1.予兆
赤い蛇ののたうつ膚にもうひとつだけ、疵を増やした。
夏に向かう空の色だ。
輪郭を崩してとけてゆく飛行機雲の白さとの鮮やかな対比が、灼熱の季節への予感を永倉豪にもたらす。
けれども今年の夏は晴れ渡った青空とは対象的に、あまりにも冷え切った現実しか待っていなかった。
……試合が出来ない。
大人の事情で秘密裏に処理されてしまった「事故」。
バッテリーのもう一人、原田巧を中心に巻き起こった嵐が、新田の野球部を呑み込み、深い傷を残した。
試合に出るはずだった三年生の愕然とした表情が忘れられない。
そして、打たれた身体を抱き、血にまみれ震える巧の姿も。
去年の今頃、中学に入ったばかりなら野球部のレギュラーなんてまだ夢の話だろう、母に勉強の事を煩く言われるだろうけど、勉強が忙しくなるまでは野球を続けよう……などという甘く優しい空想は粉々に打ち砕かれ、踏みにじられた。
原田巧は誰もに心の奥深くに隠された「自分」と向き合う事を強いる、魔性の存在なのだ。
キャッチャーミットに向かう小さなボール、ただその一球を追い、その投げ手へ隷属する事を望まれる、豪。
投手としての才能に耽溺する事を強いられる、監督。
巧の才能故に自らの居場所を奪われ、拠り所を失う部員達。
巧という嵐が吹き荒れ、新田中野球部を完膚なきまでに叩き潰したその結果、新田中野球部は多くのものを失い、生まれ直す事を余儀なくされている。
しかしその嵐の中心は、小憎らしい位に自らの才を信じて疑う事がないのだ。
同じ学年なのに。
足もとから凍り付くような恐怖感に駆られる事がある。
豪には原田巧という人間が理解出来ない。
以前誰かが言った、「原田は野球の為に派遣されてきた宇宙人なんじゃ」、という冗談が冗談に聞こえない位、巧の存在は得体が知れない。
なんで、お前。
なんでそんなに、自分を信じていられるんじゃ。
巧の余りに苛烈な自尊心に、豪はついていけなさを感じる事が多々ある。
それでもバッテリーである事を辞める気はないのだ。
あの一球を。
巧の荒ぶる魂そのものを掴めるのは自分だけだから。
そう、信じていたいから。
「豪」
自分の名を呼ぶ声に振り返ると、ユニフォーム姿の巧が汗を拭っていた。
「空に恋しい女の子の姿でも浮かんでるのか?」
巧は冗談にしては辛辣な事をよく言う。
お前の事を考えてたんだ、という返事を呑み込んで、豪は苦笑した。
「好きに解釈しとけばええんじゃ」
「じゃあ、好きに解釈しとく。沢口、東谷、豪が……」
巧が少し離れた所でグラウンド整備をしている二人に向かって大声を出そうとしたので、豪は慌てて巧の口を塞いだ。
「なんでお前はそういう所だけ子供っぽいんじゃ! 告げ口なんか小学生のやる事じゃろ!」
巧はさりげなく豪の掌を口から外して、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「俺、三月まで小学生だったし」
「……全く、ああいえばこういうなんじゃから」
自分の負けを悟って、豪は盛大に溜息をついた。
それから、豪も吹き出した汗をタオルで拭き取ってゆく。
あくまでも「活動停止」中の自主練習中だから、校内で大したトレーニングは出来ない。
ランニング、筋トレ、簡単な投球練習……短時間で最低限のメニューをこなしたら、すぐに学校を出なければうっとうしいお説教が待っているのだ。
早く逃げないと、と思いながらも、身体はもっと練習を、と訴えているような気がする。
「テストが終わって、本当だったら夏の大会に向けて本腰を入れて練習する時期じゃったのにな」
今更言っても仕方のない事を、豪はつい口にしてしまった。豪だけでなく、野球部全員の本音だろう。
期末テスト前の部活禁止期間も今日で終わり。
後は夏休み中たっぷり野球漬けで、途中で合宿なんかもあって、もっともっと身体を鍛えて、死に物狂いで試合をして……それぞれがそれぞれの可能性に挑戦するはずだった。
たった一週間前まで、その予定は現実に遂行されるものとして豪の、そして巧の目の前にあったものだったのに。
指導にあたるはずのオトムライは療養中だ。
そして、野球部の夏はあっけなく、終わってしまった。
失われた可能性の大きさを思って、豪はもう一度大きく息を吐き出した。
「恋わずらい? モテる男は大変だな」
巧は豪の右側を通り、道具を拾って片付け始めた。
「……うるさい」
巧が動きを止め、豪を振り返る。
「……な、なんじゃ」
まごつく豪に向けて小声で、巧は問うた。
「今日、ちょっと暇あるか?」
「カテキョーの先生も来ないから、大丈夫じゃけど……」
巧の瞳に、僅かに遠慮する色がある。いつもは有無を言わさずなのに、珍しい。
「……傷の具合を、見てくれないか。青波が薬塗ってくれてたけど、昨日無くなったから」
豪は息をのんだ。
巧は平然とした表情を崩さなかったから、豪は忘れそうになっていたのだ。
巧の背中には無数の打ち切った痕があった。
あちこちに青痣も。たった一週間で全てが元通りとはいかない。
……そんな当然の事も失念してしまう位に、事態の変化は急激だった。
豪は深刻な表情で頷く。
「今日、おふくろは親父と親戚の見舞いに行っとって……多分帰ってくるのは夜九時過ぎじゃから、結構遅うまででも大丈夫じゃ」
不意に、巧の拳が飛んできた。
ばし、という大きな音がして、巧の拳骨が豪の肩口に直撃する。
「いてっ!」
「豪が、油断するからだ。油断大敵」
巧の口の端に浮かぶ人の悪そうな笑みはいつもの調子で、だから豪も、普段の調子を取り戻して巧に接する事が出来た。
「お前、それは卑怯じゃ! 正々堂々来れば俺は負けん!」
ぎゃあぎゃあと言い争うバッテリーを眺めながら、沢口と東谷が茶々を入れる。
「夫婦喧嘩は犬も食わないって言うじゃろ。仲がいいのはわかったから見せつけんな」
「豪、駄目じゃ、巧はうちのメリーさんのもんじゃからな!」
大騒ぎの豪達を照らす太陽の光が、少しずつ朱を帯び始めていた。
赤い蛇ののたうつ膚にもうひとつだけ、疵を増やした。
夏に向かう空の色だ。
輪郭を崩してとけてゆく飛行機雲の白さとの鮮やかな対比が、灼熱の季節への予感を永倉豪にもたらす。
けれども今年の夏は晴れ渡った青空とは対象的に、あまりにも冷え切った現実しか待っていなかった。
……試合が出来ない。
大人の事情で秘密裏に処理されてしまった「事故」。
バッテリーのもう一人、原田巧を中心に巻き起こった嵐が、新田の野球部を呑み込み、深い傷を残した。
試合に出るはずだった三年生の愕然とした表情が忘れられない。
そして、打たれた身体を抱き、血にまみれ震える巧の姿も。
去年の今頃、中学に入ったばかりなら野球部のレギュラーなんてまだ夢の話だろう、母に勉強の事を煩く言われるだろうけど、勉強が忙しくなるまでは野球を続けよう……などという甘く優しい空想は粉々に打ち砕かれ、踏みにじられた。
原田巧は誰もに心の奥深くに隠された「自分」と向き合う事を強いる、魔性の存在なのだ。
キャッチャーミットに向かう小さなボール、ただその一球を追い、その投げ手へ隷属する事を望まれる、豪。
投手としての才能に耽溺する事を強いられる、監督。
巧の才能故に自らの居場所を奪われ、拠り所を失う部員達。
巧という嵐が吹き荒れ、新田中野球部を完膚なきまでに叩き潰したその結果、新田中野球部は多くのものを失い、生まれ直す事を余儀なくされている。
しかしその嵐の中心は、小憎らしい位に自らの才を信じて疑う事がないのだ。
同じ学年なのに。
足もとから凍り付くような恐怖感に駆られる事がある。
豪には原田巧という人間が理解出来ない。
以前誰かが言った、「原田は野球の為に派遣されてきた宇宙人なんじゃ」、という冗談が冗談に聞こえない位、巧の存在は得体が知れない。
なんで、お前。
なんでそんなに、自分を信じていられるんじゃ。
巧の余りに苛烈な自尊心に、豪はついていけなさを感じる事が多々ある。
それでもバッテリーである事を辞める気はないのだ。
あの一球を。
巧の荒ぶる魂そのものを掴めるのは自分だけだから。
そう、信じていたいから。
「豪」
自分の名を呼ぶ声に振り返ると、ユニフォーム姿の巧が汗を拭っていた。
「空に恋しい女の子の姿でも浮かんでるのか?」
巧は冗談にしては辛辣な事をよく言う。
お前の事を考えてたんだ、という返事を呑み込んで、豪は苦笑した。
「好きに解釈しとけばええんじゃ」
「じゃあ、好きに解釈しとく。沢口、東谷、豪が……」
巧が少し離れた所でグラウンド整備をしている二人に向かって大声を出そうとしたので、豪は慌てて巧の口を塞いだ。
「なんでお前はそういう所だけ子供っぽいんじゃ! 告げ口なんか小学生のやる事じゃろ!」
巧はさりげなく豪の掌を口から外して、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「俺、三月まで小学生だったし」
「……全く、ああいえばこういうなんじゃから」
自分の負けを悟って、豪は盛大に溜息をついた。
それから、豪も吹き出した汗をタオルで拭き取ってゆく。
あくまでも「活動停止」中の自主練習中だから、校内で大したトレーニングは出来ない。
ランニング、筋トレ、簡単な投球練習……短時間で最低限のメニューをこなしたら、すぐに学校を出なければうっとうしいお説教が待っているのだ。
早く逃げないと、と思いながらも、身体はもっと練習を、と訴えているような気がする。
「テストが終わって、本当だったら夏の大会に向けて本腰を入れて練習する時期じゃったのにな」
今更言っても仕方のない事を、豪はつい口にしてしまった。豪だけでなく、野球部全員の本音だろう。
期末テスト前の部活禁止期間も今日で終わり。
後は夏休み中たっぷり野球漬けで、途中で合宿なんかもあって、もっともっと身体を鍛えて、死に物狂いで試合をして……それぞれがそれぞれの可能性に挑戦するはずだった。
たった一週間前まで、その予定は現実に遂行されるものとして豪の、そして巧の目の前にあったものだったのに。
指導にあたるはずのオトムライは療養中だ。
そして、野球部の夏はあっけなく、終わってしまった。
失われた可能性の大きさを思って、豪はもう一度大きく息を吐き出した。
「恋わずらい? モテる男は大変だな」
巧は豪の右側を通り、道具を拾って片付け始めた。
「……うるさい」
巧が動きを止め、豪を振り返る。
「……な、なんじゃ」
まごつく豪に向けて小声で、巧は問うた。
「今日、ちょっと暇あるか?」
「カテキョーの先生も来ないから、大丈夫じゃけど……」
巧の瞳に、僅かに遠慮する色がある。いつもは有無を言わさずなのに、珍しい。
「……傷の具合を、見てくれないか。青波が薬塗ってくれてたけど、昨日無くなったから」
豪は息をのんだ。
巧は平然とした表情を崩さなかったから、豪は忘れそうになっていたのだ。
巧の背中には無数の打ち切った痕があった。
あちこちに青痣も。たった一週間で全てが元通りとはいかない。
……そんな当然の事も失念してしまう位に、事態の変化は急激だった。
豪は深刻な表情で頷く。
「今日、おふくろは親父と親戚の見舞いに行っとって……多分帰ってくるのは夜九時過ぎじゃから、結構遅うまででも大丈夫じゃ」
不意に、巧の拳が飛んできた。
ばし、という大きな音がして、巧の拳骨が豪の肩口に直撃する。
「いてっ!」
「豪が、油断するからだ。油断大敵」
巧の口の端に浮かぶ人の悪そうな笑みはいつもの調子で、だから豪も、普段の調子を取り戻して巧に接する事が出来た。
「お前、それは卑怯じゃ! 正々堂々来れば俺は負けん!」
ぎゃあぎゃあと言い争うバッテリーを眺めながら、沢口と東谷が茶々を入れる。
「夫婦喧嘩は犬も食わないって言うじゃろ。仲がいいのはわかったから見せつけんな」
「豪、駄目じゃ、巧はうちのメリーさんのもんじゃからな!」
大騒ぎの豪達を照らす太陽の光が、少しずつ朱を帯び始めていた。