聖良たちが戻ったとき、水泳大会会場は異様な熱気で包まれていた。
選手の集合場所へ視線をやると、既に準備を済ませた1年生から予選が始まろうとしている。
その奥で体を解している3年生の中でも龍也は一際目を惹いていた。
スラリと長い手足。バランスの取れた筋肉に引き締まった体つきは、まるでギリシャ彫刻のように美しくどこからともなく溜息が洩れた。着痩せして見えるが意外にも厚い胸板に、熱っぽい視線が注がれる。
だが、その鎖骨辺りには、彼が誰のものであるかを主張しているモノが一つ鮮やかに浮き上がっていた。
水着の下に隠された病的な愛情表現に対する、聖良のささやかな抵抗だった。
これまで何度試しても一度として印す事のできなかったそれが、今回に限り見事についてしまったのだ。しかもそれが必要以上に恋人を艶かしく見せている。
愛子に冷やかすように肘で突(つつ)かれて、耳まで染まるのを感じたとき、本人とバッチリ目が合った。
鎖骨の紅くなった部分を指差し、しかめっつらをする龍也にゴメンと仕草で謝る聖良。それに対して含みのある笑みを浮かべ、何事かを口の動きだけで伝えると、最後に鮮やかにウィンクを決めた。
すっかり二人だけの世界である。
この距離からあの口パクだけで意志が伝わるのか? と疑問に思う愛子。だがそれは、この二人には愚問だったようだ。
コクリと頷き微笑を返した聖良に、流石と納得するしかない。
見詰め合う二人の間に距離などなく、周囲には薔薇が飛び散り、一際明るくキラキラ光っているようにすら見えた。
その時、目の前の幻を吹き飛ばすような黄色い声が愛子を現実に戻した。
人前で微笑む事は稀な龍也がウィンクまでした事で、あちこちから龍也ファンの女の子の歓声が上がったのだ。
だがどれほど熱狂されようと、当然ながら龍也の視線はただひとりに注がれており、
黄色い声も熱い視線も、尾に集(たか)る蠅程度にしか思っていない。
こうなると龍也ファンの嫉妬は、聖良に向けられるのは必然の流れである。
大らかな性格の故、サラリと交わしていられるのだろうが、聖良の隣にいるだけで、愛子も一葉も視線で射(い)殺されてしまいそうな気さえした。
公認の仲で龍也が万全の体制で護っているが故、誰も手を出せないが、気を抜けば水着の盗難などまだかわいい部類であろう悪質な嫌がらせが、即刻彼女を襲うに違いないと、愛子はゾッとした。
隣にいた一葉も、先ほどの龍也の様子は過保護すぎると思っていたが、どれだけ警戒しても足りないほどに聖良は嫉妬と羨望の眼差しに曝されているのだと、身を持って納得した。
「聖良ちゃんってよくこんな痛い視線の中、平気で佐々木君と見詰め合えると思わない?」
「ここまで鈍いのも一種の才能かもね」
「佐々木君のオーラで催眠術にかかるのよ、きっと」
「あー。なんとなく納得」
勝手に納得して頷いたとき、二人は注目されているのが聖良だけではないことにようやく気が付いた。
女生徒の嫉妬と羨望の入り混じった無遠慮な視線が纏わりつき、妙な拘束感に悪寒が走る。
更に男子生徒の好奇の視線が舐めるように体を這う、不快な感覚が追いかけてきた。男性恐怖症の愛子は、恐怖と緊張で呼吸が乱れ始めていた。
成績優秀容姿端麗、完全無欠の生徒会長 佐々木龍也の彼女、蓮見聖良。
オリンピック出場も夢ではないと期待される、水泳部エース武田駿平の彼女、井波一葉。
そして、学校一のプレイボーイ、浦崎淳也を本気にさせた、氷の美女と名高い金森愛子。
この三人が一緒にいて、注目するなというほうが無理な話ではあるが、彼女達にとって――正確には聖良は気付いていないので二人だが――決して観戦を楽しめるような状況ではなかった。
「金森先輩、顔色が悪いわね。場所を移動しない?」
「…ここは気分が悪いわ。でもどこへ行くの? 25mプール側の席ならガラガラだけど、みんな立ち上がっているからあそこからじゃ障害になって全然見えないわよ」
この学校は25m、50m、水深5mの飛び込みプールの3種類のプールが整っているが、水泳大会で利用されているのは50mだけだ。
故に他のプールの応援席はガラガラだが、50m側の応援席とプールサイドはすでに過密状態だった。
「あそこじゃなくて、隣よ」
人差し指を立ててチッチッと否定し、指差したのは、隣接した飛び込みプールだった。
高飛び込み用の3種類の飛び込み台を備え、地上10mの高さで聳え立つ姿は迫力があり圧倒されるものがある。
「あそこなら誰も気付かないわ。みんな競技に真剣で上なんて見ないでしょうしね」
「……うわ…見事な絶景ポイントね」
「下の台から5m、7.5m、10m。…部員でも恐怖心を克服するのは大変だと言うけど、避難場所には最適よ。しかも競泳プールがバッチリ見下ろせる特等席だわ」
「……確かにね。でもあそこの階段には鍵が掛かってるんじゃ…」
愛子が言い終える前に、一葉は胸の谷間からキーホルダーを取り出しかざしてみせた。夏を思わせる陽射しに反射しキラリと光る。
「これでも水泳部のマネージャーだから朝練の時は一番に来て鍵を開けるのよ。普段はこんな風に持ち歩かないけど、今日はいつでも部室へ行けるようにと思っていたから…。こんなことに使うことになるとは思わなかったけれどね」
恥じるように言い捨て、素早く鍵を胸にしまうと申し訳なさそうに聖良を振り返った。
未だ龍也をウットリと見つめる聖良は、一葉の懺悔の表情には気付いてない。
聖良に惹かれ素直になり始めている一葉に、愛子はいつしか過去の自分を重ねていた。
三人がトイレへ行くふりをして会場を抜け出し、飛び込み台の上に来た時、丁度三年生の予選が始まるところだった。
全学年から予選タイム上位8名が選出され、最終決戦に挑むのだが、龍也と駿平が残るのは確実と見られていた。
龍也の予選の様子を、聖良は緊張に高鳴る鼓動を鎮める様に胸に手を当て見詰めていた。
水面から5mの一番低い台だが、想像以上の高さに足が竦む。それでも視界を遮る物もなく、龍也の姿を見ることができる喜びのほうが遥かに勝っていた。
龍也の予選結果は予想通りだった。
ホウッと喜びの溜息と共に緊張を解き、笑顔になる聖良を微笑ましい思いで見つめる愛子だったが、ふと横を見ると、一葉も同じ仕草で真剣に駿平の予選を見つめていることに気付いた。
一葉の横顔は、先ほどまでよりずっと雰囲気が幼く見える。聖良の水着はもとより彼女のものだったように自然に馴染んでいる事に、彼女が普段必要以上に突っ張っているのだと、愛子は思った。
男性恐怖症であることを隠す為、あえて嫌な女を演じ男を拒絶する内に、いつしか美人を鼻にかけた高飛車な女のイメージが定着していった自分の様に、一葉もまた、本来の自分を隠し続ける内に、良くない噂が先行しまったのだろうと思うと、心が痛む思いだった。
順平が龍也より僅かに早いタイムで予選を通過し、一葉に安堵の表情が浮かんだことを確認してから、愛子は口を開いた。
「武田君、すごかったわね」
「ええ。でも生徒会長は相変わらず凄いわ」
「まあ、彼は超人だから。…ところで、その水着 借り物とは思えない位あなたに似合っているわよ。このデザインのほうが無理に大人っぽくするよりずっと自然であなたらしいんじゃない?」
「わっ、私には可愛すぎるわ。こんなフリフリラブリーなのは
rental でなきゃ絶対にありえないわ。これを拾ったとき、うちの部員にこんなラブリー系いたっけ?ってビックリしたんだもの」
「―…拾った?」
遠まわしに自然体でいて欲しい気持ちを伝えようと振った話題だったのだが、意外な方向に流れ出し、愛子は戸惑った。
「拾ったって…待って、井波さんは聖良ちゃんの水着をロッカーから持ち出したんじゃないの?」
「違うわ。昼休みに部室へ行った時、ドアの前の植え込みにひっかかっていたの。最初は部員が落としたのだと思って拾ったのよ。でも袋を見たら蓮見さんの名前が書いてあったから、とっさに隠すことにしたの。これが無ければ水泳大会に出れなくなって困るだろうって…」
愛子と聖良は驚いて互いを見た。
一葉が盗んだのでないのなら、ロッカーの鍵を持っている者が他にいることになる。
一度は開放された不安がもう一度襲い掛かってきた。
「じゃあ誰が? …ロッカーの鍵を作ってまで盗んだ水着をそんな目に付くところに捨てていくなんて…どういうことかしら? 誰かが拾って届けるとは思わなかったのかしら?」
「盗んだ?」と訝しげに訊く一葉に、これまでの事を説明すると、流石に彼女もその悪質さに眉を顰め、暫く考え込んだ後、ボソリと呟いた。
「……何故、水泳部の部室の前にあったのだと思う? 私が拾ったのは偶然かしら? …もしかしたら私が拾うことに意味があったのかも…」
意味が解らないと言った表情の聖良に対し、愛子は「あっ」と声をあげた。
「どういうことですか? 愛子先輩」
「最初から誰かが仕組んだ罠だったかもしれないって事よ。拾った水着を隠せば彼女を犯人に仕立てられる。もしも落し物として届けても、鍵の掛かったロッカーから盗まれた物が水泳部の部室周辺から出てきたとなれば、疑われて色々と訊かれるでしょうね」
「そんな! じゃあ、あたしにじゃなく井波さんに対しての嫌がらせだったって事ですか?」
「それは解らないわ。向こうの目的が聖良ちゃんであっても井波さんであっても、悪質であることには代わりが無いわ。それに…もしかしたらそのどちらでもなく、佐々木君か武田君への嫌がらせだったかもしれない」
「どちらにしても状況証拠では、私が盗んで鍵を隠したか捨てたって事になって、見事な悪者の出来上がりね。水泳部のエースの彼女が泥棒じゃ大問題だわ。大学の推薦だってあるのに」
「井波さん? まさか武田先輩に迷惑がかかるから別れようとか思っているんじゃないの? ダメよ、バカなこと考えちゃ」
「悪条件が揃いすぎているわ。もともと私は評判の良いほうじゃないし、外見だっていかにもって感じのハデハデだしね。自然消滅を待つまでも無い。駿平の為には少しでも早いほうがいいのかもしれないわね」
オレンジの髪を弄る哀しげな横顔に、一葉が決意を固めていることを二人は悟った。
「そんなのダメよ。あたしも愛子先輩も井波さんが無実だって証言する。龍也先輩だって浦崎先輩だって協力してくれるわ。だからそんな哀しいこと言っちゃダメ」
「聖良ちゃんの言うとおりよ。いい、二人とも聞いて。あたしたちが三人で行動しているのは大勢に見られたわ。犯人…って言い方はいかにも犯罪者って感じで好きじゃないからAって呼ぶけど、Aも見ていたと思うの。もしもあなた達のどちらかを傷つけるのが目的なら、Aはそれを果たせなかったことに気付いて苛立っているんじゃないかしら」
三人は表情を硬くした。龍也も駿平も競技に集中しており、何事かが起こってもすぐに行動には移せない。
何かを仕掛ける絶好のチャンスだということは言わずとも解った。
「だとしても私達がここにいることは誰も知らないし、最上階の10m台まで登れば、下から見ても完全な死角になるもの。あそこなら絶対に誰かに見つかることもないし金森先輩が心配するようなことは無いわ」
「そうね。でもあなた達を一人にするのは不安だから、あたしは競技が終わったらすぐに二人に来てもらうよう淳也に伝言を伝えてくるわ。Aが誰なのか、目的が何なのか、ハッキリするまではそれぞれの彼にガードしてもらうほうがいいわ」
「愛子先輩ったら心配性なんだから。この世に本当に悪い人なんていないんです。ちゃんと話し合えば解りますよ」
真剣な顔で力説する余りの純真無垢な言葉に、絶句する一葉。
愛子は溜息を一つ吐いてハイハイと受け流し、子供をあやすように聖良の頭を撫でた。
「またぁ、聖良ちゃんはいつもそうなんだから。人を信用するのはいいけど危なっかしくて本当に目が離せないわ。いいから佐々木君が来るまでは絶対にここを動かないでね。応援に夢中になって大声を出すのもダメよ? 井波さん、あなたもね」
「おせっかいね。私は自分の事くらい自分で護れるわ」
「おせっかいでいいわ。それでもあたしはあなたを放っておけないの」
一葉は愛子の気持ちが理解できなかった。聖良を護りたいのなら納得できる。だが、自分は愛子とは会ったばかりで護ってもらう義理など無いのだ。
「どうして金森先輩も蓮見さんも私なんかを気にするの?」
「あなたは聖良ちゃんを知る前のあたしだから」
愛子は過去を思い出すように瞳を閉じて続けた。
「あなたもさっき感じたでしょう? 聖良ちゃんといると人を羨んだり妬んだりする醜い部分が白日(はくじつ)の下に曝された気分になって、自分が嫌になるのよ。あたしと淳也は彼女にとても酷いことをしたわ。でも聖良ちゃんはそんなあたし達を大らかに受け入れて許してくれてたの。彼女の優しさと真っ直ぐな心に触れて、あたし達は救われたのよ。だからね、今度はあたし達が助ける番なの」
「それは蓮見さんを助けるんであって私じゃ…」
「いいえ、自分が受けた恩や感謝の気持ちは、本人にばかり返すものではないのよ。少しずつ社会に返していくことで連鎖していくの。今日は助けられた人が明日誰かを助けて、人は支えあって世の中を作っているのよ。自分の殻に閉じこもっていたときは気付きもしなかったわ」
「社会の連鎖…?」
「そうよ。あなたは少し前のあたしと同じ。殻を作って虚像の中に自分を閉じ込めている。偽りの自分を保つ為、無理に突っ張って強がっているけど本当は寂しくて不安で仕方が無いのよ。
だからあなたに知って欲しいの。人は一人で生きているわけじゃないって事。知らず知らずに多くの人に支えられ、無意識に誰かを支えている。聖良ちゃんはそれをあたしに教えてくれたのよ」
心を見透かす愛子の強い眼差しに、一葉は言い返すことが出来なかった。
誰にも弱みを見せず強がってきたつもりだったのに、二人は全て見通している。更に弱い部分も全て受け入れて本当の自分を理解してくれようとしている事を感じて涙が込み上げそうになる。
それでも急に素直になることはできず、淳也に知らせる為二人と別れて階段を下りて行く愛子の後姿を黙って見つめることしか出来なかった。
一葉は聖良を伴って最上段の飛び込み台への階段を上がっていった。
流石に水面10mともなると、恐怖感も半端ではない。僅かな風にも足元はふらつき、手すりがないとすぐにでも落下してしまうような錯覚に囚われる。
予選をトップのタイムで通過した恋人が、最後の競技の為に精神を集中させている姿を見守りながら、一葉は先ほどからずっと胸につかえたままの疑問を聖良に投げかけた。
「…解らないわ。どうして蓮見さんは悪い人はいないなんて思えるの? 周りは敵だらけよ。あんただって会場でのあの嫉妬にまみれた視線を感じたでしょう? どうしてそんなにノホホンとしていられるのよ?」
「うーん。基本的にはみんな真っ白な心を持っているって信じているから…かなあ?」
「は?」
「生まれてきたときは誰もが真っ白な心を持っているでしょう? だけど人は成長するうちに痛みや悲しみを知って、傷つくことから逃れようと綺麗な心を胸の奥底に閉まって忘れてしまうのよ。だけどそれは失ったわけじゃないわ。大地に眠るダイヤの原石のように掘り起こされるのを待っているの」
「…そんなのただの綺麗ごとだわ。綺麗な心が残っていたら人を妬んだり嫌ったり出来る筈ないじゃない。しょっちゅう嫌がらせをされているのにどうしてそんな風に考えられるの?」
「あのね、亡くなったパパが、あたしが小さい頃良く言っていたの。
『嫌な事をされて嫌いになるのは簡単な事。人は一度嫌なところを見つけると、どんどん嫌な部分ばかり見つけてしまうものだ』って」
その通りだと一葉は思った。自分はひとたび嫌いだと思ったら、決して受け入れる事が出来ないタイプだからだ。
だが、次に続けられた言葉で一葉の目からは涙ではなく鱗が零れ落ちた。
「何故その人を嫌いだと思うのか考えたことある? それはね先入観で拒絶してしまっているからなのよ。知ろうとしなければ本来の姿は見えないわ。だからパパは『人を嫌う前に、その人の良い部分を一つだけ見つけてごらん』って教えてくれたの。
一つでも良いところが見えると、その人の見方が変わって来るわ。嫌いだと思った人ほど自分に必要なことを知っているものだと気付くの。そして本当は良い人かもしれないって思えたり、もっと良く知りたいと思うようになる。そうするとね、相手の立場や気持ちが解るようになってきて、それまでの嫌な事も許せるのよ」
「……あんたって、ばっかじゃない?」
そう言い返した声は震えていたかもしれない。
究極とも言えるお人好し。余りにも馬鹿馬鹿し過ぎて呆れるしかない。
だが愛子が救われたと言った理由が、なんとなく解った気がした。
悪態を吐く一葉を包み込むような笑顔が眩しくて、思わず目を背けた瞬間、聖良の背に白い羽が見えたのは真夏を思わせる太陽の見せた光の錯覚だったのだと思う。
鱗が零れ落ちた視界は、これまでよりも世界が眩しく見えるのかもしれないと、一葉は思った。
その時、会場から大きな拍手が起こった。
いよいよ最終競技が始まったのだ。
二人は息を詰め、興奮で沸き立つ会場を見下ろしていた。
足の竦む高さも、今は全く気にならなかった。
注目はやはり、予選トップの駿平と2位の龍也の決戦に集まっている。二人の差は僅かに0.3秒だった。
高鳴る鼓動を抑え、息をする事も忘れるほどに緊張し、恋人の勝利を願う。
そんな二人に背後から近寄ってくる気配など、気付けるはずもなかった。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
長いホイッスルが鳴り、龍也はスタート台に立った。
全神経は研ぎ澄まされ、観客の声援も耳には届かないほどに集中している。
決して負けないという気迫がみなぎる駿平に対し、全力で受けて立つ構えで合図を待つ。
目の前で揺らぐ水面だけを見据える龍也の意識は既に無音の世界の中にあった。
「用意」の号令によって、スタートの姿勢を取る。
全員が制止し合図が発せられようとした、まさにその時…
無音だった龍也の世界を切り裂く『声』が聞こえた。
耳を疑い顔を上げた時、無意識に見た方向にそれを見た龍也は愕然とした。
地上10mからまるでスローモーションのようにゆっくりと落下し、水面に消える二つの悲鳴。
水しぶきが辺りを揺るがすより早く、龍也はスタート台を飛び降りていた。
人で溢れる応援スペースの中へなぎ倒さんばかりの勢いで突っ込み、人混みを掻き分けると隣の飛び込みプールに勢い良く飛び込む。
水深5mの水は思った以上に冷たかった。
青というより藍に近い水の色が、その深さを物語る。
自分を無音の世界から現実へ引き戻したあの『声』が聖良の悲鳴であったことが、何かの間違いであって欲しいと祈りながら水底を見渡すと、グッタリと横たわる二つの人影を見つけた。
長い髪を揺らめかせ、力なく横たわるのは確かに愛しい人の姿。
その手は、共に沈む一葉の右手を握っていた。
二人を担いで一気に浮上したいのだが、二人の手が繋がれている為、体制が微妙で一度に二人を抱き起こすことができない。
なんとか手を外そうとするが、互いにしっかりと握り合っている為なかなか外れなかった。
聖良が水に同化し消えてしまうような錯覚に囚われた龍也は焦った。
次第に呼吸が苦しくなり、心音が水に共鳴し始める。
だが限界を感じても聖良を置いて空気を求め浮上しようとは思えなかった。
ピクリともしない体を抱きしめ、唇を重ね苦しい呼吸の中から酸素を送り込むと、絶対に一人では逝かせないと誓った。
その瞬間、水中が大きく振動した。
薄れそうになる意識の中、見事な飛込みで一気に潜水してくる駿平が見えた。
それに続いて暁や響が飛び込んでくる。
すぐに駿平が一葉を抱き上げ、親友達が自分を聖良ごと引き上げるのを感じた。
安心した龍也はもう一度聖良に唇を重ねると、肺の中の酸素を全て送り込んだ。
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『大人の為のお題』より【rental】 お提配布元 : 女流管理人鏈接集
えーと、全4話の予定でしたが、このまま最後まで書くと長すぎるので、一旦ここで切り5話とすることにしました。
しかし、龍也アホですね。人を呼びに行くとか考え付かないんでしょうか、彼は。いつもの冷静さはどこへやら聖良の事となると全く見境が無くなる、本物の大バカタレでした。
こんな奴ですが、呆れずに最終話までお付き合いくださると嬉しいです。
2008/08/22
朝美音 柊花