衝動(3)
2.解放








乾いた疵を何度も何度も、抉る。刻みつけるように。……俺を。










今年最初の夢は、巧に爪を立てる所から始まった。
一月三日。息苦しさを感じて飛び起きる豪の周りに、じわりと冬の寒さがまといつく。
台所から僅かに雑煮のだしが香って、少しだけ豪を現実に引き戻してくれるが、朝から気分は最悪だった。
時計は五時を指しているが、今日は神社に行って、ランニング中の巧を待つ気にはなれない。
枕元の携帯を見てふと思い出す。 
昨日の夜、伊藤春菜から誘いのメールが来たのだ。
  「あけましておめでとう\(^o^)/。豪くん、暇だったら、明日初詣に行きませんか?」
飾り気のない、あっさりとした誘いのメールだった。
年末に彼女から告白をされた。
逡巡しながら、まだつきあう所までは考えられないからと答える豪に、春菜は「私はしばらくの間は豪くんが好きだと思うから、待っとるよ」と、声を詰まらせながらも精一杯の笑顔を見せてくれたのだ。
彼女に恋愛感情を抱くかどうかはわからないけれど、せめて誠実でありたい。
のろのろと携帯を手にとって、豪は小さなボタンを大きな指で打ち始める。
「初詣、大丈夫です」
日頃女の子と親しくしている訳ではないから、どんな文面にすればよいのか、正直な所わからない。
ひどくそっけない感じの文章になってしまったが、返事はすぐに来た。
「ホント?良かった(*^_^*)じゃあ、新田神社の前で1時からは、どうですか?」
特に用事もなかったので了解の文章を返信する。
「じゃ、また明日ね(^o^)/~~~」
顔文字満載の文面がなんだかおかしい。
どう扱えばよいのかはよくわからないけれど、巧の相手をしている時のように追いつめられる事はないから、ほっとする。
付き合ってみたら、楽しいんかな。他愛ない話をして、時々デートしたりなんかして。
……野球の事なんて、巧の事なんて、考えずに済むんかな……。
遠くから、配達のバイクの音が聞こえる。豪は俯せになって枕に顔を埋めた。
毎日綺麗に洗い変えられた枕カバー。ふかふかの布団。時々妙に居心地が悪くなる。
全部の事から逃げて、逃げ切れたら、楽になるんかな。
深く溜息をつく。横手との試合後から何度目だろう。豪は逡巡を振り切るために目を閉じた。



もう一度目を覚ました時にはもう昼前だった。
考え込んでいるうちに眠ってしまったのだ。
慌てて飛び起きキッチンに向かうと、母がニコニコしながら雑煮を温めてくれる。
豪が野球から距離を置き気味なのが嬉しいらしく、ここの所ずっと機嫌がいい。
巧の事から逃げるように勉強をしていた時期もあったから、とりあえず成績だけは上位を維持していた。
ぐちゃぐちゃな心の中とは関係なく、周囲の状況は2年後の入試へ向けて進んでいくのだ。
何もかも忘れられれば。ここで捨ててしまえれば。
雑煮の湯気を顎に受けながらぼんやりする豪に、母が訝しげな視線を向ける。
「……大丈夫?」
何でもない、と頭を振る。
初詣に行く事を告げると、春菜の存在を知っている母はまあ、と含みのある笑みを浮かべた。
「春菜ちゃんはええ娘よね。あんなお嫁さんが来たらお母さんも嬉しいわぁ」
あまりの飛躍に豪がぽかんとした顔をすると、母は大声で笑い始めた。
「豪ちゃん、女の子の気持ちには疎いじゃろうから、春菜ちゃんも大変じゃ。 困らせたらいけんよ」
からかわれた事に気がついて豪がむっつりすると、その様子がまたおかしかったらしく、くすくすと笑い続けている。
「……いってきます」

  自転車を漕ぎ始めると冷風が顔に突き刺さってきた。
中学に入って初めての冬。
今年は寒い冬になりそうだ、という話だったが、体感の寒さよりも心が凍り付く方が何倍も辛い事を豪は思い知っていた。
頭から巧の事が離れない。目を閉じると、鮮やかな赤い疵が浮かび上がる。
……俺がつけた、疵が。