*** Side 勇気(ゆうき)***
俺には一つ年下の幼なじみがいた。
小柄だった俺と余り身長の変わらない、長い黒髪の女の子。
薄い茶色の瞳で、その表情をめまぐるしく変え、コロコロと笑ったり、怒ったりしながら、
いつも俺の後についてくるおてんばな娘だった。
近所のおばさんや、俺の両親、いや、彼女の両親でさえ彼女は明るく元気なしっかりものの女の子だと思っていたようだ。
でも、俺は知っていた。あいつはそんなに強い娘じゃないってことを…。
あいつは凄くさびしがりやだったけど、あまり人前で泣く事は無かった。
あいつが可愛がっていた小鳥が死んだときも、子どものくせに、声を堪えて静かに泣いていた。
その姿があまりに苦しそうで、切なくて、俺はいつかあいつを護ってやろうと思ったんだ。
その日から俺は人前では決して泣かなくなった。
あいつの妹が生まれた日は例年にない大雪で朝から振り出した雪は昼過ぎには吹雪きに変わっていた。
俺は小学校が出した緊急集団下校で、1時間目の授業もソコソコに学校から帰されることとなった。
「ただいま。」
雪だるまのようになりながら帰るなり、傘や、コートに積もった重い雪を落とす。
ふいに背後に気配を感じて振り返った。
「あ、おじさん。」
手を引かれたうさぎが父親と一緒に立っていた。
俺を見るなり『ゆうちゃん帰って来たんだ。』と一瞬花が綻(ほころ)ぶ様に微笑んで胸がギュッと苦しくなる。
それが何だかとても不快で、ああ、とぶっきらぼうに言うと自分の部屋へと逃げ込んだ。
初めて俺の胸に芽生えた小さな想いが何だったのか理解できなかった幼かった俺は、
その感情を持て余しうさぎを避ける事しかできなかった。
あの後、うさぎは俺の家に預けられた。
おばさんが産気付いたのだ。
こんな雪の日に、しかも天候はどんどん悪化していた。
夕方とはいえ、いつもならまだ明るい時間なのに、今日は照明をつけないといけないほどに暗くなっていた。
不安を感じていたのだろう。
いつも来ている俺の家なのに、始めてきた家のようにおとなしく居間の窓辺に座ってテレビを見ている。
いや、テレビを眺めていたんだ。……瞳には何も映っていなかった。
何度も窓の水滴を拭っては、外を見つめる。視線の先は隣の明かりの灯らない自宅だ。
そんなうさぎを見ていると益々胸が痛くなってくる。
俺に何かできる事は無いのか? うさぎの笑顔が見たい…。
俺は居間のガラス戸の前で入るのを躊躇しながら、どう声をかけるか考えながら、ぼんやりとうさぎを見つめていた。
そんなとき一本の電話が鳴り、おばさんに赤ちゃんが生まれたことを告げた。
うさぎが嬉しそうに小躍りしているのを見て、俺はほっとして、居間のドアを開け声をかける。
「妹うまれたんだって?おめでとう。おねえちゃんじゃんか」
ゆうちゃんと嬉しそうに振り返る俺に駆け寄ってくる。ドキンと心臓が大きく跳ねる。
「うん、おねえちゃんになった。」にっこり笑って答えるうさぎに先ほどの不快感とは違う安堵感を覚えた。
うさぎがお姉ちゃんかあ・・・といいながら、「おねえちゃんは泣いちゃダメなんだぞ。」と言ってみた。
うさぎがとても不安で今にも泣きそうな笑顔をしていたからだ。
たぶん、ホッとしたと同時に不安になったんだろう。
俺は弟が生まれたときのことを思い出だした
嬉しさの半面、孤独や重圧、漠然とした不安といった目に見えない不快感が俺を襲ったのを覚えている。
「泣いちゃダメなの?何で?ゆうちゃんはおにいちゃんだから泣かないの?」
「うん、弘樹が泣いてるのに俺が泣いたらお母さん困るだろ?だからおにいちゃんは泣いちゃダメなんだ。」
俺は足元でコタツに入って眠っている五つ下の弟を見つめながら言うと、
ゆうちゃんは泣きたいとき無いの?と聞く。
一瞬心を鷲づかみにされたような気がした
「ン・・・そりゃあるけど、誰も居ないところでこっそり泣く。」
「さびしくないの?」
「・・・・・。」
俺は答えなかった。うさぎを護れるようになりたいと思ったことが泣かなくなった原因なんて口が裂けてもいえない。
そう思っていると急に軟らかいものが俺を包んだ。
「――――っ?うさぎ?」
「ゆうちゃん一人で泣かないで。私が一緒に泣いてあげるから。」
うさぎはどんな顔をしていたのだろう。ぎゅっと抱ついてくる体温が愛しくて、思わず抱きしめ返して言った。
「じゃあ、うさぎが泣きたい時は俺のところにきて。こうしててあげるから。」
うん、と頷き俺から身を離すと、窓の外の雪が視界に入った。気づいたら思いついたことを無意識に言葉にしていた。
「雪うさぎつくらないか?」
「雪うさぎ?こんな夜に?」
「大丈夫、玄関先なら雪も入らないし・・・、それに、うさぎのお父さんが帰ってきたらすぐに分かるだろう?」
うさぎがおじさんの帰りを心待ちにしているのが分かったから、
せめて外で一緒に待っていてやりたいと思ったんだ。
一緒に遊ぶ事で気も紛れるだろうし、何よりもうさぎの為に何かをしてやりたかった。
「うん。つくる」
俺はこのとき、一生忘れられない笑顔を手に入れた。
外へ出ると吹雪はもうやんでいて、辺り一面真っ白だった。
重そうに雪をかぶった街灯の今にも消えそうな明かりが俺たちの手元を照らしてくれる。
真っ暗な夜空と真っ白な雪は俺たちの息使いも足音も何もかもを吸収してしまう
この世界に俺たち二人しか存在しないような錯覚さえ起こす静かな夜だった。
俺たちは全部で4つの雪うさぎを作った。
6才と5才の小さな手ではなかなかうまく形にならなかったけれども、
それでもなんとか大きさのちがう4つの雪うさぎを作ることが出来た。
「この一番大きいのがうさぎのおとうさんだよ。次に大きいのがおかあさん。」
できあがった雪うさぎを大きい順番に指差しながら言った。
「じゃあ、この少し小さいのがわたしで、いちばんちいさいのが赤ちゃん?」
うさぎが瞳を輝かせて言うので、思わずそうだよと笑った。
それから、うさぎの雪うさぎの横にもう一つ同じくらいの雪うさぎを置く。
「これが俺。ずっとそばにいるからね。」
照れくさかったけれど、ずっと傍にいて護ってやりたいと、その気持ちを伝えたくてそっとソレを置いた。
突然、うさぎの大きな薄茶色の瞳から真珠のような大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「どうしたの?手冷たかった?」
少し赤くなった手を握り締めて俺は問い掛けた。もしかして、迷惑だった?
「ううん、わかんないけど涙がでるの。」
俺はホッとして無意識にうさぎを抱きしめていた。
身長がほとんど変わらない俺のちょうど肩の辺りにうさぎが顔を埋めて涙を流す。
腕の中のうさぎは心地よくて、髪をなでると愛しさがこみあげてきた。
――――誰にも触れさせたくない。
「うさぎ。約束して」
「うん?」
「約束して。俺の前以外では絶対に泣かないで。」
「え?う・・・うん」
「絶対に、うさぎの事護るから。だから泣かないで。泣くのは俺のそばだけにして。」
俺の勢いに押されたのか戸惑いながらもうさぎは答えてくれた。
「うん。約束する。ゆうちゃんの前以外では泣かない。
そのかわり、ゆうちゃんも約束して。泣きたい時は私のところに来て。絶対に一人で泣かないで。」
一瞬ビックリしたが嬉しくて嬉しくて、多分俺は満面の笑顔だったんじゃないかと思う。
「うん――――約束する。」
絶対にうさぎを、その笑顔を護るよ。俺が心に誓いを刻んだ瞬間だった。
―――まさか、2週間後に父親の海外赴任が迫っているなんて、その時の俺は夢にも思わなかった。
別れの日の朝は見事な青空で2月にしては気温も暖かかった。
俺はうさぎの手をずっと握っていた。最後の別れの瞬間まではなしたくなかった。
「約束守るよ。きっと帰ってきてうさぎを護るね。絶対に泣いちゃだめだよ。」
苦しい胸のうちを打ち消すように笑顔で言葉を紡ぎ出す。
うさぎが切なげに瞳を潤ませながら「待っている」と、必死に笑顔を作る姿がいじらしかった。
車がゆっくり動き出し繋いだ手が離れる。
車がスピードをあげてゆく。
窓から身を乗り出し、うさぎの瞳を追う。
もうすこし、瞳に焼き付けていたい。
目を開いている事が痛いくらいの銀世界の中で立ち尽くすうさぎは、舞い降りた天使のように可憐で美しかった。
やがてその光の中に吸い込まれて消えていく最後の瞬間まで俺はうさぎの姿を見つめ続けていた。
柔らかな冬の日差しが、降り積もったあの日の雪を溶かしている。
ふたりで作った雪うさぎも今は形すら留めていないのが悲しかった。
うさぎ、おまえは覚えているだろうか
俺たちだけの大切な約束を
今も声を上げずに泣いているのだろうか
独りで耐えているのだろうか
一生忘れられないあの日の笑顔
最後の日のおまえの姿はあまりにも美しく可憐で儚かった
俺の心はあの日に止まったまま動けずにいる
おまえの心の中であの日の雪うさぎは今でも寄り添っているのだろうか。
――――― 今…迎えに行く
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