季節外れの嵐が来る。
酷い雨の音が、時折外から聞こえてきた。
テレビでアナウンサーが詳細を説明する様子を、ユーリは視界の端でちらりと見た。
今日は父親にはヒーローとしての招集はかかっておらず、ユーリと並んでソファに座っている。
シュテルンビルトの平和を守る最強のヒーロー、Mr.レジェンド。
ユーリの自慢の父親だった。
ちらりと父親の顔を見ると、力強い笑みをユーリに見せてくれる。
不意に、来客を告げるベルがリビングに鳴り響いた。
「あら、こんな夜に……どなたかしら?」
並んでテレビを見る父子を優しく見つめていた母親が、慌ててインターフォンに向かう。
幾つかの受け答えの後、母親……オリガ・ペトロフは少し困った様子で父親の方をちらりと伺う。
「どうしたんだ?」
「あなた、マーベリックさんが、急ぎの用事があるということでいらっしゃっているのだけれど……」
母親の声に何処か戸惑いの色が感じられるのは、気のせいだろうか。
「そうか。……こんな嵐の日に。余程急ぎの用事なのだろう。早く上がって頂きなさい」
返す父親には、その「マーベリック」という人物への確かな信頼感がにじみ出ていた。
母親はタオルを一枚準備して、来客を出迎えに急ぐ。
やがて、一人の痩せた男を連れて戻ってきた。
帽子もスーツもびしょびしょに濡れている。母親から渡されたタオルで滴る雨水を拭き拭き、済まなさそうに身を縮めたその男の口元には笑みのようなものが浮かんでいたが、瞳は鋭く、人を射抜くような巌しい光を放っていた。
ユーリの背筋が、ぞくりと粟立つ。
……誰。
傍らにいるユーリの身体が強張るのがわかったのだろう。父親はユーリの肩に手を置いて、優しく微笑みかける。
「ああ、ヒーローTVを放送している、OBCの社長さんだ。大変お世話になっているんだよ」
父親がその男にユーリを紹介すると、男は「そうか、よろしくね」と柔らかな口調でユーリに話しかけ、握手の為に手を差し出してきた。
嫌だ。……どうして。
ユーリは思わず父親の背に隠れる。服にしがみついてその男の様子を伺うと、男は苦笑して手を引いた。
「この子は引っ込み思案でね。申し訳ない。……しかし、この嵐の中大変だったでしょう」
父親は立ち上がり、応接室へと男を案内する。
「いや、車で来ていますからそれほどでも。本当ならば事前に連絡を取るべきだったのですが、丁度前を通りかかったもので。……急いだ方が良いと思いましたから、Mr.レジェンド」
ドアが閉まる前に、一瞬だけその男と目が合った。額の疣が印象的なその男は、冷ややかな視線をユーリに向ける。
パパ、その人は。
よく暖められた部屋の中にいるはずなのに、ユーリは寒くて震えが止まらない。
絵本で読んだ怖い話を思い出す。破壊の神が、沢山の罪を犯した人間を滅ぼそうとする話。
何も知らずに読んだ後、恐ろしさで眠れなくなって、その晩はたまらず母親のベッドへ潜り込んだ。
「どうしたの、大丈夫よユーリ」
「ママ……」
一人でいると、破壊の神の使者が現れて死の宣告をするのではないか。
お前にはもう未来はないのだ、と。犯した罪を受け入れ、与えられる神の裁きを待て、と。
嵐の晩に訪れたその男は、まるで破壊の神の使者のような昏い瞳をしていた。
……一体男は、父親に何を伝えに来たのだろう。
もたらされたのは、きっと良い知らせではない。そう感じるのは理屈ではなかった。
パパ。
どうかパパに、何も起こりませんように。
……お願いだから、神様。
*
新年を迎えた人々の喧騒もようやく落ち着き、シュテルンビルトはいつもの落ち着きを取り戻しつつあった。
女神の顔を補修中のジャスティスタワーに程近い総合病院に、ユーリ・ペトロフは向かっている。
アルバート・マーベリックを巡る一連の騒動後、引退を決めた鏑木虎徹はその時の怪我が元で長期の入院を余儀なくされていた。
マーベリックに消されたデータは復元出来たものの、まだ事後処理や引退に向けての手続きは山のように残っている。ユーリ・ペトロフは、今日は引退に関わる書類にサインを貰う為に、病院へと出向いたのだった。
ゴールドステージの一等地にある病院は広い敷地を有している。
昨晩降った雪が、枯れ切れずに所々緑を残すシロツメクサの葉をまだらに白く染めている。ユーリはそれを踏みしめつつ建物に入った。
消毒薬の匂いのする、病院独特の空気。ユーリはこの空気が……はっきり言えばこの病院自体が好きではなかったが、仕事である以上そうも言っていられない。
受付に声をかけてから、上層にある個室へと向かった。マスコミ等の余計な詮索を避ける為に、虎徹は殆ど軟禁状態にされているのだ。
「鏑木さん、いらっしゃいますか?」
「はい?」
ドアの向こうからはいつもと変わらぬ調子の声が返ってきた。
「失礼します」
開けた途端、ドアの前に立っていた少女とぶつかりそうになる。
鏑木虎徹の娘、楓と、以前資料で写真を見た事のある年配の女性がそこにいた。おそらく虎徹の母親……楓の祖母だろう。
「あ、ペトロフさん……!」
楓とは以前、一度だけ顔を合わせた事があった。その時、虎徹は楓にヒーローである事を隠していた。
しかしマーベリックの一件でそれは明らかになり、楓は最近発動したばかりの能力を使い、ヒーロー達の窮地を救ったのだ。
ただ、類まれなる能力を持った娘をヒーローアカデミーに入学させることについては、虎徹が固辞をしたのだという。
まだ幼い娘にこれ以上過酷な経験をさせたくない、ずっと離れて暮らしていたから、傍にいて自分が能力をコントロール出来るように教えたい、という虎徹の強い主張があったとユーリは聞いていた。
その報告が上がってきた時、ユーリは人知れず目を閉じ、深い溜息をついたのだ。
「ペトロフさん、ヒーロー管理官で、裁判官さんだったんですね! お父さん、何も教えてくれなかったから! これまで、お父さんがお世話になりました!」
楓は勢いよく頭を下げる。
「じゃ、お父さん、引越しの時にまた来るからね! 早く、怪我、なおしてね!」
「ああ、ちょっと待ってろよ、楓。すぐ退院するからな」
少女と祖母は明るく話しながら、ユーリの傍らを通り過ぎていった。病室には静寂と、子供が持つ朗らかな空気の名残がある。
虎徹の顔には父親らしい、優しい笑みがあった。
ベッドの上では、包帯だらけの鏑木虎徹が上半身を起こして座っていた。
マーベリックの策略により他のヒーロー達は虎徹の記憶を消され、虎徹は殺人の容疑者として追われる事になった。
その後「偽ワイルドタイガー」との戦闘で深い傷を負った虎徹のダメージは重く、退院出来るのは1月末だろうと報告を受けている。
「あぁ、管理官でしたか。てっきり先生がまた叱りに来たのか……あ、いや。お久しぶりです」
人懐こい笑顔を浮かべて、虎徹はベッドの傍にある椅子を掌で指し示す。
虎徹はじっとユーリの顔を見つめて、首を傾げる。
「……あ、今日は髪の毛結んでないんスね。何か雰囲気が違うと思ったら」
偽ワイルドタイガーと闘った時の傷はユーリにとっても重いものだった。
未だに肩が痛んで腕が良く上がらないために、最近は髪を結わずにそのまま流している事が殆どだ。
「寒くなってきたので、この方が暖かいのですよ」
冗談に紛らせて笑顔を見せ、椅子に座ったユーリは分厚い鞄から書類の束を取り出す。
「早速で申し訳ないのですが、引退に関する書面にサインを頂きたいので、宜しいでしょうか? 急ぎのものもいくつかありますので」
虎徹は1センチ程はある書類の束を見て顔を顰めた。
「法的手続きもありますので、退院したら暫く司法局に通って頂く事になると思います。なるべく負担の少ないようにしますが、ご了承下さい」
書類には鏑木虎徹をヒーローたらしめていた、様々な権利を放棄させる内容が記載されていた。
特殊な捜査権の放棄。逮捕権の放棄。そしてこれまでヒーローとして得てきた情報の秘密漏洩禁止について。ヒーローとしての虎徹を守り、縛っていた法律の枷が、残る痛みの為かぎこちなく書かれる虎徹の署名一つ一つによって、外されてゆく。
「こういうのって、電子署名じゃダメなんすかね。……面倒くせぇなぁ」
溜息混じりに虎徹が愚痴るので、ユーリは思わず苦笑を浮かべた。正義の壊し屋として名を馳せた、ある意味大雑把とも言える虎徹らしい物言いだ。
「署名の慣習だけは、どれだけ時代が変わっても廃れてしまわないようですね。私としても心苦しいのですが」
「はー……。バニーももう、全部署名したんすか?」
虎徹のバディであるバーナビー・ブルックス・Jr.は年明けすぐに退院して、身動きの取れない虎徹の分をフォローするように、引退セレモニーの準備とマーベリック事件の後処理に取り掛かっていた。
マーベリックとの関わりの深かったバーナビーは様々な事で疑われ、司法局でかなり厳しい聴取も行われたのだが、最終的にはマーベリックの被害者の一人という結論に達して捜査は終結した。その中でバーナビーの両親殺害事件の真相と、それに虎徹が関わり続けてきた事をユーリは知ったのだが。
「ええ、彼は一足先に終わらせていますよ」
「そっすか……最近電話しても出ない事が多いんで。俺が身動き取れないから、あいつに無理させちまって。ショックは大きい筈なんすけど、ね……」
虎徹はバーナビーの心配をするが、本来ならば虎徹の怪我は人の心配をするどころのものではなかった。
下手をすれば3月までは入院かもしれないと言われつつ、驚異的な回復力で1月末の退院になりそうだと、最近になってようやく決まったのだ。合わせて、引退セレモニーも2月の上旬に決まっていた。
「……あいつ、忙しくしてないと考え込んでしまうからって、言ってたから。早く、退院してぇなぁ……」
清潔な匂いのする病室に静寂が落ちる。ベッドサイドのテーブルにシロツメクサの冠が置いてあった。
ユーリがじっと見つめると、虎徹はその視線に気がついて、まるで宝物を自慢する子供のような声で説明をする。
「ああ、それ、楓が持ってきてくれたんスよ。『お父さんが早く治るように』って。ええと、なんだっけ、何とかフラワーって、枯れない加工してるやつがあるでしょ。小さな頃、妻とよく作ってたのを覚えてるんでしょうね。楓が幸運に恵まれますように、って、公園に行く度に作ってたから」
甘い、優しい思い出を反芻する表情が虎徹に浮かんだ。
ユーリの心が、小さな棘が刺さるようにチクリと痛む。
シロツメクサ。
四つ葉のクローバーは幸運をもたらす。
喪われたけれども幸せな日々は確かに虎徹に与えられ、その思い出と妻の遺志を継ぐ娘は虎徹に存在理由を、そして確かに人を愛する心を、虎徹とその周囲の人々に残しているのがわかった。
この男は、もう揺らがないだろう。
だからこそ、能力減退を契機にしてヒーローを引退し、能力に目覚めた娘の傍にいることを選んだ。
ただ一人の人間として、自分を必要としている誰かに向かい合う。
ヒーローという虚像に縋るのではなく。
「そういえば俺、、管理官に伺いたいことがあったんスけど」
虎徹の言葉でユーリは我に返った。
「……なんでルナティックが、マーベリックを殺しちまったんだろう」
その口から出たのは、意外な問いだった。
「あの野郎、ヒーローTVの最初の頃から色々やってたみたいだし、バニーに対して最低……いや、そんな言葉じゃ済まないような事をやってた。サマンサおばさんについてもあいつの指示だったようだし、バニーの両親にしても、あいつが直接やったって聞いた。途中からアニエスが中継入れてたけど……ルナティックが殺した時点じゃ、まだ曖昧な部分があるんスよね。マーベリックの野郎も言ってたけど、何があいつの罪かは、まだはっきりしてなかったんだ」
虎徹は一旦言葉を切って目を閉じた。考えをまとめているのだろう。
ユーリは黙って次の言葉を待つ。虎徹は再びユーリの目を見据えて、続けた。
「しかも、あいつが自分で自分の記憶を封じた所もきっちり中継してた。楓が能力コピーして解除出来ないか試してみたけど、それも無理だったんスよ。あいつはもう廃人状態だった。それを殺した所で何の意味があるんだろ、って思って。管理官、ルナティックがマーベリックを襲撃した時の詳しい状況って上がってきてます? 俺はもう引退しますけど……ルナティックに関わった者の一人として、聞いときたい」
ユーリは自分の背中に冷たい汗が伝う感触を意識した。
何故、この男は。
単なる大雑把で適当な人間であるようでいて、要らぬ所で鋭いのだろう。
息が苦しくなるのを必死で抑えながら、ユーリは無言で虎徹の言葉を聞いていた。
虎徹はそんなユーリには気づかないまま、続けて問う。
「これまでルナティックはあからさまに凶悪犯を狙って襲撃してた。でも、マーベリックに関しては、これまでとは意味が違うような気がして。……うまくは言えないんスけど」
ユーリは知らず、自分の掌を握りしめていた。汗が滲み、爪が食い込む。
今はもうとうに治っている筈の顔の火傷が、ヒリヒリと痛み始めた。
<続>
2011.10.3アップ。申し訳ないですが続きます…。
この辺ちょっと重い展開で申し訳ないのですが、一応虎月展開になる予定ですので。
近日中に続きをアップします!