一 お前なんか大嫌いじゃ
明月在雲間 めいげつ くもまに あり
迢迢不可得 てうてうとして うべからず
*
光の反射する川縁の桜並木に沿って、瑞垣俊二は一人で自宅へと歩いていた。
繁った桜葉の向こうに夕焼けの空が覗いている。明日から土日を含めて五連休。
瑞垣に、高校生になってから初めての連休がやってくる。
野球をしなくなってから、初めてのゴールデンウィーク。
通りしなに虫に食われた葉の茂る枝を無造作にへし折って、思い切り踏みつける。
ぱしり、と足下で悲鳴を上げた枝を冷ややかに見据え、瑞垣はさらにその枝を蹴り飛ばした。
何もかもがイラつく。その苛立ちを止める術がわからない。
ポケットに手をのばし、タバコが空になっていた事を思い出す。
紙のケースを握りつぶすと、ぐしゃり、と思ったよりも大きな音がした。
刹那。
「俊。……相変わらずすさんだ事しとるんじゃな」
背後から降ってきた、呆れるような、からかうような口調。
出来れば二度と聞きたくなかった、そして忘れるはずもなかったその声。
門脇秀吾。この春まで常に傍にいた、そして春からは野球エリート校に進学し、自分とは 全く違う華やいだ道を歩き始めた幼馴染。
二度と、会いたくなかったのに。
「……秀吾」
かすれて音にならない声で彼の名を呼ぶ。喉が渇く。
今日は比較的暖かなのに、吹き付けてくる風を何故か酷く冷たく感じる。
動揺する自分が嫌だった。そして、それを気取られるのは自分のプライドが許さなかった が、それを取り繕う余裕がない。
「俊?」
気遣うように自らの名を呼ぶ門脇に気づかれぬように深く呼吸をして、瑞垣は道化の仮面 を被る。
以前彼に見せていたような柔らかな笑みを浮かべながら振り返った。
思い出せ。たった一ヶ月前、オレはこうやって、秀吾の前で微笑んでいただろう。
「お早いお帰りじゃな、秀吾……」
しかし、そこから言葉が続かない。瑞垣の目の前に立っていたのは、たった一月離れてい ただけなのに、どこか大人びた雰囲気を備え、少年の面影を振り払いつつある幼馴染の姿 だった。
門脇は確実に、自分とは違う世界へ歩みを進めている。
荷物は実家に置いて来たのだろうか。小さなディパックだけを背負った身軽な姿で、門脇 は、これだけは変わらない笑顔を向けてきた。
一ヶ月振りの門脇は面差しが少しやつれていた。
体重を絞ったのかもしれない。少し背が伸びている気がする。
高校野球界ではすでにプロのスカウトからチェックが入っているとい う噂があるそうだ。おしゃべりな海音寺が教えてくれた。
一瞬、瑞垣は何もかも忘れて彼に見とれた。
だが、すぐにそんな自分に猛烈な嫌悪感を抱く。
門脇にはそれを感じさせないように、早口でまくしたてた。
「……誰かと思った! 甲子園で話題の有名人がこんな所で突っ立っとるとは思わんじゃった から。話題の名バッター・門脇秀吾選手ですか! きゃ〜、ステキ!」
冗談を言う。余裕の口調に聞こえるように必死に繕っていることを、悟られないよう腐心 しながら。
門脇には相変わらずの調子に聞こえたのだろう、安堵したような笑顔で近寄ってきた。
「新田の吉貞に毒されとるんじゃないのか? 仲良くしとるんじゃろ」
年の割に幼く見えるその笑顔が、ずっと瑞垣を苛立たせてきた。持ち主はそんな事も露知 らず……いや、知っていてもなお、その笑みを投げかける事を忘れない。
「ああ、クリノスケとはラブラブよ? もう毎晩長電話。超恋愛中って感じ」
実際、ちょこちょこと用事を作っては吉貞や海音寺から電話をしてくる。
新田の連中は電話好きな奴が多いらしい。
呆れつつも、塾のない日などは時間を持て余してしまうから、ついつい相手をしてしまう。
「……ええな。高校に入ってから人間関係とかこの先の事とか色々でどうも息苦しくてな。
……横手でやってた頃って純粋に好きで野球が出来とった気がする」
瑞垣の冗談を軽く流しつつ、そう言って門脇は軽く溜息をついた。
ほろ苦い感情を湛えた笑みが浮かぶ。
こんな風な門脇の表情を、瑞垣は見たことがなかった。
向こうに言ってからどうしていたか、色々と訊いてみたい衝動が湧き上がる。
ずっと一緒だった十五年間を超えて、それぞれの道を歩き始めて一ヶ月。
そのたった一ヶ月の空白を、沢山の言葉で埋めて欲しいという欲求が突き上げてきて、そんな自分に瑞垣は また、どうしようもない嫌悪感を覚える。
知ってどうするのだろう。
自分はまだ、二心のない真っ直ぐな幼馴染を自らの手の内に収 められるとでも思っているのだろうか?
……うんざりだ。自分にも、何にもわかってないこいつにも。
「俺も一緒に俊の家に付いて行ってええか? さっきお前の家に行っておばさんに挨拶した ら、うまいもん食わせてくれるっていうから」
門脇は以前と何ら変わらない態度だった。
「久しぶり」の一言もない。空白の時間などなかったかのように、相変わらずの態度を見せる。
「秀吾ちゃん。あなた、こっちに帰ってくるの久しぶりでしょう? お母様が心配するわよ?」
早く家に帰れ、と暗に伝えているのに、門脇は知ってか知らずか、にこやかに答える。
「さっき荷物置いてきたし、お前の家に行くって言ったら『ごゆっくり』やて。
俺はもう忘れられとるかも」
……これだから、図々しい奴は嫌いなんだ。
「オフクロたち明日から九州に旅行に出るから、あんまり相手してくれんと思うぞ」
「お前は行かないのか?」
「高校生にもなって家族旅行なんか行けるかよ。オレは家でゆっくりするんじゃ」
瑞垣のその言葉に、門脇は心から嬉しそうな表情を浮かべた。
「俺は土曜日に向こうに帰る予定なんじゃ。それまで相手してくれ」
瑞垣は、余りの事に無言で門脇に背を向け、家に向かって早足で歩き始める。
冗談じゃない。こいつは俺の中じゃもう過去の苦い思い出なんだ。早く向こうに帰れ。
とっとと球界のアイドルに戻っちまえ。
門脇は瑞垣の葛藤など全くお構いなしに、瑞垣の左側へ並んだ。
「お前、髪伸びたんじゃな。……ホンマに、野球しとらんのじゃな」
その口調はほんの少し寂しげだった。その様子に、瑞垣はまた一つ苛立ちを積み上げた。
明月在雲間 めいげつ くもまに あり
迢迢不可得 てうてうとして うべからず
*
光の反射する川縁の桜並木に沿って、瑞垣俊二は一人で自宅へと歩いていた。
繁った桜葉の向こうに夕焼けの空が覗いている。明日から土日を含めて五連休。
瑞垣に、高校生になってから初めての連休がやってくる。
野球をしなくなってから、初めてのゴールデンウィーク。
通りしなに虫に食われた葉の茂る枝を無造作にへし折って、思い切り踏みつける。
ぱしり、と足下で悲鳴を上げた枝を冷ややかに見据え、瑞垣はさらにその枝を蹴り飛ばした。
何もかもがイラつく。その苛立ちを止める術がわからない。
ポケットに手をのばし、タバコが空になっていた事を思い出す。
紙のケースを握りつぶすと、ぐしゃり、と思ったよりも大きな音がした。
刹那。
「俊。……相変わらずすさんだ事しとるんじゃな」
背後から降ってきた、呆れるような、からかうような口調。
出来れば二度と聞きたくなかった、そして忘れるはずもなかったその声。
門脇秀吾。この春まで常に傍にいた、そして春からは野球エリート校に進学し、自分とは 全く違う華やいだ道を歩き始めた幼馴染。
二度と、会いたくなかったのに。
「……秀吾」
かすれて音にならない声で彼の名を呼ぶ。喉が渇く。
今日は比較的暖かなのに、吹き付けてくる風を何故か酷く冷たく感じる。
動揺する自分が嫌だった。そして、それを気取られるのは自分のプライドが許さなかった が、それを取り繕う余裕がない。
「俊?」
気遣うように自らの名を呼ぶ門脇に気づかれぬように深く呼吸をして、瑞垣は道化の仮面 を被る。
以前彼に見せていたような柔らかな笑みを浮かべながら振り返った。
思い出せ。たった一ヶ月前、オレはこうやって、秀吾の前で微笑んでいただろう。
「お早いお帰りじゃな、秀吾……」
しかし、そこから言葉が続かない。瑞垣の目の前に立っていたのは、たった一月離れてい ただけなのに、どこか大人びた雰囲気を備え、少年の面影を振り払いつつある幼馴染の姿 だった。
門脇は確実に、自分とは違う世界へ歩みを進めている。
荷物は実家に置いて来たのだろうか。小さなディパックだけを背負った身軽な姿で、門脇 は、これだけは変わらない笑顔を向けてきた。
一ヶ月振りの門脇は面差しが少しやつれていた。
体重を絞ったのかもしれない。少し背が伸びている気がする。
高校野球界ではすでにプロのスカウトからチェックが入っているとい う噂があるそうだ。おしゃべりな海音寺が教えてくれた。
一瞬、瑞垣は何もかも忘れて彼に見とれた。
だが、すぐにそんな自分に猛烈な嫌悪感を抱く。
門脇にはそれを感じさせないように、早口でまくしたてた。
「……誰かと思った! 甲子園で話題の有名人がこんな所で突っ立っとるとは思わんじゃった から。話題の名バッター・門脇秀吾選手ですか! きゃ〜、ステキ!」
冗談を言う。余裕の口調に聞こえるように必死に繕っていることを、悟られないよう腐心 しながら。
門脇には相変わらずの調子に聞こえたのだろう、安堵したような笑顔で近寄ってきた。
「新田の吉貞に毒されとるんじゃないのか? 仲良くしとるんじゃろ」
年の割に幼く見えるその笑顔が、ずっと瑞垣を苛立たせてきた。持ち主はそんな事も露知 らず……いや、知っていてもなお、その笑みを投げかける事を忘れない。
「ああ、クリノスケとはラブラブよ? もう毎晩長電話。超恋愛中って感じ」
実際、ちょこちょこと用事を作っては吉貞や海音寺から電話をしてくる。
新田の連中は電話好きな奴が多いらしい。
呆れつつも、塾のない日などは時間を持て余してしまうから、ついつい相手をしてしまう。
「……ええな。高校に入ってから人間関係とかこの先の事とか色々でどうも息苦しくてな。
……横手でやってた頃って純粋に好きで野球が出来とった気がする」
瑞垣の冗談を軽く流しつつ、そう言って門脇は軽く溜息をついた。
ほろ苦い感情を湛えた笑みが浮かぶ。
こんな風な門脇の表情を、瑞垣は見たことがなかった。
向こうに言ってからどうしていたか、色々と訊いてみたい衝動が湧き上がる。
ずっと一緒だった十五年間を超えて、それぞれの道を歩き始めて一ヶ月。
そのたった一ヶ月の空白を、沢山の言葉で埋めて欲しいという欲求が突き上げてきて、そんな自分に瑞垣は また、どうしようもない嫌悪感を覚える。
知ってどうするのだろう。
自分はまだ、二心のない真っ直ぐな幼馴染を自らの手の内に収 められるとでも思っているのだろうか?
……うんざりだ。自分にも、何にもわかってないこいつにも。
「俺も一緒に俊の家に付いて行ってええか? さっきお前の家に行っておばさんに挨拶した ら、うまいもん食わせてくれるっていうから」
門脇は以前と何ら変わらない態度だった。
「久しぶり」の一言もない。空白の時間などなかったかのように、相変わらずの態度を見せる。
「秀吾ちゃん。あなた、こっちに帰ってくるの久しぶりでしょう? お母様が心配するわよ?」
早く家に帰れ、と暗に伝えているのに、門脇は知ってか知らずか、にこやかに答える。
「さっき荷物置いてきたし、お前の家に行くって言ったら『ごゆっくり』やて。
俺はもう忘れられとるかも」
……これだから、図々しい奴は嫌いなんだ。
「オフクロたち明日から九州に旅行に出るから、あんまり相手してくれんと思うぞ」
「お前は行かないのか?」
「高校生にもなって家族旅行なんか行けるかよ。オレは家でゆっくりするんじゃ」
瑞垣のその言葉に、門脇は心から嬉しそうな表情を浮かべた。
「俺は土曜日に向こうに帰る予定なんじゃ。それまで相手してくれ」
瑞垣は、余りの事に無言で門脇に背を向け、家に向かって早足で歩き始める。
冗談じゃない。こいつは俺の中じゃもう過去の苦い思い出なんだ。早く向こうに帰れ。
とっとと球界のアイドルに戻っちまえ。
門脇は瑞垣の葛藤など全くお構いなしに、瑞垣の左側へ並んだ。
「お前、髪伸びたんじゃな。……ホンマに、野球しとらんのじゃな」
その口調はほんの少し寂しげだった。その様子に、瑞垣はまた一つ苛立ちを積み上げた。