あと数週間で約30年振りの金環日食を見る事が出来るのだというニュースが、連日新聞やテレビを賑わせている。
太陽と月と地球が一直線に並ぶ事で起きるこの現象に、人間は古来より様々な意味を与えてきた。
ある場所では吉兆として、他の場所では不吉な知らせとして。
しかし大騒ぎするほどのものでもない。天体運動のタイミングによって発生するそれは、わざわざシュテルンビルトで見なくても、毎年どこかの地域で見る事が出来る。
街頭の大型ヴィジョンで日食眼鏡の使い方をレクチャーするのを横目に、ユーリ・ペトロフは司法局へと足を速めた。
今日は家を出るのが遅くなってしまった。
早く行かなければ、作成した資料の再校正が出来なくなってしまう。
ヒーロー管理官の仕事は多岐に渡る。ロー・クラークに細々とした事務作業を丸投げしてしまえば多少は楽になるのかもしれないし、前任の管理官はそうしていたのだと聞かされもしたが、ユーリの性分はそれを許さない。なるべくならば、全て自分の手で仕上げてしまいたかった。
ヒーローと関わるのも異動までの数年の間だけだ。
自分に言い聞かせながら資料を紐解くが、書類の隅に必ず残されている「Mr.レジェンド」の名に溜息をつくこともしばしばだった。
禍々しい記憶に自分の心が振り回されなくなるのは、いつなんだろうか。
背後のヴィジョンから、どこかで聞いた声が流れてきた。
「スカイハイさん、日食の日はどこでご覧になる予定ですか?」
「私は当然、空の上から見る予定だよ、当然ね。そうだ、良い子のみんなは、日食メガネの準備を忘れないように、そしてゲットだ!」
追随してゲットだ、と続けるインタビュアーの声を背に、ユーリは司法局の玄関をくぐり、足早に執務室へと向かった。
*
決済の必要な作業が一通り終わり、紅茶のポットに茶葉を入れ、湯を注いだその時。
執務室のドアを誰かがノックした。
「……はい」
「入ってもいいですか?」
明瞭な、張りのある男性の声。
……今朝、出勤途中に聞いた。
勢いよくドアが開き、ユーリの返事を待たずに入ってきたのは、スカイハイことキース・グッドマンだ。
キースはじっとユーリの顔を見、そして無邪気な子供のように破顔した。
「先日はありがとう、そしてありがとう、ペトロフ裁判官!」
満面の笑みを浮かべ、大げさに手を挙げるその仕草は、ヒーロースーツを身につけている時と全く変わらない。
苦笑を浮かべながら、ユーリは軽く頭を振った。
「……礼を言われるようなことは、何も。どうやって私がここにいる事を知られたのですか?」
裁判官としての表の顔で、穏やかに問いかける。
つい先日の事だ。
シュテルンビルトの街中で偶然、キースに出会った。
ヒーローの姿をしている訳でもないのに、彼を利用しようとする者達の言葉を頭から信じて、行動する彼に手助けをしたのは単なる気紛れだった。
ワイルドタイガーとは違って裁判と全く縁のない彼は、逮捕状の署名でユーリの名前を見るだけだろう。だからもう二度と接点はないと思っていたのだが。
「他のみんなと話していてね、こういう人がいたんだ、と言ったら、バーナビー君が『心あたりがある』と。彼の洞察力は素晴らしい、実に素晴らしい!」
「……そうですね、彼には何度か会った事がありますから」
ワイルドタイガーではなくてバーナビーが、という所がどこかおかしくもあったが、ユーリは表情には出さず、キースに問いかけた。
「ところで、一体どうしてこちらに?」
キースは大袈裟なジェスチャーをしてみせる。
「ああ、そうだ。肝心な事を。あなたがヒーロー管理官ならば知っているかもしれないけれど、私がヒーローの『スカイハイ』なんだ。お礼と、その事を知らせておかなければいけないと思ってね。裁判官は、私の事を知っていたんだろうか」
「ええ」
キースがスカイハイであることを、ユーリは知っていた。
だからこそ、いっそ愚者としか思えないような振る舞いに、何処か苛立ちに似たものを感じたのだが。
「ではもしかしたら、ハラハラさせてしまったかもしれないな。裁判官から見て、法律的に逸脱している、と思った部分はなかっただろうか?」
キースの口から出てきたのはユーリにとっては意外な問いだ。
「……緊急事態でしたし、救助行為などにも特に問題があったとは思いませんが」
彼はさも安心した、というように、大きな溜息をついた。
「そうか、良かった、そして良かった! いくらヒーロースーツを着ていなかったとはいえ、脱法行為はヒーローとして許されないからね」
明らかに質の良くない連中のカモにされているとしか思えないような状況だったが、裏には過剰と言ってもおかしくないような、ヒーローとしての自意識があったらしい。
内心に抱えた冷たい感情が露骨にならないような柔らかい口調で、ユーリは答える。
「むしろ、周囲の市民の方達には大いに問題があるように、私には見えましたが」
暗に『そういう連中をのさばらせておくのか』という皮肉を込めたのがわかったのだろう。
キースは僅かに顔を曇らせ。俯いた。
しかし、彼は力強く顔を上げて、ぐっとユーリに顔を近づける。
「構わないんだ、シュテルンビルトが平和であれば。本当に問題なのは、そこではないから」
「……?」
「私はヒーローだ。キングオブヒーローの称号まで与えられている。だから、法律の範囲を超えて行動する事は許されない。もし、私利私欲を満たそうとする人間がいて、私が普段の姿でそいつを殴ってしまったら、それは犯罪でしかない。ヒーローとしての行動は法律の制限を受けているのだから。確かに、シュテルンビルトの治安は最近悪化している。それを看過ごす事は出来ない。しかし、私はヒーローとしての生き方を選んだ以上、私には彼らを断罪する権利はどこにもない。罪を裁くのは司法の仕事だ。どれだけ私が犯罪者を腹立たしく思っても、犯人を素手で殴る事だけは絶対に出来ない。だから……あなたに確認しておきたかったんだ。あなたみたいな人が管理官なら、安心してヒーローとしての活動が出来る」
ユーリは返す言葉を見失い、半ば呆然とキースを凝視した。
……心の中に陽炎のように揺らめく記憶がある。
『悪い奴を許してはいけないんだ』
『悪い奴はやっつけなければならないんだ』
そう言った本人はしかし、能力を失って酒に溺れ妻を殴り子を罵倒した。
罵倒された子供は『悪い事をした悪い奴』を、言われた通りにやっつけた。
その果てに、今の自分がある。
やっつけた筈の悪い奴は、未だに自分から離れないままだというのに。
「……? 裁判官?」
怪訝そうなキースの言葉で、ユーリは現実に引き戻された。
「あ、いえ……貴方は、キングオブヒーローなのですね、やはり」
その言葉の裏に潜む毒を彼は飲んだだろうか。
キースは酷く曖昧な表情を浮かべたがそれは一瞬で、すぐに元通りの、人懐こい笑顔を見せた。
空色の瞳が、ユーリの姿を映している。その視線は逸らしたくなる程真っ直ぐで、何処か後ろめたい気持ちを掻き立てられる。
「ありがとう、そしてありがとう!」
彼の決め台詞だ。芝居がかったわざとらしい口調だと思っていたのだが、どうやら本当に口癖らしい。
それが計算されたものなのか、果たして天然のものなのか。
後天的に身に付けた疑り深さが、ユーリを思考の淵に沈みこませる。
もしかしたら、とんでもない食わせ者なのかもしれない。
その瞳の青さが、どこか底知れないもののように感じるのは、ユーリの気のせいなのだろうか。
「いえ、私も改めて、あなたとご挨拶が出来て良かったです。では、これから会議なので、そろそろ失礼します。……そういえば、今朝、たまたま貴方のインタビューを見たのですが。今度の日食は空からご覧になるのですか?」
何故こんな他愛もない事を聞いたのか、ユーリ自身にも良くわからない。
キースは一瞬眩しそうにしている目を見開いたが、すぐに笑顔になった。
「ああ、今朝のインタビューを見ていたんだね。事件さえ起きなければ、空の上から見るつもりだよ。雨が降っても関係ないからね! 次は30年後だから、是非見に行かないと。……裁判官は、どこから?」
「私は……おそらく中継で。貴方のように空を飛べると良いのですが、残念ながらそのような素敵な能力は持っていませんので」
目を伏せて束になった書類を手に持つと、キースはユーリの多忙を察したのか、慌てたようにドアへ向かう。
そして、背筋を伸ばし、大きく手を振った。
「ではお元気で、そして、また!」
「……では」
ばたん、と大きくドアの閉まる音がして、ユーリは大きく息をついた。
知らず、額にじわりと汗が浮かんでいた。
*
キース・グッドマンの……スカイハイの発言はどこまで本気なのだろう。
ヒーローについての会議の出席者の発言を半分聞き流しながら、ユーリは自分の思考に沈む。
天然だと揶揄される事の多い存在だが、それだけではキング・オブ・ヒーローの称号を得る事は出来ないだろう。
運の良さだけで渡ってゆくには限界がある。
あるいは野生の勘のようなものなのか。
ワイルドタイガーのようにロートルのヒーローならば、思考パターンは単純明快だから読みやすいのだが、案外こういうタイプの方が厄介だったりもする。
そしてスカイハイには、他のヒーローにはない「空を飛ぶ」という能力がある。
ユーリが、ルナティックが一番捕獲される可能性が高い相手は彼なのだ。
……何処まで追って来られるのか。
大型モニタに映し出されるスカイハイの姿。能力と今期のポイント獲得内容がずらりと並ぶ。
……私にどこまで肉薄出来るのか?
「彼の実績は申し分ないですね。バーナビーも素晴らしい活躍ですが、経験の分スカイハイの方が勝る」
ポセイドン・ラインの担当者が誇らしげな口調で語る。
「懸案のルナティックを確保出来れば、市民の平和を守れるだけでなく、大いに宣伝になる」
「……そうですね。ルナティックにはこちらも有効な対策を打てずにいます。ヒーローに活躍してもらうしかありませんから。彼らには、心から期待をしています」
ユーリは唇の端に穏やかな笑みを浮かべて、出席者に語りかけた。
自らを逮捕する手段を考えるという、愚かで滑稽な遊び。
しかし、ひとつだけ試してみたい事が出来た。
……さて、どこまで私に追いつける、スカイハイ。
心の奥底に燻る、歓びにも似たそれは、蒼い炎の形をした闘争本能なのかもしれない。
*
楕円を描いて地球の周囲を回る月。それが最も地球に近づく日の満月は、いつもより大きく明るい。
夕陽の向かい側に昇り始めた月は禍々しい程の赤光を放っていた。
ルナティックの姿に装い、道化めいた意匠のマスク越しにユーリはそれを眺める。
まもなく空は夜の領域へ向かう。
……ルナティックの活動時間の始まりだ。
今日は、ある爆破事件の被告人に対する判決公判が開かれた。
レールが突然爆発した事により、早朝に走行中の電車が脱線し横転。
死者5名、負傷者50名超の事件は、犯行予告が事前に各放送局に送られていた事もあり、シュテルンビルトを騒然とさせた。
そして間もなく逮捕されたのは、ロブ・バーキンスという微弱なテレポート能力を持つ、麻薬に溺れた一人のNEXT能力者。
原理は単純なものだった。
少し離れた場所から小型の手榴弾を移動させて、通りがかった電車の傍で爆発させる。
朝のラッシュよりも前の時間帯に発生してもこれだけの被害者が出たのだ。
これがラッシュ時に発生していたら……と市民を恐怖に陥れた事件は、大勢の傍聴者が見守る中、第一級謀殺罪で懲役100年を超える判決が下され、幕を閉じた。
そのロブが乗っている護送バスを急襲する。今日、ルナティックがタナトスより与えられた使命だ。
護送バスの移動経路は頭に叩き込んでいる。今日の混雑具合から行けば、あと10分程で、ルナティックの待つ高層ビルの真下を通過するだろう。
狙うのはその時。
ボウガンの調整をしながら、時が来るのを静かに待った。
足下では喧騒の音が遠く聞こえる。道路は混んではいるものの、平日の夕方にしては車の流れは順調だ。裁きを待つ罪人の能力は微小なものだ。
邪魔さえ入らなければ、「執行」はすぐに終わる。
最期を迎える瞳に映るのは絶望か、はたまた救済か。
ファン、とクラクションの音が響いた。同時に、視界の端に護送バスの姿が映る。
間もなくだ。
二つ向こうの交差点で信号停止した時に、ボウガンに矢をセットした。
派手な音を立てて蒼い炎が燃え上がる。夕闇に包まれようとする空に灯される暗い光。
さあ、裁きの時が来る。
肺の中の空気を空にしてしまうように大きく息を吐いて、矢を番えた。
信号が変わり、護送バスが動き出す。
バスは周りをパトカーに囲まれながら、ゆっくりと近づいてきた。
あと、100メートル。
間合いをはかりながら、炎をさらに強くする。
鋼鉄すら溶かす程の熱量はしかし、それを発する身体を焼く事はない。
50メートル。
マスク越しに熱が伝わり、頬を炙った。
20メートル。
「タナトスの声を聞け」
足下の罪人に向けて、まるで弔いの言葉を投げかけるように呟き。
そして。
矢の蒼色が遠ざかる。
空を裂く音がそれに続いた。
炎の矢はロブの乗るバスへ向け、翔けてゆく。
間髪入れずに続ける。
遥か足下から、かすかに悲鳴とクラクションの音、そして怒声が風に乗って聞こえてきた。
どん、と破裂音がして、バスが燃え上がる。陽炎らしきゆらめきが微かに見えた。
周囲の自動車の流れが止まり、大混雑が発生している。
さあ、仕上げだ。
ボウガンを手にしたまま、混乱した現場へと飛び降りようと身構えた、刹那。
「待て!」
そして、疾る風の音を聞いた。
空からごう、と空気を裂く音がして、鋭い、見えない刃がルナティックを襲う。咄嗟に身をかわすが、掠った衝撃でマントが千切れた。
「……っ」
怒りが炎に形を変えて、ぼろぼろになったマントを焼き尽くす。
「大人しく司法の裁きを受けろ、ルナティック!」
頭上から降ってくる、張りのある声。
夕闇満ちる深い紺色の空に、貴公子めいたヒーロースーツの裾が白く翻った。
「スカイハイ、か」
その手は真っ直ぐにルナティックを指し示している。
遠くからヘリの音が聞こえてきた。おそらく、他のヒーロー達も出動しているだろう。
しかし、遥か高くまで空を飛ぶ事が出来るのはスカイハイのみ。
……ならば。
「風の魔術師、か」
嘲るように、彼が「キングオブヒーロー」の称号を得る前に呼ばれていた二つ名を口にする。
聞く度に嫌悪感を覚えるその称号を、あえて避けるように。
「……追って来られるか?」
挑発する台詞に含まれるあからさまな侮蔑を感じ取ったのだろう。
スカイハイは、ルナティックのマスクよりもさらに表情のわからないそれを大きく動かした。
「……私はヒーローだ、そして、キングオブヒーロー・スカイハイだ!」
大袈裟な見栄を切るその姿は、シュテルンビルト中で放映されているのだろう。
金と時間と人の命を掛けた下らないヒーローショウの、彼はまさに主役としか云い様のない台詞を吐いた。
「馬鹿馬鹿しい。……出来るものならば、捕まえてみるといい」
掌を下に向けて炎を放つ。
同時に空へ向かって飛んだ。
NEXT能力を持っていても、空を飛ぶ者は稀だ。飛行したところで身体が保たないから、ある程度強固なプロテクト機能を持ったスーツが必要になってくる。
スカイハイは風使い。普段は風を自分の周囲に纏わせて、ジェットパックの力を借りて空を飛ぶ。
ならば。魔術師よりもさらに高い所へ。他のヒーロー達の追いつけない場所へ。
そして、炎燃え盛るボウガンを背中のそれに向けて射ち放った。
「スカーイハーイ!」
一瞬で炎が掻き消され、懐に飛び込んできた。
間合いを詰められた。
拙い。
咄嗟に掌を向け、マスクへと直接蒼炎を放つ。
「はぁっ!」
スカイハイを取り巻く風が一斉に、鋭い音を立てて迫ってきた。
竜巻のように渦を巻いてルナティックを取り込もうとするそれは、一切の力を寄せ付けない傲慢さでルナティックに襲いかかる。
「……っ」
巻き込まれる。
空を翔けて避けようとするが、スカイハイは執拗に追ってきた。
咄嗟に炎で盾を作り風の刃の勢いを殺す。
だが、いくつもの鋭い風の剣は、その盾を幾度も掻き消し、ルナティックの身体に細かい切傷を刻み込んでいった。
知らず、汗が流れる。
立て続けに放たれるそれに対抗しようとボウガンを連射するが、スカイハイの周囲に渦巻く風がそれを寄せ付けない。
空気の唸る音がひっきりなしにルナティックを襲う。
視覚化出来ないそれを避ける為に必要な集中力は甚大で、空を翔け態勢を立て直そうとしても、スカイハイはまるで動きを読むように、的確に、そして凄まじい速度で追ってきた。
「観念しろ、ルナティック!」
何処までも芝居めいた口調で迫るスカイハイの背後には、中継ヘリが控えている。
視界の端に興奮に顔を赤くしたカメラマンの姿が映った。
……とんだ茶番だ。なのに。
スカイハイの腕が迫る。
1インチの距離で辛うじて躱し、ルナティックは不意に、空へ向け手を挙げた。
「何を……っ」
両手からあらん限りの力で、炎を放つ。
飛行機の逆噴射のように。放出される熱量が想定外だったのだろう。鉄すら一瞬で溶かす程の温度にたじろいだのか、スカイハイは空中でたたらを踏んで後じさった。
……遊戯は終わりだ。
スカイハイの能力とその限界が、見えてきた。
おそらくその力は無尽蔵だ。このままでは危険かもしれない。
ただ、『ヒーローであること』その一点が、スカイハイに強固な手枷足枷を嵌めている。
マスクで隠された口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。
自分も笑えない笑劇の演者であることは自覚している。
しかし、この高揚感は何だろう。
……全力で対峙しなければ、捕えられ全てを暴かれるかもしれないというのに。
「その力を不可逆の犯罪者を粛清する為に使う方が、この猥雑な街の治安維持に繋がるとは思わないか?」
「何を言う!」
「司法が全ての罪を裁く事など出来はしないというのに」
「……!」
発する熱と、それに伴って起きる気流に乗って、ルナティックは一気に落ちていった。
炎に包まれる護送バスのもとへ。
「待てルナティック!」
追うスカイハイに炎の矢を放つ。上空で躊躇する気配が伝わってきた。
加速度をつけ落下してゆくルナティックとの距離が一気に広がる。
地上では他のヒーロー達が待ち構えていた。
「こンのグローブ野郎!」
ワイルドタイガーとバーナビーが能力を発動して向かってくる。
「……邪魔だ」
目的はただひとつ。
一旦鎮火したもののまだ焦げ臭いバスの傍らに、顔を煤だらけにしたロブがへたり込んでいた。
「哀れな罪人が救われるただ一つの術を、素直に受け容れるといい。……タナトスの声を聞け」
ボウガンを発射しようとするその前に、人影が立ち塞がる。
「させるかっ!」
バーナビーだった。言うや否や強烈な蹴りを繰り出してきた。
後ろへと飛び退って間合いを取るが、バーナビーは立て続けに攻撃を仕掛けてくる。100パワーで強化された脚力を寸での所で避ける。……しかし、所詮は5分間の話でしかない。ルナティックは慎重に間合いを取り、致命的なダメージを食らわない事に腐心する。
「ウロボロスについて知っている事を全部言え!」
激しい怒声は、憎悪に満ちた昏いものを含んでいた。私怨を孕むそれはもしかしたら、自分に近いのかもしれない、とふと思った。
「そんな義理は私にはない」
バーナビーの背後で、ワイルドタイガーが腰の抜けたロブを抱え上げ、側にいたロックバイソンに放り投げた。
「馬鹿っ、バニー、熱くなり過ぎんな!」
「……これは僕の問題です!」
「わかってるって! ……はぁあああああああ!」
どこか不均衡な会話を交わしながらも、二人の間合いが一気にルナティックに向けて詰められる」
『GOOD LUCK MODE』
ワイルドタイガーの腕が、バーナビーの足が、同時にルナティックを襲った。
「……っ」
遠くで。
誰かの声が聞こえる。
『お前こそがヒーローに捕らえられるべき罪人なのに』
いつもそれはユーリの背後で、ユーリをじっと監視しているのだ。
心に隙ができた時に、弱気になった時に、ユーリに囁きかけてくるそれは。
自らが殺した父親の声。
ルナティックの全身が蒼い炎で包まれ、それで出来た高温の壁が二人の攻撃の勢いを殺した。
しかし。咄嗟に勢いを削いだものの、ルナティックも体力をかなり消耗している。3人のヒーローを次々と相手にしたのだ。これ以上能力を発動し続けるのは危険だ。
なれば。
「……それを生かしたままにしておく事の本当の意味を、お前達はいずれ知るだろう」
再び空へ。
ルナティックはタイガー&バーナビーの攻撃を空中から見守っていたスカイハイの横を挑発するように通り過ぎる。
追おうとするタイガー&バーナビーに、手を伸ばすスカイハイに、全力で炎を放ちながら。
「ルナティック……! こんな事が、いつまでも続けられると思っているのか?!」
どこか悲しげな響きすら感じられる声が、ルナティックの背中に投げかけられる。
「それは私の台詞だスカイハイ。……お前達ヒーローの行為は、偽善でしかないだろう?」
何かを言うその声はもう、ルナティックの耳には入らない。
そして視界の端に小さく、白い顔をして震えるロブの姿が映った。
何の事はない、臆病そうな、どこかネズミに似た小男。
邪魔さえ入らなければ、粛清は簡単だっただろうに。
……次は、逃がさない。
完遂出来ない事への忌々しさを抱えたまま、ルナティックは全力で、赤い光を湛えた満月へ向かって飛んだ。
*
その日は朝から薄曇りで、丁度日食観測日和のようだ。
早朝から金環日食を中継する特番が、テレビのどのチャンネルでも流されていた。
徐々に欠けゆく太陽。
テレビを消し外へ出ると、ビルに設置された大型モニタが、中継ヘリからスカイハイの姿を映している。
空を舞うスカイハイはマスクの上から日食眼鏡を装着したどこか滑稽な姿で、太陽の方角を見上げていた。
「……くだらない」
その時だった。
太陽が金のリングを空に描く。
『美しい金環日食をじっくり御覧ください!』
辺りがしんと静まり返る。
周囲の道行く人々も、思わず立ち止まってモニタを眺めたり、準備していた日食眼鏡越しに太陽を眺めたりしている。
モニタに投影される金環。
不意にカットインしたスカイハイが、その太陽に向けて右手を伸ばした。
……まるで、何かを切実に求めるように。
ユーリはモニタから目を逸らし、時が止まったように動きを止める人々の間を縫うようにして、司法局へと向かう。
今日もまた、変わらない日常が始まるのだ。
何故か深い溜息が、口から零れ出た。
*
「裁判官! ペトロフ裁判官!」
昼休みのゆったりとした空気を破るように、キース・グッドマンの張りのある声がした。
「……はい?」
走り寄ってきたキースは、ユーリに何か紙を押し付ける。
「どうしました?」
「これ、今朝の金環日食です!」
渡されたものは、金環日食の写真だった。
「空から撮ったので、良かったら」
「……ありがとうございます」
人懐こい犬のような笑顔を浮かべるキースの眩しそうな瞳に煩わしいものを感じながら、ユーリは追従するような薄い笑みを浮かべた。
「貴方はどこか満たされない表情をしているから、これで少しでも、心が満ちると良いんだけど」
その台詞に愛想笑いが凍りつく。
何とか表情を笑みの形に保とうとするが、どこか不自然なのは否めないだろう。
「……貴方のこの写真で、満足ですよ」
「そう、かな」
そう言って、どこか不満気に首を傾げた廊下の向こうからキースを呼ぶ声がした。「おいスカイハイ、早くこっち来いって!」
おそらく鏑木虎徹だろう。
「ああ、すぐ向かうよ、そしてすぐに出動する!」
では、と言いながら慌てて去ってゆくキースの背中を、ユーリは思い切り睨みつけた。
「……これだから、ヒーローは」
くしゃり、と手の中の写真を握りつぶす。皺くちゃになった紙から、美しい金環がちらりと見えた。
*
無慈悲な程に粛々と時は流れる。
アポロンメディアを巡る様々な事件の後、ワイルドタイガーとバーナビーは引退し、スカイハイは再びキングオブヒーローの地位を手に入れようとしている。
間もなく夏に向かう日差しが、強くユーリを照らしていた。
眩しさに目を眇めながら司法局へ向かう途中
Tシャツにジーンズ姿の男が、ビルの壁に凭れてぐったりしている。
その傍らには美しい金色の毛を持ったゴールデンレトリバーが座っていて、ユーリが近づいた途端、小さな声でわん、と吠えた。
この犬には見覚えがある。
……確か、スカイハイが。
犬はくぅん、と鼻を鳴らしながら飼い主の頬を舐め始めた。
「……っ」
最初は反応をしていなかったが、根気よく舐めているうちに気がついたらしい。
彼は呻きながら、ゆっくりと顔を上げた。全身埃まみれだ。
「……大丈夫ですか、意識はありますか」
ユーリは彼の前に跪いて軽く肩を叩いた。
ゆっくりと彼の蒼い瞳が、ユーリに焦点を合わせる。
「……ここ、は」
側頭部をさすりながら、彼は周囲をゆっくりと見渡した。時折痛そうに顔をしかめる。
「司法局の近くです。……追い剥ぎにでも遭いましたか、キースさん」
その名を口にした途端、怪訝な表情を浮かべる。
「どうしました」
「キース? ……誰の事だい? 私はスカイハイだ、ヒーローの」
何処かおかしい。何故こんな事を言うのか。
「ええ、スカイハイで、キース・グッドマンでしょう、貴方は」
「確かに私はスカイハイだ。……だが、キース・グッドマンなどという名前は知らないのだが」
「何を……」
質の悪い冗談にしては、彼の瞳は何処か不安そうな光を湛えていた。
「キース・グッドマンとは、誰のことだい?」
焦りを含んだ声で問われ、ユーリは腕を掴まれる。
「……どういう、ことですか」
彼の指が二の腕に食い込んで、きりりと傷んだ。
「Fallin' Angel」へ続く
2012.6.11UP。えーと誰得だっていうか俺得なだけの話なんですが、
ただひたすらユーリとキースが出てきます。
しかもくっつく訳でもなく、ひたすらこれくらいの距離感の話で、しかも続くんですよこれ…。
夏コミの原稿との兼ね合いがあるのでボチボチUPしていく形になると思いますが、よろしくお願い致します。