火傷を負った顔が熱い。ユーリの顔は、未だ焼かれ続けているようだった。
そして、人の肉の焼ける匂いがまだ身体に染み付いているような気がする。
ユーリはそれを意識した刹那、猛烈な吐気に襲われた。
堪りかねてベッドから跳ね起きた。目を開けるが、左側の視界が白いもので遮られている。
そっと顔に触れてみると、どうやら包帯で覆われているようだった。
塞がれていない右目で部屋の様子を見回してみる。見慣れないベージュの壁。消毒液の匂い。
ここは病院なのだろうか。
ユーリの寝ていたベッドの隣にももう一つベッドがあるが、カーテンで顔が隠れていて誰が寝ているのかはわからない。
「気がついたかい?」
不意の呼びかけに、ユーリは吐気を堪えながら顔を上げた。
中年の男がベッドサイドに座っていることに、初めて気がつく。
笑みの形に歪められた口元と対照的に冷ややかな瞳。そして眉間の疣。ユーリが昔見た時より幾分肥っていたが、笑顔の裏に潜む違和感は変わらない。
アポロンメディアCEOであり、OBC社長、そしてヒーローTVの企画者の一人でもある、アルバート・マーベリック。
「大変だったね、ユーリ君。……君のお父さんが、まさかそんな」
心配しているように見せかけつつも、それは何処か芝居がかった台詞に聞こえた。その含みのある言葉にユーリは微かな苛立ちを覚える。
何が言いたいんですか、と問うユーリの声を遮って、マーベリックは続ける。
「……そうだ、ユーリ君。一つ、聞いて欲しいんだが。君のお父さんは、犯人を追跡中に不慮の事故で亡くなったんだ。爆発に巻き込まれて、殉死したのだよ。……そういう事にしないか? 君のお父さんの名誉は守られ、君のした事も、表沙汰にはならない」
ユーリは呆然とした。この男は……何を言っているのだろう。
口をついて出たのは、自分でも驚くほど激しい感情の奔流だった。
「僕は……父を焼き殺したんです! どれだけ嘘で覆い隠しても、その事実は変わらない!」
ただ声が震えた。息が上がる。震える自分の肩を、ユーリは掴んだ。
マーベリックが一瞬目を見開き、気の毒そうな表情をする。
それすらも厭わしかった。
早く消えてしまえ。能力が発動しそうになるのをユーリは必死で堪える。
ただ自分の感情だけで能力を使うのならば、それは父親と同じだ。
腹の底から沸き上がる、ユーリ自身を灼き尽くすようなこの感情が怒りなのか悲しみなのか、ユーリ自身にもわからない。
ただ、火傷の痛みと共に、焼け落ちてゆく父親の姿はユーリにとって厳然たる事実だった。
自分は確かに殺意を抱いて、父親を自らが発する炎で焼いたのだ。
その暴力を押し留める為に。母を、守るために。
父親からずっと教えられてきた事だ。その行為を、看過する事は出来なかった。
「あくをこらしめるつよいおとこになるんだ」
何度も繰り返された父親のその言葉は、重い枷となってユーリの両足に嵌っている。
誰か僕を、裁いて下さい。
僕に罰を与えて下さい。お願いだから。
「自分の罪を素直に受け容れる度量の広さは、父親譲りなのだね」
柔らかな口調の中に、強烈な皮肉を孕んだ言葉。
ユーリは一瞬我を忘れて飛びかかりそうになった。
火傷だけでなく、父親に殴り飛ばされた時の打撲傷が一斉に痛みを発して、ユーリは硬直した。
ただ自由になる腕だけが、マーベリックを捉えようとするが、それは叶わずに。
マーベリックは避けるように立ち上がり、隣のベッドへと向かう。そして、ベッドを覆い隠すカーテンに手をかけた。
「落ち着き給え、ユーリ君。君にはまだ、大切な役目が残っているのだよ。……君の母親を守るという、ね。見てごらん」
カーテンが引かれる。無残に顔を腫らした母親が、角度をつけたベッドにもたれ掛かっていた。
「ママ……」
ユーリは慌てて、ぎくしゃくとした動きでベッドを降り、母親の元へ駆け寄ろうとした。その瞬間。
「ひっ!!」
母親が目を剥いた。
「あなた、……助けて、あなた! 死神が来る、私は死神を産んでしまった! どこにいるの、あなた!」
あああああ、と奇妙な叫び声を上げながら涙を迸らせるその姿は、既にユーリの知る母親のものではなかった。
「いかん、医師を呼ぼう。……お母さんを守れるのは、君しかいないだろう、ユーリ君?」
悲鳴がユーリの耳を貫く。父親を呼び続ける声はまるで雌鳥のようにけたたましく、そして例えようもない悲哀に満ちていた。
「ぼく、は」
ユーリはただ、その場に凍りついて頭を垂れるしかない。
父親を殺さなければ、殺されていたのは母の方だった。
その結果もたらされたのは。
「君には、生き残ったお母さんを守る、義務があるだろう?」
まるで悪魔の囁きのように、その言葉はユーリの心を揺さぶる。
「その為に君に必要なのは、お母さんの傍に居続ける事だ。……君達の生活は保険金で補償される。そして、ユーリ君。君は罪に問われる事はない。君のした事は正しかったんだ。そうだろう?」
ユーリはただ項垂(うなだ)れるしかなかった。
自分の行為が正しい訳がない。
それを知っていてもなお、ユーリにはその道を選ぶ事しか出来なかった。
けれども、せめて自分の罪から目を逸らさない為に、一人の命が消え行く瞬間を、自らの皮膚を灼く炎の隙間からじっと見ていたのだ。
しかし、誰もその行為を裁いてくれないのならば。
……自分が永遠に、自分を裁き続けるしかない。
人の命は、命でしか贖えないのだ。だから。
ぽたり、と床に雫が一粒だけ、落ちた。
泣くことなど、涙を流す事など赦されない。僕は『殺した側』の人間なのだから。
少し前に読んだギリシア神話の本に出ていた神の名が、ふと思い浮かんだ。
死を司る神、タナトス。
昔は犯罪者に焼き鏝(ごて)を当てて、罪の印を身体に残していたという。
未だ自分の顔を灼き続ける父親の掌の痕は、殺人の大罪を犯した自分に相応しい。
ユーリは黙って、マーベリックの呼んだ医者が来るのを待っていた。
*
病室に差し込む柔らかな光は何処か春を思わせる。
「……ルナティックが現れた時の、状況ですか」
ユーリは虎徹に、書類としてユーリの手元に上がってきていたマーベリック殺害の顛末についての内容を、淡々と説明した。
自分の主観が入らないように、出来る限りそのままの事を伝える。
「ウロボロスに関しての詳細はわかりません。……そしてルナティックも逃亡し、所在は掴めないままです」
「……やっぱ、よくわかんねぇ。なんでルナティックは、マーベリックを殺したんだろう」
虎徹はそれきり黙って俯いた。自分の顎を撫でていたが、不意にユーリに視線を移して、言葉を続ける。
「あ、言ってなかったっスよね。俺、ルナティックに助けられたって。あいつ訳わかんねー事言ってたんだけど、『真の罪人を裁きの標に導く事こそ私の正義』とか何とかってのが妙に残ってて。……もしかして、あいつは最初からわかってたのかなって」
ユーリは黙って虎徹の次の言葉を待つ。
「もしかしたらただの気紛れかもしれねぇと思ったけど、あの言い方は違った……と思うんスよ。何で助けてくれたのか、実際には奴に聞いてみないとわかんねぇかな。あ、でも、俺とは絶対相容れないけど、ルナティックにはルナティックなりの『正義』ってもんがあって、それで動いてんだな、ってのはよくわかった。今回はその『正義』って奴が、重なったのかなって」
ユーリがルナティックとしての活動を始めた当初、虎徹の怒りは激しかった。
ユーリは何度か、本来ならば警察経由でしかなされないはずの逮捕要請を虎徹から直接受けたりもしたものだ。
その虎徹がルナティックに対して持つ印象が変化しつつある。
ユーリにとっては意外なものだった。
そして、ユーリはふと思い出す。
虎徹が犯人として追われている時、召集された会議の直前に見た夢。
状況は違うけれど、語った内容はこのような事ではなかったか。
夢の中のユーリは虎徹を誘い、虎徹はそれに乗って貪るような口づけをした。
……夢だ、ただの。
ユーリは胸に残る淡い残像をかき消すために強く息を吐いて、ふと目に入ったシロツメクサの冠に手を伸ばした。
触れるか触れないかくらいの位置に指を置いて、軽く撫でてみる。
生花とは違うかさついた感触が、生きながら魂の死んでいる母親を思い出させた。
「鏑木さん」
「はい?」
おそらく虎徹が知らないであろう事をわかっていて、ユーリは問う。
「シロツメクサの花言葉をご存知ですか?」
虎徹は目を丸くした。こんな話をする理由がわからない、と顔に書いてある。
「花言葉? なんか、裁判官殿から聞くと不思議な感じのする単語っスね。……クローバーでしょ。『幸福』じゃないんスか?」
思った通りの答えだった。そして虎徹は答えを聞いて、おそらくユーリが予想した通りに鼻白むだろう。
「普通なら、そう答えるでしょうね。……『復讐』だそうですよ」
ユーリは表情を消して、虎徹にそう教える。瞬間、虎徹の表情が強張るのがわかった。
「……復讐」
穏やかな笑みを浮かべながら、ユーリは虎徹の反応を目で追っていた。
そう、マーベリックに手を下したのは、タナトスの声に従ったからではない。
それは復讐だ。
たった一つだけユーリが自分に許した、正義の裁きではなく、自らの意思で行う殺人。
NEXTという存在をヒーローという道化にし、ウロボロスとのマッチポンプで見世物として弄んだ者への。
そして能力減退から酒に手を出し、やがて暴力へと発展していった父親を作った黒幕への。
*
「ママ。あんまり外に出ていると、風邪を引いてしまうよ」
オリガは今日も、ユーリの隣にあるベッドを抜け出し、庭でシロツメクサの冠を編んでいた。
病院のスタッフはオリガの奇行に手を焼いている。
頭を下げながらサポートをお願いするのが、ユーリの日課になっていた。
「ねえユーリ」
出来上がった冠を掲げてオリガが微笑む。奇妙に若々しいその笑顔は、母を取り巻く現実を一瞬忘れそうになる程穏やかだった。
「こちらへいらっしゃい、あなたにこの冠をあげるわ」
ユーリは黙ってオリガの傍らに跪く。そうしないと暴れ始めるから。
母親はユーリには窮屈なその冠を無理矢理被せる。
「ねえユーリ、シロツメクサの花言葉を知っている? 『復讐』というのよ。幸福の象徴なんて大嘘。あんたによぉく似合う花だわ!」
オリガは突然目を剥いて、花冠を引き千切った。
「ユーリ! この死神! ……お前はお父さんに対して復讐をしたのね! 育ててもらった恩も忘れて! どうせなら、私も一緒に殺してくれれば良かったのに!」
突き刺さるような声でユーリを怒鳴りつけ、千切ったシロツメクサをユーリの、包帯が巻かれた顔に投げつける。
白い花弁がばらばらと散った。涙を流し、唾を飛ばしながら呪いの言葉を吐き続ける母に、ユーリはただ黙って寄り添う事しか出来なかった。
叩かれても。突き飛ばされ、罵倒されても。
それはユーリが全て受け止めなければならないのだ。
ユーリが犯した罪とは、そういうものなのだから。
*
「そうか、復讐、か……」
虎徹は不意に息を吐く。そして、何かを思いついた、という顔をして、僅かに苦笑した。
何故。
ユーリは困惑するしかない。
おそらく虎徹が混乱するだろうと思って持ち出した話なのに、どうしてこの男はそれを受け入れているのだろう。
「ルナティックは、バニーが最初に果たそうとしていた復讐を、結果的には果たした事になる、のか」
虎徹は独り言のように呟いた。
それはユーリにとっては意外なものだった。
「俺は、人間の命は絶対だと思うんスよね。助けられなかった命があるから、次は何があっても助けたい。そうずっと思って来ました。例えそれが凶悪犯だろうと」
ユーリは真意を図りかねて、虎徹の表情を伺った。
虎徹は少しずつ考えを纏めているのか、時折黙り込みながら、言葉を継ぐ。
「だから、ルナティックの存在は絶対に許せない。……けど、もしマーベリックがあの状態で生きてたらと思うと」
「……思うと?」
虎徹の心中がわからない。ユーリは僅かに苛立ちを感じながら、虎徹に続きを促す。
「バニーはずっと、苦しみ続けたんじゃないかって思って。生きてはいたけどあの状態だったら、間違いなく相手は反省もしなけりゃ真実も吐かない。でも、マーベリックが死んじまったからこそ、あいつが苦しみから解放される事もあるんじゃないかって。俺、今回初めて思ったんスよ」
ユーリの苛立ちが更に募る。
理解など要らない。マーベリックに手を下したのは、ただの私的な復讐だ。それ以上でも以下でもない。
なのに、どうして。
「シュテルンビルトには死刑制度がないから、凶悪犯は終身刑っすけど……死刑のある国だったら、こんな風なのかなって。まぁ、その辺は管理官の方がよく知ってるでしょうけど」
黙れ。
それ以上、何も言わないでくれ。
考える前に、ユーリは立ち上がっていた。
もうこれ以上、勝手な解釈をされるのは沢山だ。だから。
ユーリはさらに話を続けようとする虎徹の唇を、自分のそれで塞いだ。
言葉を堰き止めるために。
虎徹の瞳が驚愕に見開かれるのを、ユーリの瞳が間近に捉えた。
<続>
2011.10.4アップ。く、暗いですが続きます…もう少し我慢して頂けると!
あと一応虎月ですので!w 10/6少し文章を修正しました。