衝動(5)
3.衝動









 受け取れるのは、俺だけだ。誰にも、わたさない。









横手との再試合後。豪は全精力を使い果たし、帰宅してから玄関にへたり込んでしまった。
三時間ほど気絶した後、再び目を覚ました時にはどうやら冷えと疲れから急に風邪を引いてしまったようで、熱を測ってみるとかなり高い。
心配する母が粥を作ってくれたので、無理矢理それを流し込んで豪は昼までうとうとした。
休みで良かったわ、という母の声が遠くで聞こえた気がする。
沢山夢を見た。あの日から何度も繰り返すようになった、巧を傷つける夢も。
最初のうちは見る度に飛び起きていたのだが、そのうち夢の内容に慣れてしまって、豪の中ではもうどうでも良いものになっていた。
豪を取り巻く現実はどんな夢よりも劇的だったのだ。
対外試合の実質的な禁止、横手との試合、そこで崩れ落ちてしまった自分。
しかし、自分は巧の前へ戻ってきた。そしてもう一度、横手と。
試合終了後、門脇は泣いているようだった。
その門脇に怒鳴りつけるようにして励ましている瑞垣の真摯な横顔がちらりと見えた。
巧は打たれても崩れなかった。
門脇の打った球がスタンドに消えた時も。感慨を踏み締めるようにゆっくりとダイヤモンドを一周した時も。
あのプライドの塊のような巧が、まるで打たれる事すら計算のうちだ、とでもいうように、一切の感情の揺れを顔に出す事がなかった。
回を追うごとに強くなる球威に、驚異を感じる自分と、嬉しくてたまらない自分がいた。
心も体も頭もくたくたで、試合直後には沸いてこなかった感慨が、今になってじわじわと起こってくる。
俺と巧と、バッテリーとしての何かが、始まった気がする。
どんな状況に追いやられても……俺のピッチャーは、負けない。
二人で沢山のものを乗り越えてきた。
まだ小学生だったあの頃から、なんて遠くまで来たんだろう。
不意にドアが開いた。
「……豪。うわ、この部屋めちゃくちゃストーブ効いてるな」
ジャージの上下姿で、巧が入ってきた。どうやらランニングでもしていたらしい。
「……お前、元気じゃな」
もともと今日の野球部の練習は休みの予定になっていた。
なんでこいつはこう、野球の事になると、信じられないくらいタフなんじゃろうか。
「でも、肩が疲れてるから無理はしない。熱、出したって」
巧の後ろから母がついて来た。
二人分のジュースを置いて「夕方まで出かけてくるからね」と言い残し、そっと出ていく。
「昨日の試合で全力を使い果たしたんじゃ。…さっきからくしゃみと鼻水が出るし。
今日はキャッチボールは無理」
巧はベッドに腰掛け、ジュースを手に取る。
「おふくろが電話で聞いたっていうから」
ちょっと的はずれな感じのする巧の言葉で、豪はある事に思い至った。
「……もしかして、見舞いに来てくれたんか?」
目を丸くする。確かに妙に律儀で真面目な所があるが、そこまでするとは思わなかったのだ。
「ランニングのついでだから。あんまり長居はしない」
「だから、俺が熱出すんじゃ。滅多な事じゃ風邪なんか引かんのに」
恨みがましい目で睨みつける豪の態度には素知らぬふりで、巧はジュースを一口飲んで、ふ、と軽く息をついた。
「……昨日」
巧の声が少し掠れた。目線で続きを促すと、考えながらなのか、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「お前、昨日の試合、楽しかったか?」
改めてそう問われると、豪は答えに詰まってしまう。
楽しいか、と聞かれたら正直答えようがない。
あんなにしんどくてキツくて辛くて胃が痛くなるような展開の試合なんて、出来ればもう二度としたくない……と終了直後は思ったりもしたのだが。
回を追うごとに力を増してゆく一球一球を捕るときの快感は、俺しか知らない。
まだ、巧は未完成だったのだ。
雄敵と対峙する中でしか垣間見る事の出来ない自分の限界を、把握し、壁を叩き壊し、相手を乗り越えてゆくその瞬間を、確かに豪はこの目で、この腕で感じる事が出来たのだった。
たった一試合。たった二時間程で、巧が知り、超えたものはいくつあるのだろう。理屈ではない。
逃げようのない現実を突きつける一瞬を、この試合の中で巧は何度経験したのか。
そして豪は初めて、巧が才能やふてぶてしいまでの性格とは裏腹に未分化でアンバランスな成長を遂げている意味がわかった気がする。
だからこそ。
「……あんなもんじゃねぇ」
巧は無言で豪を凝視する。
もっとだ。もっと強い敵を。強かな頭脳派でもパワーヒッターでも何でもいい。
弓を限界まで引き絞った緊張感の中でしか、巧の本当の強さは引き出せない。
そして自分も。
一球ごとに戦慄を受け止める瞬間を知ってしまったら、もう、それなしではいられない。
囚われた。
そして自らが望んでそこに戻っていった。
もう知らなかった頃と同じではいられないから。
限界が来るその時まで。巧の強さを受け止められなくなるまでは。
俺は、巧のキャッチャーでいよう。
「もっと、いい試合が出来る。これからも……きっと」
あふれ出る感情は言葉に出来ない。
せめて想いだけは伝わるようにと、豪は吐き出す声に精一杯の力を込めた。
そして、ふと門脇の事を思った。
あの人はきっと、このままじゃ終われない。
豪が一度どん底を経験したように、あの人もきっと絶望の淵に沈んでいるだろう。
そういう人こそが、真に巧のライバルになり得るのかもしれない。
「……さんきゅ」
巧の口から滑り出た言葉に、豪は目を丸くした。
まさか感謝の言葉がこいつから出てくるなんて。
いつもは周りの人間は自分に奉仕してくれて当然、くらいの態度なのに。 
けれども、今このタイミングで言って欲しくはない。
豪と巧のバッテリーとしての歴史はまだ始まったばかりなのだ。
まるで終わってしまうみたいで嫌だった。
「そんな事、言うな。らしくないじゃろ」
「……そっか」
巧は珍しく素直だ。もしかしたらこいつもそこそこに疲れているのかもしれない。
巧は豪に背を向けて、ジュースのグラスを置く。それからふう、と息をついて続けた。
「俺は、もっと強くなれると、思う……お前となら」
豪は息を呑んだ。ずっと悩み続けてきた豪への答えが、ここにある。
「門脇さんには打たれたけど……もし次があったら、打たせない。打たれても、負けはしない。だから」
巧はぽつぽつと言葉を継いでゆく。
「早く、風邪治せ。……色々、やってみたい事があるから」
「……お前、本当に、野球バカじゃな」
豪は苦笑するしかない。
野球以外の事に関して、こいつはどうしようもないくらい不器用でバカで俺様だ。
けれども。巧がこんなに真摯に、誰かを求める言葉を告げる相手は、おそらく豪以外にはいないだろう。
そして豪も、囚われている自分を改めて自覚した。
誰かをこんなに欲しいと思う気持ちなんて知らない。
反復してきた夢の欠片が、泡沫のように脳裏に浮かんでは消えた。