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のんびりとメシを食い、買い物に出たのは昼前だった。
穏やかな春の日差しの下、門脇のリクエストに応えて、少し離れた所にあるショッピン グモールへ出かける。
普段は練習だらけでまず外出なんて出来ないから、俺は寮の周りに どんな店があるかもわからない、と言って門脇は笑った。
以前と変わらないようでどこかぎこちない。
違うのは多分、瑞垣の周りから野球が消えてしまった事だけ。
野球を巡るわだかまりが消えてなくなった分、門脇に対しても以前よ りは柔らかく向き合える気がしたのだが、そうは行かなかったようだ。
その理由は自分が一番よくわかっている。
自分の身体と心の奥深くに巣喰う欲望が、以 前と変わらないように振る舞おうとしている瑞垣を嘲笑う。
……大嫌いじゃ。お前なんか、嫌いじゃ。
必死で自分に言い聞かせていた。……早くオレの前から消えてくれ。頼むから。
「……全く、お前はようわからん。オレはお前が寮に行く前に、『お前が嫌いじゃ』て何 回言ったと思っとるんじゃ。それが、のこのこ顔出してメシ食って」
瑞垣が恨めしげに門脇を睨みつけると、門脇は悪戯がばれてしまった子供のように、に やりと笑う。
「言うたじゃろ、俺にとってはお前は一番の親友じゃから」
「オレはそうじゃないって言ったじゃろ……もういい、この議論は何度もしたのに、お前 はちっともわかろうとせん。アホか馬鹿じゃ、全く……」
そんな埒もない言い合いをしながら、あちこちをうろつく。
横手の野球部の連中に会う事はなかった。
買い物に疲れたらファーストフード店に寄り、また新しい品物を物色する。
気がつけば陽が傾き始めていた。
「そろそろ帰るか。秀吾、お前は家に帰るんじゃろ」
期待を込めて瑞垣が問うが、そんな意図などわかりもしないだろう門脇が、あっさりと 言い放つ。
「帰るんじゃけど、オフクロがお前をうちに連れてこいってさ。マヨコロッケ作って待っ とるから」
マヨコロッケの誘惑は強烈だった。しかし、正直な所もうこいつと関わるのはこれで終 わりにしたい。
「オレは留守番があるから遠慮しとく。おばさんによろしくな」
門脇がこれ以上押しづらい理由をつけて断ろうとする。しかし、返ってきた言葉は、瑞 垣をますますうんざりさせるものだった。
「じゃあ、うちから夕食もらって持ってくるな。俺、お前と一緒に食いたいんじゃ」
「……久しぶりに家に戻ったんじゃ。たまにはゆっくりしろ。俺は疲れたんじゃ。帰れ」
冷たく突き放す。しかし、門脇は珍しく食い下がった。
「明日の夕食は一緒に食うからって伝えとる。次はいつこっちに帰ってこれるかわからん から、俺は今のうちにお前と色々話がしたいんじゃ。ええじゃろ?」
強く意志を伝える口調で、門脇が断言する。
こうなると何を言ってもおそらく聞きはしないだろう。
瑞垣は諦めて、一つ溜息をついた。
*
門脇は一旦家に帰り、一時間ほど後に大きなバスケットを持って瑞垣の家へ戻ってきた。
中には軽く三人前は入っていそうな巨大な弁当箱がある。
横手にいた頃、門脇の母がよく野球部のみんなにお裾分け、と持ってきていたものだ。
先にそれぞれシャワーを浴びて汗を流してから、瑞垣がこっそり買ってきていた酎ハイ を取り出し、弁当と一緒に片づけた。
しかし二人で食べるには余りにも弁当の量が多すぎ たので、とりあえず冷蔵庫にしまって明日に取っておくことにする。
まだ温かいマヨコロッケは相変わらず美味かったが、食欲に負けただけのような気がし て瑞垣は釈然としない。門脇が行ってしまった後、瑞垣はよく門脇の母から夕食に誘われ ていたが、何かと理由をつけては断っていたのだ。
係わりを絶とうと思っていたのに、肝心のそいつは絶つ事を許そうとしない。
瑞垣にとっては重苦しい食卓だった。
いきおい、酒を飲むピッチが早くなる。
門脇はミニ缶半分程で顔を真っ赤にし、飲むのをやめてしまったが、瑞垣は気づくと二本半ほど空けていた。
リビングのソファに座り込んで、瑞垣はタバコに火をつける。
向かいの二人がけソファに座った門脇は複雑な顔をしたが、溜息をついて一本くれとねだった。
これまでにはないことだった。瑞垣は真意をはかりかねて、門脇を一瞬見つめてしまう。
「寮で悪い遊びでも教えてもらったんか? 品行方正な優秀選手がおタバコとは、珍し い」
「……タバコでも吸っとらんとやってられん時って、あるもんなんじゃな」
昨日も瑞垣に見せた、やりきれないふうな表情をまた見せた。
門脇はそれきり黙り込んでしまい、その隙間を縫うように、テレビの空々しい音声と換気扇のまわる音がミックス された、何とも言えない騒音がリビングに響く。
「……らしくないな、秀吾。そんなに、伝統校の新人イビリはキツいんか?」
ざまぁみろ、と思ってしまう自分がどうしようもない。
しかし、一面で逆風に決して折れないであろう友人を誇らしく思う。
アンビバレントな感情に苛まれる事も、もうないと思っていたのに。
こいつがいなくなってしまえば、無視出来る事だったのに。
門脇はぎこちない仕草でタバコに火をつけて吸い込むが、案の定思い切り噎せた。
「ああ、それ強いタバコじゃから。発ガン性物質たっぷりってやつ? お前はやめとけ」
先に言ってくれ、と涙目で言いながら、門脇は今度はおそるおそる吸い込んだ。
「……正直、こっちに帰って来たいって、何度も思った。伝統校なだけに、しきたりとか 先輩後輩関係とかキツいから、色々言われたし、されたしな」
門脇のはき出した煙がふわりと舞い上がる。それを目で追いながら、門脇は続けた。
「入る前から噂は聞いとったから、こんなもんなんじゃなって覚悟はしとったけど、現実 になってみるとやっぱりえらい。何度もお前に愚痴を聞いてほしいと思ったけど、寮は 携帯持ち込み禁止じゃからかけるにかけられんし」
それでもお前は、選ばれた者だ。オレが辿り着けなかった向こう側に、天性の才能と努 力を積み重ねた橋をかけて渡ってしまった。
瞳に複雑な感情を滲ませる瑞垣に気づかないまま、門脇は言葉を連ねる。
「でも……やっぱり俺は野球が好きじゃから。とりあえず今我慢すれば二年になるし。そ れにな、俊……俺、甲子園で原田とまた対決したいんじゃ」
原田。門脇を動かし、瑞垣の腹の底を引きずり出した、性悪なお姫様。
瑞垣は門脇以上に、原田の事が大嫌いだった。
あいつはバッターに、建前で勝負する事を許さない。
しかしただ一人対等に、門脇と渡り合える相手。
「……なんで原田なんじゃ? もっとええ投手は、甲子園におるじゃろう?」
低い声で瑞垣が訪ねる。門脇はまだ長いタバコをもみ消し、溜息混じりにつぶやいた。
「技術的には確かに、原田より出来上がっとる投手はいくらでもおる。
でも、原田みたい に底知れん奴は、他におらんのじゃ……あいつは絶対、甲子園に出てくる。
俺はそれを 待っとる。
俺は、成長したあいつと真っ向勝負したいんじゃ。そして、堂々と打ち勝つ。
そうじゃないと……俺は誰と勝負しても、勝った気がせんから」
かすれた声に、強い決意が溢れている。
門脇だけが、原田だけがたどり着く場所が確かにある。
それは瑞垣には届かない、そして憧れた末に届く事を諦めた場所なのだ。
永遠に手の届かないそこは、選ばれた者だけが辿り着く楽園。
焦がれても焦がれても、自分はその楽園の蜃気楼を追うばかりで。
瑞垣は知らず、奥歯を噛み締めていた。ぎり、と酷い音がしてはじめて気がつく。
やっぱり断ってさっさと帰らせればよかった……瑞垣は深く深く後悔する。
そうすれば、こんな醜い自分をこいつの前で晒す事はなかったのに。
酔いが、瑞垣の感情の枷を外してしまったようだった。
高みを目指す羽根を持たない自分が出来るのは、羽根をもいでそいつを引きずり落とす 事だけだ。
折角お前は、オレという枷から外れて自由になったのに。
どうしてまた戻ってきたんだ。
瑞垣は無言で立ち上がってタバコをもみ消し、門脇の隣に座った。
オレの腹の底を見せれば……どうせお前は引いちまうんだろ?
「……秀吾」
お前とはもう、生きる道が違うんだ。思い知れよ。
今更のうのうと、オレのことを頭から信じて友達面するなんて馬鹿もいいところだ。
瑞垣は不意を討つように、門脇の唇に自分のそれを押し付けた。
呆然とする門脇の表情を酷く醒めた気分で観察しながら、門脇の日焼けして少し荒れ た唇を舐め上げる。
女の子の唇の方が柔らかくて気持ちいい。
淫らな夢の中で繰り広げられていた行為程の昂ぶりもなかった。
キスだけで痺れるくらい感じるなんて事はないし、ぞくりともしない。
ただ、触れた瞬間に、頭の芯がくらりとした。
タバコを吸っていても、酒を飲んでいても得られないようなトリップ感。
余りの行動に門脇が硬直してしまっているのをいいことに、瑞垣は門脇の少し硬めの唇に齧り付く。
生臭いサビの味が口の中に広がった。本当に門脇の唇を噛み破ってしまったのだろう。
血の味がする箇所を、音を立てて舐め上げた。ぴちゃ、と生々しい水音がする。
早く突き飛ばせよ。オレを軽蔑して、さっさと出てっちまえ。二度とオレの前に顔を出すな。
しかし、門脇は突き飛ばす事も、引き剥がす事もしなかった。
門脇は驚きに見開かれた目を僅かにすがめて、瑞垣の様子を伺っているだけ。
瑞垣は引くタイミングを失ってしまい、やがて門脇の肩を掴んでいた手を所在なげにソファに下ろした。 「……何で抵抗せん。気持ち悪いじゃろう? ……オレの腹ん中じゃ、こんな事ばっかり 考えとったんじゃ。オレはお前に、抱いて欲しかった。かわいい女の子とヤッてる時で も、お前の事を考えとった……オレ、変態じゃろ? だから……自分の身がかわいかった ら、とっととオレの前から消えろ。二度と……うちに来んな」
叩き付けるように一気にまくし立て、門脇から離れ立ち上がろうとする。
その腕を、門脇は痛みに顔を顰める程の強さで引き寄せ、体勢を崩した瑞垣を抱きすくめた。 トレーナーに僅かに煙草の匂いがついていた。そして頬に門脇の体温を感じる。
これまでに触れたどんな女の子よりも体温が高い。
そして、力強い大きな腕が、自分の腕を掴み、背中に回されている。
頭の中で望んでいた情景なのに、瑞垣にこみ上げてきたのは大きな怒りだった。
秀吾、お前、まだ良い奴でいようとするのか。
怒りで自分を制御する術を忘れ、瑞垣は怒鳴りつけた。
「……離せ! 同情じゃったらいらん。お前のそういう所が大嫌いなんじゃ!」
瑞垣は腕から逃れようと身を捩るが、門脇の腕は僅かも動かない。
焦がれて焦がれて、それ故に嫉妬し、憎悪すら感じる存在。
全身全霊をかけて求めていた時期が確かにあった、幼馴染。
吹っ切る為に全てをぶち壊しにかかったのに、どうしてこいつはオレの思った通りに動 いてくれないのだろう?
もう、まっぴらだ!
「……オレをこれ以上、惨めにさせんな! 帰れ……」