衝動(2)
沢口や東谷と別れ、豪は巧を伴って畔道を進む。
茂った雑草から噎せ返るような夏の匂いがした。
良く背の伸びた青い稲穂を、生暖かい風が揺さぶる。
一週間前にも、豪はこの畔を巧と共に歩いた。
ぼろきれのようになった巧を豪は黙って家に連れ帰り、傷だらけの巧に怪我の治療を施し、大人達の追求を逃れる一晩を与えたのだった。
あの時、巧に何か言うべきだったのだろうか。
豪は一週間、ずっと考え続けていた。
背中の赤い傷と共に打たれた巧のプライドを思うと、かける言葉など見つからない。
何か言っても逆に傷つけるだけかもしれない。
励ましの言葉はその時の巧に取っては侮蔑にしかならないだろう。
思い悩んで、でも結局、一番伝えたい事はなんだかわからずに。
空転する思考をまとめ上げる事は、その時の豪には出来なかったのだ。
ただその身体の傷を楽にする知識はあったから、豪が巧に対して出来るのは傷の治療。
そう言い聞かせながら、巧の傷に薬を塗り込み、痛み止めを飲ませた。
その後の怒濤の展開もあって、巧とその事について話し合う事はなかった。 
何と話せばいいかもわからなかった。
「……でかいよな、お前の家」
しばらく無言だった巧が、突然話しかけてきた。
「住んどる人間は大しておらんのに、無駄が多いけどな」
玄関のドアを開ける。誰もいない家の奥へ向けて、夏に向かう風が吹き込んでゆく。
観葉植物がざわめいた。
「何か飲むか?」
「……冷たいミルクティー」
巧の態度がどこかぎこちない気がする。
豪はあえて気にしないようにし、自分の部屋を無言で指さした。
几帳面に整えられたキッチンで紅茶を入れ、牛乳をたっぷり注ぐ。
ダージリンの豊かな香りが満ちた。一週間前も、こうして巧に作ってやった。
その時に感じた不安は杞憂に過ぎなかった、と豪は思っている。
あるいはそう思いたいのかもしれない。
巧は怪我をかばいながらも、日頃とそう変わらずにメニューをこなし、豪へ向けてボールを投げてくる。
威力が落ちているとは思わない。豪を熱く、夢中にさせるその力は変わらない。
あるいはそれは、豪が自分に言い聞かせているだけの事なのだろうか。
とりあえず、怪我の具合は今日見たらわかる。
右手に紅茶の入った盆を、左手に救急箱を持って自分の部屋に入ると、巧は勝手に豪の本を引っ張り出し、ベッドの上で寝っ転がって読んでいた。
「これ、面白いな。ここで読んでっていいか?」
寛いでいる風の巧に安堵を覚えながら、豪は手早くカップをテーブルに並べ、救急箱を開ける。
「薬塗る間に読んどけばええじゃろ」
暗に傷を見せるように巧に促す。
巧は本に挟んであったしおりを読みかけのページに挟み直すと、起きあがってのろのろと服を脱ぎ始めた。
「……っ」
アンダーシャツを脱ぎながら、巧は顔をしかめる。
再びベッドの上に俯せた巧の背中を見て、豪は一週間前と同じように、言葉を失った。
ベルトで打ち切られた傷は赤く盛り上がり、所々にかさぶたを作っていた。
赤が薄れた所もあるけれど、傷のいくつかはもしかしたら、薄れるまでにもうしばらく時間がかかるかもしれない。
豪は展西達の行為の酷さに……そして、彼らの内面に隠されていた闇の深さに慄然とした。
巧の存在が、その天性が、彼らを狂わせたのだろうか。
指先が僅かに慄える。
巧に自分の動揺を伝えたくなくて、豪は一度きつく目を閉じ、巧に聞こえないようにそっと息を吐いた。
「あんまり、痛みはなくなったけど……何かの拍子で、ずきっとくる」
巧は気づかなかったらしい。豪は安堵しながら、塗り薬を指に取った。
白くもったりとした薬が指にまといつく。
小さい頃から、父がちょっとした怪我や火傷の応急処置の仕方を教えてくれていた。
跡継ぎだなんだと言われるのがうっとうしくてかなわなかったのだが、巧の怪我を見た時だけは、そのことを父に心から感謝したのだ。
そうでなければ、きっと冷静に対処など出来なかっただろう。
無惨な怪我に憤って、けれども何も出来なくて、ただおろおろしていただけかもしれない。
肩胛骨の上に大きなみみず腫れが出来ていた。
ぬるくなってきた薬をそっと肩に乗せると、いきなりで冷たかったのか巧の体がびくり、と跳ねた。
「……完治するまでに、もうちっとかかるかもしれん」
ふう、と巧が深い溜息をつく。
「暑くなったってのに、アンダーシャツをずっと着てなきゃいけないから、めんどくさいんだよな」
赤い筋に指を沿わせる。白い線が巧の背中に描かれ、塗り込められては消えてゆく。何度も何度も。
いっそ掌全体に薬を取って塗ったくった方が早いんじゃろうか。
そう思った瞬間。ぬるついた膚の上で指が滑った。
赤い筋に指がかかる。そのはずみで、切り傷の上に出来ていた瘡蓋が剥げた。
「……痛ぅ」
巧が不服そうに振り向く。
「あっ、わりぃ!」
豪は慌てて薬を指に取った。
豪の視線は傷に向かう。
ぷっくりと血の球が出来て、ほどなくそれは朱色の筋を巧の膚に描いた。
薄くなりつつある打擲の跡に上書いて染め直すように、鮮やかな赤が滲む。



……俺が、傷を、つけた。




「……豪?」 怪訝そうな巧の問いに、豪は現実を取り戻す。
ウェットティッシュで血の跡を押さえ、もう一度上から薬を塗った。
「す、すまん、薬で指が滑って」
「せっかく治りかけてんだから、これ以上増やすなよ」
塗ってもらってる身分で偉そうな態度だ。
豪はむっとしたが傷つけたのは自分だから、反論はしない。
さらに薬を手にとって、豪はまた薬を塗り始める。
背中全体に塗り終えるまで、巧は無言で読みかけの本のページを捲っていた。
豪もことさら何かを喋ろうとはしない。ただ黙々と作業をこなす。
「終わりじゃ。今度は、もうちっと多めに薬やっとくから」
「……永倉先生は名医ですねぇ」
巧の言葉にからかう口調はなかった。どうやら感謝はしてくれているらしい。
「治療費は出世払いじゃ」
なんだか照れくさくなって冗談で返すと、振り返った巧がにやりと笑う。
「礼は、全国大会優勝で」
一瞬の間の後、豪は盛大に吹き出した。
「随分な大口を叩いたもんじゃ! 流石大物新人ピッチャーは違う!」
あとは他愛のない冗談の応酬だった。重苦しい空気は消え、いつものやり取りに戻る。
なんだか妙に盛り上がってしまい、巧が豪の家を出たのは結局八時前だった。



その夜、豪は夢を見た。



剥き出しになった巧の背中に手を伸ばす。
うっすらと赤い筋の残る背に、爪を立てる。
しなる背中。
かすかに伝わる苦痛の呻き。
ふつり、という音がして、豪の指先が血に染まる。
もう一度。
次はもっと、力を込めて。
爪を立てる度に巧の身体が跳ねる。 豪は、何度も何度も、飽かずその行為を繰り返すのだ。
やがて豪の心の底から湧き出す感情がある。
熾火のように赤々と点るのは喜び。
その赤みが、痛みを堪えきれずに身じろぐ巧の反応が嬉しくて、豪はさらに深く、厚い爪を背中に突き立てる。
「……巧」
呼ばわる自分の声は、どこか上擦っているような気がした。


  
跳ね起きると全身汗まみれで、パジャマがじっとりと湿っていた。
心臓が痛いくらいに跳ねている。
余りの息苦しさに、豪は毛布に突っ伏して胸の上の布を掴んだ。
「……っくしょ」
夢だ。これはただの夢だから。
必死に言い聞かせる。悪趣味な夢を見る自分に嫌悪感がこみ上げた。
生々しい感触。
爪が食い込む瞬間の熱さ。
現実の経験のようにはっきりと甦ってきて、豪はぎり、と音がする程きつく奥歯を噛み締めた。



夢の中の自分は、その行為を悦んでいた。
小さな子供がアリを潰してまわるような無邪気な残酷さが、爪を立てる豪には満ちていたのだ。
まだ太陽が昇る様子はない。
しかし今日はもう、眠れそうになかった。