどね。だからこそあたしは隠れていたくないんですよ。彼女があんな事をしたのには理由があると思うし、ちゃんと理解したいと思うんです」

「死んでいたかもしれないのよ。それでも理解しようなんて人が良すぎるにも程が……え!」

聞き流してしまいそうな台詞の中の事実に気付き、愛子は愕然とした。

「ちょっと待って。今『彼女』って言ったわよね? 聖良ちゃん、まさか犯人を知っているの?」

慌てて口を噤む仕草は、明らかに質問を肯定していたが、どれだけ問い詰めても、聖良はそれ以上を語ろうとはしなかった。
普段はたおやかで優しい彼女だが、芯が強く、意外に頑固なところがある。一旦全てを胸の内で収めようと決めた気持ちを覆すことが難しいことは分かっていた。

問い詰めることを諦めた愛子は、聖良が庇いそうな人物の中で、あの日犯行が可能であった者がいないか、もう一度考えてみることにした。



◇◆◇ 



生徒会室を出た龍也は、廊下の先に一葉を迎えに行ったはずの淳也が立っていることに気付いた。
「どうする?」と視線で問う淳也の示す先には一葉と駿平がいた。
何やら深刻な様子に声を掛けかねていると、駿平がいきなり一葉を引き寄せ、唇を重ねた。

「なんだ、あいつら寄りが戻ったのか」というニュアンスを含んだ淳也の口笛が廊下に響く。
だが次の瞬間、一葉は駿平の頬に平手を浴びせ何かを言い捨てると、唖然とする二人の脇をすり抜け、生徒会室と逆の方向へ走り去ってしまった。
駿平は腫れた頬を押さえ、切なげな表情で一葉が消えた廊下を見つめ立ち尽くしている。
龍也の目配せを理解した淳也はすぐに一葉の後を追いかけた。

二人きりになったのを確認し、龍也は非難めいた視線で駿平を流し見た。

「ふーん…情けないツラだな。お前らが別れたって噂は本当だったんだ。しっかしまあ、キス一つで随分派手に引っ叩かれたもんだなぁ」

「お前には関係ないだろ! あんな女…もう知るもんか」

からかうような口調にムッとして顔を上げると、唇を噛み締め表情を硬くする。そんな駿平に龍也は追い討ちをかけるように言葉を連ねた。

「ふうん…ヤッパリその程度の気持ちか。井波の言ってた通りだな」

「……一葉が何だって?」

「別にお前が気にするほどの事じゃないさ。たかが『あんな女』で『もう知るもんか』なんだろう?」

「なっ!佐々木に何が解る? いい加減なのは一葉のほうだ!あいつ水泳大会の後、えらく落ち込んで、暫く連絡もしてこないと思ったら、突然別れると言い出しやがって。おまけに何の相談も無く水泳部も辞めちまって…」

「お前バカか? 受身に徹して何もしないやつが図々しくも、よくそんな事が言えたもんだ」

それまでのからかい口調をやめ、真顔になった龍也の目の鋭さに、駿平は一瞬鼻白んだ。

「別れた理由も解らないって? ちゃんと話し合う時間も無ければデートすらしない。挙句の果てに井波が苦しんでいた時に連絡もせずほったらかしで、水泳ばっかりしてたんだろ? こんな鈍感な水泳バカに一年も尽くしたのに、辛いときに励ましても支えてもくれない。それじゃ愛想尽かされないほうがおかしいって。しかも別れた後に無理矢理あのキスじゃ、井波も可哀想だよな。そりゃあ平手も喰らうさ」

「……ぅ…ぁ…まぁ…。キスは……松本の名前を聞いて頭に血が昇っちまって…」

「誰だそいつ?」

「水泳部の2年生だよ。前から一葉を狙っていたのは知ってたけど、告白されたんだとさ。部内で色々と噂されるのが嫌でマネージャーも辞めたんだ。あいつと付き合うことにしたって…」

「…お前それを信じたのか?」

「信じるも何も、今さっきあいつがハッキリとそう言ったんだ。そしたらもう何がなんだか解らなくなって、無理矢理でも俺のものにしておきたくて…」

「はぁ…で、あのキスか。一応嫉妬する程度に好きなんじゃねぇか」

「一応って何だよ。好きだから付き合っていたんだろ?」

掴みかからんばかりの勢いで噛み付く駿平に一葉への想いを見た龍也は、不器用な二人に心底呆れた。

「筋金入りのバカだな。そう言えば一度も「好きだ」って言った事もないらしいな。それで井波がお前の気持ちを信じられると思ってたのか?」

「…水泳大会でお前に勝てたら好きだって言うつもりだった」

「は? 何だよそれ。俺が勝ったら告白もせずこのままダラダラ行くつもりだったのか? 優柔不断を人のせいにするな」

「別に佐々木のせいにしているわけじゃない。去年お前に負けたことが一葉と付き合う切っ掛けだったから、勝って告白するのが俺のケジメだったんだ。
…確かにこの一年は中途半端な関係ではあったけど、一葉が裏切るなんて考えてみたこともなかったんだ。
だけど…俺の自惚れだったな。モタモタしている間に松本に掻っ攫われるなんて…」

地の底まで減り込むような駿平の落ち込み方に、さっきから一葉の気持ちは伝えてやっているつもりなのに、この男はどんだけ鈍いんだ?と、頭を抱える。
人に干渉することが嫌いな龍也が、珍しく自分から関わったのは、ずっと一葉の事を心配し続けている聖良の気がかりを取り除いてやりたいという、誠に利己主義的な理由からだった。
人の恋路に首を突っ込むなんて面倒なことは大嫌いだが、聖良の為にちょっと背中を押すだけならいいだろう、くらいの気持ちだったのだ。
だが、余りに鈍く、余りにバカらしいすれ違いをしている二人に、だんだん苛立ってきた龍也は、駿平に爆弾を投げつけることにした。

「松田とかってのは関係ねぇ。告ったのが本当だとしても絶対に付き合うことはないぜ。…井波は転校するんだから」

「松田じゃない、松本だって。…って、え? 誰が何だって?」

水中ではあれだけ俊敏な男が、何故陸上ではこんなにも鈍臭いんだ?と、目の前の男を投げ飛ばしたい気持ちでもう一度同じ事を繰り返す。
ようやく理解できたらしく、駿平は顔色を変えた。

「転校ってどういう事だ? 何で佐々木が知ってて俺には何も言わなかったんだ?」

「さあな。そんな事おまえが自分で訊くべき事だろ?」

駿平は龍也の台詞にグッと言葉を呑みこみ、声にならない声で唸った。

「井波は浦崎が生徒会室へ連れて行くことになっている。お前が本気でやり直したいと思うなら、行って話し合って来い」

流石に鈍い駿平でも、ここまで言われれば理解できたようだ。
コクリと頷くと、龍也に小さく礼を言い、一葉の消えた方向へと走り出した。

「だーかーらぁ。井波は浦崎が連れて行くからお前は生徒会室へ行けっつぅの。人の話きちんと聴けよな?」

既に声も届かないほど小さくなった駿平の後姿に、本日一番大きな溜息を吐いた龍也は、諦めたように小さく肩をすくめると、ミーティングへと向かった。



◇◆◇ 



一葉を追ってホールに来た淳也は、四方向に伸びる廊下を前に足を止めた。

この学校には4つの棟と渡り廊下で繋がった別館がある。
それぞれの建物は中央のホールを中心に東西南北に建っており、別館はホールから伸びた長い渡り廊下で結ばれている。
ちなみに1年生は東棟、2年生が西棟、3年生が南棟となっており、北棟には教官室と呼ばれる先生方の休憩室や各教科の資料室、図書室などがある。
別館には、保健室や売店などがあり、その一番奥に生徒会室が位置している。

学年集会もできるほどの広いロビーは、いつも学生で賑わっているが、今は静かだった。
ホールから中庭に出る引き戸が僅かに空いたままになっており、そこから涼やかな風が吹き込んでいる。小さな物音がした気がして引き戸を開くと、そこにうずくまっている一葉を見つけた。
どうやら中庭へ出る際に段を踏み外したらしく、右足首がかなり腫れている。
痛々しい姿に淳也は保健室へ行こうと提案したが、一葉は頑なに拒否をした。

「廊下にはまだ駿平がいるかもしれないもの。…行きたくない」

「なんで叩いたりしたんだ? やっぱり別れたのか?」

「…一度もキスなんてした事なかったのに…まるで腹いせだわ…」

「腹いせ?」

「駿平に一方的に別れた理由を訊かれたけど、本当の事を言えなくて、水泳部の松本君と付き合うことにしたからだって嘘をついたの。そしたらいきなり…」

「…なんでそんなすぐにバレる嘘を…」

「私…以前から松本君に何度も誘われていたから、いかにもそれらしいと思って。どうせ嘘だってすぐにバレるけど、その頃には私はもう、ここにいないからいいの。…最低な女だと思われても、どうしても本当の事は言えないわ」

「水泳大会の事なら、井波は何も悪くないだろ? そんなに自分を責める必要は無いのに」

「私は自分を許せないの。つまらない小細工をして、真剣な駿平の気持ちを踏みにじるような事をしてしまった。そのせいで生徒会長との真剣勝負もあんな形で中止になって…。どれだけ謝っても謝りきれないわ。
…だけど、自分を勝たせるために恋人が卑怯な真似をしたなんて知ったら、きっと凄くショックを受けるわ。プライドをズタズタにされて、どん底まで落ち込んでいた一年前のように、深く傷ついて泳げなくなるかもしれない。それくらいなら、別の意味の最低女になるほうがマシだわ」

足を庇い立ち上がろうとして、痛みの余り再びうずくまる一葉を、淳也は複雑な気持ちで見つめた。
一連の流れを聞くと、駿平のキスは嫉妬だと思う。
だが、一葉は振られた腹いせにキスをされたと、駿平にとって誠に不名誉な誤解をしているし、駿平も嘘を真に受けてとんでもない思い違いをしている。
このまま二人が別れてしまっては、どうも寝覚めが悪い気がする。なんとかならないかと思った時、駿平が別館から走ってくるのが見えた。

先ほどの淳也と同じく、ホールで一旦立ち止まり周囲を見回している。その表情は焦っており、明らかに一葉を探しているようだった。
座り込んでいる一葉は死角になって見えないらしく、淳也は存在を知らしめる為に、わざと通る声で話すことにした。

「…井波、とにかく保健室へ行こう。酷く腫れているし冷やさないとマズイだろ? 武田に会いたくないなら廊下を通らないで中庭を抜けて行けばいいさ」

「痛くて立てない。もう少し休んで痛みが引くまで待つわ」

一葉が怪我をした事に気付いた駿平が、心配そうに眉を寄せるのを横目で捉えながら、淳也は更に続けた。

「たかが数分待って引く様な腫れじゃないだろ? そろそろ行かないと…。終業式が始まる前に生徒会室へ行かないとマズイんだ。佐々木から聞いただろうけど、水泳大会が終わるまで絶対に生徒会室から出す訳にいかない。…例の犯人が誰か判らない以上、また何かあるかもしれないんだ。…解るよな?」

「浦崎先輩は蓮見さんのボディガードだけしていればいいわ。私なら平気だから行って」

「そんな訳にいかないだろ? 狙われたのは聖良だとは限らない。もしかしたら井波を狙っていた可能性も否定はできないんだ」

淳也の強い口調に、駿平は一葉の置かれた状況を初めて知り、息を呑んだ。

「…ホント、蓮見さんの周りはお節介ばかりね。言っとくけど私なんて庇う余地ナシよ。最低な人間なの。だから放っておいて」

「何を言ってるんだよ。愛子も井波の事を心配してるんだ。行こう、歩けないなら生徒会室までおぶって行ってやるよ」

「そんな事したら、金森先輩が怒るわよ」

「愛子は許してくれるさ、事情が事情だからな。むしろ、井波を置き去りにして来たなんて知ったら、当分口を利いてくれなくなるだろうな」

背中を差し出して、「早く」と急かす淳也に戸惑う一葉を見て、駿平は込み上げてくる感情に居ても立っても居られなくなり、開け放った引き戸に手を掛けた。
だが、次の瞬間、一葉が放った衝撃的な言葉に、駿平は喉元まで出かかった言葉を呑みこみ、その場に硬直してしまった。


「…もし蓮見さんを突き落としたのが私だったとしても、そんなに優しくできる?」


オレンジの髪をかき上げ、挑発的な目で淳也を見据えると、投げやりな口調で言い捨てる。
淳也は暫し言葉を失ったが、やがて擦れた声で「まさか?」と呟いた。
その視線が戸惑い立ちすくむ駿平とぶつかる。
気まずい雰囲気が流れ、その気配にようやく駿平がそこにいることに気づいた一葉は、真っ青になった。

「…一葉…どういう事だ? 水泳大会でいったい何があったんだ?」

駿平の問い掛けに、弾かれたように反応した一葉は、まるで挑むように二人の男を見つめた。
燃えるような瞳だが、その中には哀しみの色が滲んでいる。
何かに脅え、威嚇する小動物のようだと、淳也は思った。

一葉は駿平の問いには答えず、冷笑を浮かべと、開き直った態度で吐き捨てるように言った。


「浦崎先輩、私が犯人よ。…それでも私を生徒会室に連れて行く?」





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えー?5話で終わりじゃなかったの?とのお声が聞えてきそうですよ(苦笑)
この章、実は8パターン書きました(;´Д`) もう死にそうです…。
書いて書いて書いて…、短く纏めようとかなり頑張ったのですが、3つの恋を描きたいと思うと、どうしても捨てきれない部分があって、最終的にこの形で発表することにしました。
ボツ作品の中には、色々なエピソードがあるのですが、そこまで書くと、絶対に10話くらいになりそうなので、機会があれば番外編で綴ってゆきたいと思います。
次回第6話目に突入…。ダラダラと長くなってすみません。。。(〃_ _)σ‖ 
最後までお付き合いくださると嬉しいです。

2008/10/02
朝美音柊花