司法官アンダーグラウンド

静けさを湛えた女神の瞳が、シュテルンビルトを見下ろしている。
 キングオブヒーローの発表を1ヶ月後に控えた、じわりと汗が滲むような蒸し暑い曇天のその日、ユーリ・ペトロフは正式に異動の通知を受けた。
「……拝領致します」
 なるべく冷静に答えようとはしたが。……緊張と歓喜で、僅かに声が震えたのに気付かれなかっただろうか。
 ユーリは書類を受け取り、上司に簡単な挨拶を述べ、オフィスを足早に出て行った。
「ヒーロー……管理官」
 口元に閃きそうになる笑みを噛み殺すようにして、自分の執務室へ向かう。異動の準備をしなければ……といっても、場所的に大きな変化はない。ジャスティスタワー内を動くだけだ。
 けれども。

 最初にヒーロー管理官志望であると上司に告げた時は、驚かれもしたし止められもした。
『君にはもっと他に、すべき仕事があるのではないのか』
 暗に、関わる必要はない事を匂わされた。ヒーロー管理官は司法局の中でも特殊な業務に属する。裁判官でありながあ検察官的な役割も持つそれは、果たして司法局が担うべきものであるのかという議論がずっと燻っていた。
しかも、ユーリは将来を嘱望されている若手の一人だ。本来ならば正道の裁判官としての業務を行なっていれば良いのに、これでは出世に響くのではないのか。
 他の先輩裁判官にも面と向かってそう言われた。
 しかし、ユーリは頑として譲らなかった。
……ある一つの目的のために。
「私としては、ここで拒絶をして欲しかったのだがな」
溜息混じりの上司に、きっぱりとした声でユーリは告げた。
「シュテルンビルトの治安は悪化しています。その要因の一つにNEXTの関わる犯罪がある。……私はヒーロー管理官の職務を通して、NEXTに関する裁判実務を経験しておかねばならないと思っておりますので」
 上司は眉を顰める。そして、彼は最後まで、この移動に反対したのだ、と告白した。

 ――余計な事を、する。

「……ペトロフ裁判官。何度も言ったが、君は将来的に高等裁判所、いや、それより上の場所での審判を望まれる事になるだろう。正直なところ、君の能力にはヒーロー管理官という仕事に関わるべきではないと思う。本来ならパラリーガルが行うような雑務も多い。今回は君の希望が通る形になったが、他にすべき事、学ぶべき事は沢山あるから、それを忘れないように」
 惜しむ声音に偽りは感じられない。だからこそ、ユーリは周到に、嘘をつく。目線を落として、僅かに苦悩の表情を浮かべて。
「……私は一介の若輩者に過ぎません。ヒーロー管理官の職務を理解する事も、シュテルンビルトの司法システムの理解の為に必要だと思いましたので……ですが、そのお言葉、胆に銘じます。お世話になりました」
 古めかしいドアを閉める時、背後から再び、盛大な溜息が聞こえた。悪意を全く感じられないだけに、ユーリの心の中にほんの少しだけ生き残っていた良心がちくりと痛んだような気もしたが、それはすぐにざわめきに掻き消される。
『誘拐事件発生、犯人はNEXTと思われ、……』
 昼休みに入った司法局の廊下で、モニタを立ち上げてヒーローTVを見ている者がいた。
 騒々しいアナウンサーの実況。そして頬を紅潮させて、それに見入る人々。

 ――くだらぬ、茶番だ。

 人にはない様々な能力を持つ、NEXTの存在が明らかになって45年。
 ユーリ・ペトロフもその一人だった。しかし彼の過去の記録は周到に隠され、なかったものとされ。
一般人として育ち、将来を嘱望された若手裁判官としての地位を手に入れた。それは巧妙な隠蔽工作。誰も彼の過去を、そして彼の父親が誰であるかを知らない。データを辿ってもおそらく、ユーリとその男との関係は拾い上げる事が出来ないだろう。
不名誉な出来レースを闇に葬るための工作の一つとしてなされたそれが、ユーリを今の地位に押し上げた。 そして、記録される事も裁かれる事もなかった、一つの犯罪がある。

始業のチャイムが鳴った。最初は古めかしく感じたものだが、司法の威厳というのはそんなものなのかもしれない、とユーリは思うようになった。黴臭いルーティンであるからこそ、時には人心を落ち着かせる効果があるのだろう。
ヒーローTVの存在も、今のシュテルンビルト市民にとってはそんなものなのかもしれない。 街の正義を守るヒーロー。他の都市ならば子供向け番組の一つでしかないそれが、シュテルンビルトには実在している。
NEXTが絡む事件があればそれを逮捕し、大きな事故があれば、その能力を使って被災者を救助する、市民の憧れの存在。

――誰も、その奥に潜む歪(ひず)みを知る事なく。

ユーリと同じ世代の人間は、生まれた時からヒーローTVを見て育っている。
シュテルンビルトを守るヒーロー!
その裏にある闇と陰謀に彩られた歴史を知る者は、実際には少ない。知りたい者もそうはいないだろう。夢が、憧れが、打ち砕かれる瞬間など、誰も見たくはないのだから。
古めかしい鐘が鳴らなくなる事を望んではいないように。
かつての、自分がそうであったように。

上司は書類と一緒に、ヒーローについてのデータにアクセスできるサーバーのパスワードを渡してくれた。
紙に書かれたそれも、どこかアナログな処理だ。
小さな自分の執務室で、早速PCを立ち上げる。
45年分のヒーローの歴史。映像。データ。保存し得る全てが蔵置されたサーバーにアクセス出来るのは一部の人間のみ。
――自分が探していたものの答えが、この中にあるかもしれない。
パスワードを入力してアクセスする。マウスをクリックしながら、年度別に、さらに月別、日別に分かれたフォルダの深い階層まで暴いてゆく。
文書、逮捕許可を出した日時。ヒーローTVの映像。膨大なデータの一つ一つを確認するのはかなりの手間だが、知りたい情報をこの中から巧く拾い上げなければならない。
……まだこれからだ。時間はある。少しずつ、探っていかなければ。
ユーリは開いていたフォルダを閉じた。不意に、来季の為の資料フォルダに目が行く。
ヒーロー事業はとかく金がかかる。脱落する企業も少なくはない。その流れで、ヒーロー事業を7大企業で独占統括するという話になっていたが、さて。
企業別のヒーローデータ。能力、成育歴、性格傾向など、おそらく本人も知らないであろう詳細なデータが司法局では管理されている。それは、それぞれのヒーローの特性を把握しておく為でもあるし――ヒーローが不祥事を起こした時に、すぐに対応出来るだけの情報を押さえておく為でもある。
アポロンメディア、ヘリオスエナジー、ポセイドンライン……シュテルンビルトの社会、経済における中枢を担う企業の支援を得て、その秩序を守るとされながらも、逮捕権すら持たない存在、ヒーロー。
知らず、ユーリの口の端に冷たい笑みが浮かんだ。
そして、ヒーローがヒーローたる所以であるヒーローTVを中継する、OBCの番組企画資料が別フォルダに収納されていた。
「新ヒーロー、デビュー!」
 企画書の表紙の次に、大きく掲示された見出し。そこには二十代前半と思しき眼鏡をかけた青年の写真と、ヒーロースーツのプロトタイプ資料が添付されている。
 バーナビー・ブルックス・Jr.。能力はハンドレットパワー。くしくも古参のヒーロー、ワイルドタイガーと同じ能力を持つ彼は、トップマグから移籍する事になっているタイガーとコンビを組んで活動する事になるのだという。
『ヒーロー初のコンビ結成!』
 思わず失笑してしまうような、大仰な煽り文句と共に、バーナビーの略歴が掲載されていた。
「……成程」
 ヒーローアカデミーを主席で卒業した俊英。能力は勿論、カリスマ的な人気を誇る、ヒーローとして相応しい人格を兼ね備えた人物として、絶賛の言葉が並んでいる。
 ユーリはその資料とは別の、もう一つのファイルを開いた。司法局で独自に調査、収集した、各ヒーローの人格調査とでもいうべきものだ。
「……これは、面白い」
 バーナビーがヒーローになった目的。……おそらく、心に隠し持っているであろう、昏い感情。
「その正義は、那辺にある?」
 雑務などとんでもない。ヒーロー管理官の職務は、ユーリにとっては最高の、そして心から欲していたものなのだ。

 ――その正義を遂行する為に。

 資料をざっと読み、ユーリは一旦PCの電源を落とした。
少しずつ荷物を移す為に、今は前任者が不在の筈のヒーロー管理官用執務室へと足を運ぶ。
そして、分厚い判例集をの入ったバッグを隅に置いて部屋を出た時。
 向こうから猛スピードで走ってくる人影があった。避けようとしたが、余りのスピードに間合いを外し、肩が触れてしまう。その反動でユーリは軽くよろけた。
「……っと、すんませんっ!」
ハンチング帽に白いベスト、濃いグリーンのシャツを着た30代半ばと思しき男が、慌てた様子でユーリの腕を掴む。かなりの力だ。
人の好さそうな目が、申し訳なさそうに眇められる。
「大丈夫っすか?」
「ええ、特に痛みもありませんし」
「ホンット、すみません。ちょっと急いでたんで」
 ぺこりと頭を下げて、男は足早に、執務室へと飛び込んでいった。
「……っだ! 早く書類出してもらわなきゃいけねぇのによ!」
 室内から、せっぱつまった声が聞こえる。
 現行犯逮捕でもない限り、ヒーローに犯人を逮捕する権限は与えられていない。ヒーロー管理官の許可が必要になるのだが、管理官の仕事は多岐に渡るため会議も多く、常に在室している訳でもない。

 ――ヒーローの一人か。

 ユーリはその男を追うように、執務室へ入った。
 ほんの、気紛れだった。
「どうしました?」
 背後から声をかけると、男は慌てて振り返った。
「あっ、今、裁判官さんがどこにいるか、知ってますか?!」
「……多分、会議で夕方まで帰って来ないと思いますよ」
「夕方って……! くそっ、間に合わねぇよ!」
 黒い革の腕時計をちらりと見ながら、男はもう一方の手で、被っていたハンチングを脱ぎ、握り潰した。
「今は丁度パラリーガルもいないようですね。……私も司法局の者です。出来る事があれば、お手伝いしますが?」
「ホントっスか?! 実はちょっと前に、ブロンズステージで起きた連続窃盗事件の犯人を発見して踏み込むかって話になってるんだけど、警察の奴らが、俺が動くのに書類が足りないから許可が出来ないっつって。ったく、んな事言ってる場合じゃねぇってのに!」
 司法局の許可がなければ、ヒーローに出来る事は一般人とそう変わりない。それは見えない足枷をつけられているようなものだ。その力を、悪用しない為の見えない拘束具。……憐れな存在。
「……貴方は、ヒーローですか?」
「そうっす!」
 力強く頷く男の顔はしかし、焦りの色が濃い。
 不意に、男が右腕につけていたPDAからコール音が鳴り始める。
『何やってるの、早くして!』
「んな事言っても!」
 コールをしてきた女性と大声で喧嘩腰の通話を始めた。しかし、このままやり取りを続けさせても不毛だ。ユーリは苦笑しながら、「こちらへ」と男を案内した。
 ヒーロー管理官の執務室から少し離れた所にある広い事務室。何人か控えのパラリーガルが常駐している。
「管理官が不在なので、至急書類を作成して欲しいと」
 地味な色のスーツを着た女性に事情を告げる。女性はユーリの顔を見て何か言いたげだったが、「正式な就任までまだ間があるので」と伝えると、黙って頷き、現職の管理官に連絡を取り始めた。
 男は部屋の隅のソファに座り、PDAに向かって話をしていたが、ユーリが近づくと慌てて立ち上がる。 「多分、あと5分程で書類が出来上がると思います」
 書類には管理官のサインが必要だ。テンプレートはあるから、今から会議室に行って戻ればそれくらいの時間だろう。
「……ありがとうございます!」
 男は力強くそう言って、深く一礼をした。
……日本人なのだろうか。シュテルンビルトで人種を気にするのは野暮なのかもしれないが、ユーリにはその礼が、何故か酷く違和感を持った仕草に見えた。理由はわからない。ただ、その男の存在の異質感を際立たせるような。
『ちょっと、まだなの?!』
「ああ、今行くから待ってくれよ!」
 男が会話をする様子に背を向け、ユーリが事務室を後にしようとすると、背後から男の声が追ってきた。
「この礼は、必ずしますんで!」
 男のPDAからは様々な指示が飛んでいる。そろそろヒーローTVの中継も始まるのだろう。
「お構いなく。では、私はこれで」
 呆れる程無能だ、と思う。事務処理も碌に出来ないヒーローを管理しなければならないのかと考えると悩ましい。

 ヒーローになるような人間は何処か、欠陥を抱えている場合が多いのだろうか。……今はもう生きてはいない、あの男のように。
 だが、もうすぐだ。次のシーズンが始まれば、自分がヒーロー達を管理する立場になる。
 そして、秘密裏に、たった一人で、周到に準備を続けてきたあの計画を、ついに実行に移すのだ。
 裁判官ユーリ・ペトロフとしてでもない。警察も、ヒーローも成し得ない、ただ一つの正義を遂行する為に。
 おそらく平坦な道ではあり得ないだろう。ただ、この微温湯に浸かったような街に一矢を報いる事が……蒼炎の矢を放つ事が出来れば、それだけでも意味があるのだから。
 知らず、ユーリは溜息をつく。
 引き継ぎが始まる。忙しい日々が続くことだろう。その日常を掻い潜って、更に綿密に、計画を練らなければならないのだ。誰にも邪魔をされないように。

 ……血に塗れたこの手で、曖昧な輪郭をした正義を、確固たるものとして掴みとる為に。

2012.10.8up。10月7日開催コミックシティSPARK内のルナティックプチオンリーにて委託させて頂いた無配です。映画準拠の内容。…実はここから発展してちょっと長めのものを書く予定だったりします。テヘペロ★