緑の葉がさざめき、木々が枝を擦る音が優しい風の囁き声となり森に満ちる。
目の前には大人が二人がかりでようやく抱きかかえる事が出来るほどの巨木がそびえ立っている。
それはとても懐かしい光景だった。
見覚えのある少年が一人、印象的な漆黒の瞳を真っ直ぐに俺に向けている。
『…龍也がその思い出を無くしたほうが幸せなら僕は止めないよ』
少年が静かに口を開いた。
とても悲しげで、必死に何かを訴えようとするその声に、心が揺さぶられる。
…あぁ、この子は暁だ。
出逢ったばかりの頃の暁だ。
『封印してあげるよ。お母さんの事。幸せだった記憶も、楽しかった事も』
暁の声が眠っていた古い記憶を紐解いていく。心の中に緑の美しい森の風景が広がった。
……小学校の裏手の森? そうか、これは森に入り込んで騒ぎになったあの日の出来事だ。
俺と暁と響は森の中で倒れていたところを発見され、俺は三日間も眠り続けていた。
あの時の記憶は何故かとても曖昧で、今となってはその原因も、いったい何があったのかも、どうしても思い出せない。
ぼんやりと覚えているのは、眩しい光の中で胸が潰れるほど切ない気持ちを抱えていた感覚だけだ。
冷静に考えてみたら随分不自然な話だと思う。
病院で目覚めた時には覚えていた筈なのに、退院して日を追うごとに俺達の記憶は急速に薄れていった。
互いの記憶が噛みあわず、すべて夢だったのかもしれないという思いが強くなっていって…。いつしか自然にあの日の事を話さなくなっていった。
そして俺は、そんな出来事があったことさえ忘れてしまっていた。
あの日を境に二人を親友として受け入れたのに、どうして大切な日の記憶が曖昧なままで疑問を感じなかったんだろう。
何故、思い出してみようともしなかったんだろう。
まるで意図的に忘れさせられてしまったかのような違和感に、ザワリと胸が騒いだ。
『忘れさせてあげる』
暁の声が俺の奥深くに眠る感情を揺さぶる。
恐れと悲しみが入り混じったような、言いようの無い気持ちが込み上げてきた。
思い出したいのに、思い出すのが怖い。
忘れていたいのに、忘れてしまいたくない。
嫌いになりたいのに、嫌いになれない。
嫌いになりたかったのに…
忘れてしまいたかったのに…
相反する感情が入り乱れる。
この感じは、あの日、森で感じた感情にとても似ていると、何故かそう思った。
俺は、あの時、何をしていた?
暁は、あの時、何を話していた?
俺達は何かとても大切な話をしていたんじゃなかったか?
『つらい事を全部』
つらい事? 俺は何が辛かったんだ?
『その代わり楽しかった事も優しい記憶も全部無くなってしまうよ? お母さんがどんな人だったか、どんな風に笑ったかどんな声だったかも忘れてしまうかもしれない。それでも…龍也はいいの?』
母さんの声…?
あの人はどんな声だった?
あの人はどんな風に笑った?
あの人は…どんな風に俺を愛していた?
そんな事、ずっと昔に忘れてしまった。
そう…ずっと昔…。
どうして…忘れてしまったんだろう?
気がつけば、俺は暁と同じ背丈となり、
母を失ったばかりの、7歳の子供に還っていた。
胸に広がる悲しみと怒りが、心を侵食していく感覚に、身体が動かなくなる。
苦しい、辛い、悲しい、寂しい…
母さん…
どうしていなくなったの?
どうして?
俺を嫌いになったから?
どうして?
俺がいい子じゃなかったから?
どうして?
どうして母さんは俺を捨てたの?
こんなにも脆く頼りない心を、あの頃の俺は一人で必死に抱えていたのかと、愕然とする。
泣き叫びたいのを必死にこらえ、感情を表に出さないよう、必死だった。
少しでも弱音を吐いたら、この痛みに耐えられなくなる。
少しでも感情を出したら、涙を止められなくなる。
深い傷から噴き出す血を止めようと、小さな手で必死に心を塞ぎ、母の帰りを祈るように待っていた。
だが、どれだけ待っても、母は帰ってこなかった。
そして父は僅か二ヶ月で母を捜すことを諦めた。
母はもう帰らないと告げられたときの怒り、悲しみ、絶望。
父にさえも裏切られ、世界が真っ暗になった。
母に捨てられ、父に希望を絶たれ、俺は全てを失ったと思った。
やがて絶望感は大人に対する嫌悪となり、父親にも心を閉ざしていく。
教師の励ましはクラスに馴染むませようとする大げさな演技としか思えず、優しく微笑む女教師の顔は、泣き顔で笑うサーカスのピエロの仮面に見えた。
俺の心に踏み込もうとする全てが疎ましく、何もかもが苛立ちを増幅させていた。
暁が声を掛けてきたのはそんなときだった。
『ねぇ?佐々木君、どうして、誰とも話さないの?』
もしもあの時、暁が手を差し伸べてくれなかったら、俺は今も誰も信じず、心を塞いだまま、あの闇の中に閉じ込められていたのかもしれない。
聖良を愛する心も知らず…
母を赦すこともなく…
ゾクリと身を震わせたとき、再び涼やな声が森に響いた。
『龍也は本当にそれでいいの?』
念を押すように問う暁。
もう限界だった。
母に対する憎しみは深くなる一方で、拒絶反応は心と体を引き裂きつつあった。
追い詰められた俺は僅かな希望に救いを求める。
苦しみから逃れる唯一の術がこれだと手渡された瓶に、
ポイズンと書かれていたとしても、俺は喜んでそれを飲んだだろう。
全てを失ってもかまわなかった。
気が付けば俺は叫んでいた。
母さんを好きだと思うから苦しいんだ。
母さんを好きだと思う気持ちを全部捨ててしまえばいいんだ。
俺には最初から母さんなんていなかった。
優しい記憶なんて知らない。
愛された覚えなんてない。
俺を捨てた母親の記憶なんて
…そんなものはいらない!
怒り、苦しみ、悲しみ、それら全てを吐き出すような、心を裂く哀しみが流れ込んでくる。
母を思い出すたびに捨てられた事実を突きつけられる。なのに得ることが出来ない愛を求めてしまう自分が惨めだった。
幸せだった頃の記憶があるから、母を求めるのなら、全部忘れて苦しみから解放されたかった。
そして…俺は自分の中の母親を切り捨てた。
潰れそうな心を支える為に…
壊れそうな自分を救うために…
『封印してあげるよ。お母さんの事。…いつか本当に龍也の心を癒せる運命の人に出逢うまで…』
暁はフワリと笑うとその背に天使の羽を大きくはばたかせ金色に輝いた。
眩しくてギュッと目を瞑ると、瞼の裏に桜の花が舞い上がる風景が浮かび上がった。
忘れていた母の笑顔が鮮やかに蘇る。
薄桃色の花びらが雪のように降る中、佇んで微笑む母の姿。
それは、俺が最後の日に見た母の姿だった。
封印することで救われたはずだった。
会いたいとも、思い出したいとも思わなかった筈なのに…。
それなのに…
何故、母の微笑がこんなにも嬉しいんだろう。
何故、触れられないことを切なく感じるのだろう。
忘れたいとあれほど望んだはずなのに…
何故今になって…
こんなにも思い出したいと願ってしまうのだろう。
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『大人の為のお題』より【ポイズン】 お提配布元 : 女流管理人鏈接集
龍也の幼少期について詳細を知りたい方は、ビケトリの出会いを綴った『ETERNAL FRIENDS』でどうぞ♪
ラストまで一話ずつ毎日、全9話を更新していきます。一気にUPしないのはもったいぶっているから(笑)…じゃなく、単に最終チェックが全部終わっていないからですσ(^◇^;)ゴメンネ
2010/12/07