「タナトスの声を聞け」
数時間後、欠け始める満月を背にして。
ルナティック……ユーリ・ペトロフが弔いの声と共に蒼い炎を発動した刹那。
その標的となるはずの男は、口元に嬉しげな笑みを浮かべた。
「早くしろ、さあ。オレを焼き殺せルナティック。本望だ。オレに死を!」
歪んだ唇の端に血が滲んでいる。逃走中に切ったのかもしれない。
どこか謳うような口調は男の内面の恍惚を伝えるようだった。
ルナティックは構えていたクロスボウに炎を灯しつつ、男に問うた。
「何故殺した。お前がその行動に出た理由を聞こう」
ルナティックに対峙するその若い男は、黄昏時の大学で銃を乱射した。
帰宅途中の学生達に、放たれた銃弾は容赦なく襲いかかり。
死傷者14名。
血と悲鳴で満ちたキャンパスを背に、男はバイクで逃走していた。
久しぶりの皆既月食がシュテルンビルト全域で見られるという話題から急遽切り替わった、凄惨な現場の様子を伝えるニュースをBGMに、ユーリ・ペトロフは男の情報を収集する。
当然、直後からヒーロー達は動き始めている。その裏をかいて、ユーリは男が逃走するであろう場所を割り出した。
1時間後。
事件のあったイーストシルバーの大学からは大きく離れた、ブロンズステージの西側、海沿いに男はいた。
冬の夕闇に包まれた海を背に、小さな銃を手にした男はバイクを降り、ぼんやりと海を眺めている。
ユーリの読みは的確だった。その近くには、男の家族…母親と義理の父親の住むアパートがあるのだ。
元々大学を欠席気味だったというその男は、追跡してきたルナティックの姿を目の当たりにした瞬間、血走らせた眼球を大きく見開き。
そして、うっとりと陶酔しきった表情をルナティックの前に晒した。
「あんたが出てくるのを待ってたんだよ、ルナティック」
男が二つに裂けたような大きな口から走らせたのは、意外な台詞だった。
「なあ、あんた、凶悪犯を死刑にしてくれんだろ? オレを殺してくれよ」
ルナティックは無言で男を見やる。
マスク越しに見える男の全身が、喜悦にうち震えているようだった。
「オレはこの世界から消えてしまいたいのに、誰も消してくれない。なあ。あんたなら。……あんたはオレを消してくれるんだろう? だから、殺したんだ。あんただけが、このオレを殺せる」
地上に降りてクロスボウを構えていたルナティックに、不意に男が駆け寄ってきた。
跪き、その場にルナティックのマントを握り締める。
「なあ、オレを救ってくれ。早く殺してくれよ!」
背後に人の気配がした。
「ルナティック!」
呼ばわるその声はワイルドタイガー・鏑木虎徹のものだった。
……ああ、やはり来たか。
ルナティックは静かに嘆息する。
派手な追跡劇だ。今日は1部ヒーロー・2部ヒーローともに犯人を追っている。
誰かが到達するだろうとは思っていたが、まさかワイルドタイガーとは。
しかしその声に、ルナティックは振り向かない。
ただ、神を見るような眼をルナティックに向ける、その男を冷ややかに見下した。
「早くオレを焼いてくれよ、その蒼い炎で! ずっと待ってたんだよあんたを!」
唾を撒き散らしながら死を希う男の手を振り払う。マントが冷たい冬の風に煽られ宙を舞った。
「ルナ……」
「待て、バニー」
名を呼ぼうとしたのは、虎徹のバディ、バーナビー・ブルックス・Jr.だ。
しかし虎徹はそれを遮り、静かにこちらの動向を伺っている……否、見守っているようだった。
「罪人は皆卑怯だ。お前はタナトスの裁きを受ける事で、自分は救われると思っているのだろう」
男が息を呑む。
「或いは私がお前に死をもたらす事によって、お前の罪が清算されるとでも思っているのか?」
嘲笑含みの声で。ルナティックは膝をつく男に冷酷に告げた。
「タナトスは死をもってお前が罪から逃れることを許さない。お前は生きて、檻の中で一生他の誰かを呪い続けるがいい。それがタナトスの裁きだ。……お前に死による救いは与えられない」
ルナティックは振り返る。ヒーロースーツ姿の虎徹が、前に出ようとするバーナビーの肩を押さえていた。
「ワイルドタイガー」
マスクオフにしてアイパッチをつけた顔を晒している虎徹はいかにも不機嫌だ。
「んだよ!」
「この男を連行するといい」
「一体、どんな風の吹きまわしだよ。気持ち悪ぃ」
「タナトスの裁きに値しない存在だからだ。檻の中で一生を無為に過ごす事こそ、タナトスが望む正義の形」
ルナティックは蒼い炎を灯す。自分の体を空に舞わせるために。
「意味わかんねぇよ!」
虎徹は吐き捨てながらも、呆然とする男の襟を掴んだ。
「待て、ルナティック!」
身体が軽くなる。炎がもたらす浮力を借りてルナティックはふわりと浮き上った。
「私を追っている場合ではないだろう、ワイルドタイガー・ワンミニット? ポイントを稼がなければヒーローでいられなくなるのではないのか?」
揶揄するように告げ、ルナティックは近くのビルに向かって飛翔した。
「お前に言われる筋合いはねぇよ!」
「虎徹さん、僕が!」
能力を発動させたバーナビーが視界に入る。ルナティックは青い炎を纏った矢をつがえた。
「私が簡単に捕まるとでも?」
「本当に裁かれるべきなのはお前だろう、ルナティック!」
青白い光をはなつバーナビーが大きく飛び上がる。ルナティックは容赦なく、標的に向けて矢を放った。
「私を追うより先に、すべき事はあるのではないのかな? バーナビー・ブルックス・Jr.」
ルナティックは更に高く舞う。バーナビーの追いつけない所へ。
「待てっ!!」
「哀れなヒーロー。お前たちの存在は、果たして罪を犯す者の行動を押し留める為の、枷となり得ているのか?」
「……っ!」
上昇気流がルナティックを空へと運ぶ。バーナビーの姿が小さくなってゆくのを見送りながら、ルナティックはその場を離れた。
*
午後10時。
冬の澄んだ夜空に、3分の2ほど欠けた満月が浮かんでいる。
間もなく月は完全にその姿を影に隠し、赤い光を放ち始めるのだ。
ジャスティス・タワーの執務室から見る月は密やかに、バーナビーの追跡から逃げ果(おお)せたユーリ・ペトロフを見下ろしていた。
結局男は、ワイルドタイガーとバーナビーが二人で獲捕した事になっていた。
後でニュースを確認したが、ルナティックとしてユーリが追い詰めていた時、取材班はあの場に間に合っていなかったのだ。二人の行動が他のヒーロー達に先んじたという事なのだろうか。
ヒーローTVでは繰り返し、男を連行するヒーロー二人の姿が流されている。
「……茶番だ」
溜息混じりにユーリが呟く。同時に、ノックの音が聞こえてきた。
「ペトロフ裁判官、いらっしゃいますか?」
バーナビー・ブルックス・Jr.の声だった。
「……ええ。開いていますので、どうぞ」
「失礼します」
入ってきたのは二人。バーナビーと、鏑木虎徹。
バーナビーはいつもどおりのクールな表情で。そして虎徹は何処か不機嫌な様子を隠せない風情だ。
「どうしましたか?」
「今日の事件の報告書を提出に。……一応僕と虎徹さんの二人で逮捕したという事になっていますが、実際の所は違うので。取材クルーが間に合っていれば良かったんですが」
書類の束をユーリに手渡しながらバーナビーが説明をする。
「……実際は、どのような」
ルナティックとして男を追跡しはじめた時点では、ヒーロー達は誰も逃走先を掴めていなかった。傍受したPDAの通信は、ヒーロー達の混乱を伝えていたのだ。
何故あの二人が真っ先に、男が逃げたあの埠頭に辿り着いたのか。それはユーリも知りたい所ではあった。
「事件の一報が入った時、僕達は二人でシルバーステージで発生した窃盗事件の犯人を追っていました。その時にPDAにエマージェンシーコールが入ってきたんです。……で、PDAに犯人のデータが送られて来ますよね。その時に」
虎徹が不意に、バーナビーの肩に手を置いて押し留めた。先程のように。
「いーだろ全部言わなくても」
バーナビーは虎徹の顔に一瞬視線をやり、頭を振る。そしてきっぱりとした様子で続けた。
「僕は言いますよ。このままじゃ誰も知らないままになってしまう。……その時に、虎徹さんが『一人暮らしか寮暮らししてるんだったら、家族の家が何処にあるか検索してくれ、多分犯人はその周辺にいる』って。他のヒーロー達よりも、僕達は近い所にいた。だから」
ユーリは二人に苦笑を浮かべてみせた。二人が知っている『ユーリ・ペトロフ』を演じる為に。
「……それを素直に伝えていれば、鏑木さんのポイントになったでしょうに。2部所属だと、行動の制限は1部ヒーローよりはるかに多いはずですが?」
言い終えた瞬間。
虎徹の勁い視線がユーリを捉えた。
激しい怒りが、その瞳に灯っている。
「……死傷者14名だぞ! 実際に人が死んでんだよ! ポイントがどうこうとか、そんなくだらねぇこと言ってられっか!」
決して大きな声ではない。持て余す感情を吐露する言葉は音量を抑えた低い響きのものだったが、ユーリの耳に突き刺さるように、聞こえた。
……何故。
「……虎徹さん」
「なぁバニー」
虎徹を心配する表情を浮かべるバーナビーに問いかけて、虎徹はふ、と息をつく。まるで怒気を振り払うように。
「あいつが引き金を引く前に、その行動の本当の意味を伝えなきゃいけねぇのが、ヒーローなんだよ」
バーナビーは無言だった。
そしてユーリもまた口を閉ざしたまま、じっと虎徹の様子を伺う。
凍てつくような静寂の中。月は完全に姿を隠し、まるで滴る血の色にも似た赤い光を放ち始めた。
まるで14人分の血液が、その部屋の中にぶちまけられたのではないかと錯覚するような紅の色。
「裁判官。放送されてねぇし多分報告上がってねぇけど、ルナティックの野郎が出てきやがった」
僅かに赤銅色を頬に反射させた虎徹が、ユーリに告げる。
放送クルーが間に合わなかった事もあって、ルナティックについては一切の報道がなかった。
「……私は聞いていませんが」
ユーリは目を見開いて、驚愕の表情を浮かべてみせる。
……この中で一番滑稽なのは誰だろう。自嘲めいた笑みがひらめきそうになるのを懸命に堪えながら。
「あいつ、何もしなかったからな、犯人に。……でも、今回に関しては、俺はヒーローTVのクルーに言う気はねぇ」
「今日は何で殺そうとしなかったんでしょうね。いつもなら、ためらいなく行動していたと思うんですが」
バーナビーが首を傾げる。
虎徹は吐き捨てるようにして、バーナビーに答えた。
「……あの男は死にたがってた。要するに、自殺の道具にルナティックを使いたかったってことだろ。だから、ルナティックはそこまでしてやる義理はねぇと思ったんじゃねぇのか。俺にはルナティックの考える事はよくわかんねぇが、あいつは死にたいと思ってる奴を殺した事はねぇからな。……ルナティックの被害者は大概、自分の罪を自覚していない凶悪犯だ」
「……僕には、あの男は死にたがってなんていないように見えたんですが」
バーナビーは再び虎徹に問いかける。
虎徹は溜息交じりの声で、返した。
「実際はそうだろうな。もしかしたら生きていくのが辛すぎて、死ぬ事で救われると思ってたのかもしれねぇけど、人を殺した時点で俺はあの男が何をどう釈明しようと信じねぇよ。人を殺した時点で、あいつは他人の命なんてどうでも良かったんだろ。そんな奴の望みを叶えてやる必要なんてどこにもねぇからな」
執務室はまた、静寂に包まれる。
ユーリは二人にわからぬように、微かに息を吐いた。
ルナティックに縋り付き死を乞う男の背後に垣間見えた、ナルシスティックな欲望。
あの男は明らかにルナティックを英雄視していた。
その英雄に殺される事は、男の殺害行為の正当性をルナティックが認めたのと同じ。
もし命を奪っていたら。
タナトスの裁きに値するだけの殺戮を行ったという陶酔だけが、最期の瞬間、男に残されただろう。
それは決して本意ではないことだ。
だからこそ、あの時手を引き、二人に男を引き渡して去った。
司直の手に委ねられ、裁判を通して自らの正当性を徹底的に叩き折り、無為な生を牢の中で過ごさせるしかない。それ以外に、男を罰する道はないのだ。
ユーリはそう思っていた。
誰かに理解されようとは思わない。してもらおうと考えた事もない。
しかし虎徹は彼なりの言葉で、ユーリの、ルナティックの内面を言い当てる。
一体、この男は。
自分でも理解出来ない感情が一気に押し寄せて、ユーリはそれから目を逸らすように窓の外に視点を移す。
欠けていた満月が少しずつ、明るさを取り戻し始めていた。
久々の皆既月食。次に見られるのは数年後だという。
その時の自分は何処にいるのか。
或いはもう、ここではない場所へ去ってしまっているのか。
「裁判官には一応報告しといた方がいいかな、と思ったんで。またあいつ、出てくるだろうから」
虎徹の声は明瞭で淀みない。
ルナティックが出現するであろう未来が、虎徹にははっきりと見えているのだろう。
このまま消えてしまえば。
喰われて生まれ変わる月のように、ただのユーリ・ペトロフとして生きて行ければ。
幻のように、泡沫のように、浮かんでは消える想いがある。
赤い月の夜にはいつも。
しかし。
ユーリは瞬きよりもほんの少しだけ長い時間、その瞳を瞼で覆い隠す。
……犯罪のある限り。無辜の市民の死がそこにある限り、ルナティックもまた消えることはない。
あの男の息子として生まれた時から。
そして、死に追いやったその時から。
それはユーリに定められた事なのだから。
「……わかりました。報告書には?」
努めて事務的な態度でユーリは問うた。
「詳細は僕が書いてます。追ったんですが、残念ながら逃亡しました」
「そうですか。……次こそは、逮捕を」
「ええ、今度こそは」
心から悔しそうにバーナビーが唇を噛んだ。その様子をちらりと覗き見た虎徹がバーナビーの肩をぽん、と叩く。
それは何気なく周囲に目を向けているからこそ出来る事。
その虎徹の瞳が、ユーリとルナティックが同一のものであると気づく日は来るのだろうか。
そして捕らえられ素顔を晒した瞬間、どんな世界が待っているのだろう。
マゾヒスティックな欲望はしかし、未だ叶えられることはなく。
「あ、月が出てきた。……何かホッとすんな。俺は、いつもの月の方がいーわ、やっぱ」
「こんなに綺麗な皆既月食はしばらくないそうですよ。展望台にでも行ってみませんか?」
「……んじゃ、月が出てくるまでな。じゃ、失礼します、裁判官」
二人は会釈をして、執務室を出て行った。
皆既月食が終わるまであと僅か。
今日はもう、ルナティックとしてシュテルンビルトに降臨する事はない。
ユーリは椅子に腰掛け、再び月を見上げた。
月の生まれ変わるその先に何が待っているのか。
徐々に光を取り戻しつつある月の光を浴びながら。
ユーリは喪われた命のために、黙祷を捧げた。
彼らが魂の安らからんことを願って。
2011.12.11UP。本当は書いてる場合じゃないんですが、皆既月食の晩に更新せずして何が月クラスタだ!ということで。
中二病全開で行ってみましたテヘペロ☆