心の裡に、これまで築き上げてきたものを形がなくなるまで破壊したい衝動が湧き上がる瞬間が、ユーリには度々あった。
それは父親の暴力を間近に見てきたからなのかもしれない、と思う。
今虎徹に対して行なっているそれは、恋情を含むものではない、とユーリは自分に言い聞かせる。
むしろユーリの心に苛立ちを募らせる虎徹の言葉を塞ぎ止めて、これまで蓄積されてきた仕事上の関係をも粉々にするためのものだった。
もう、虎徹との関わりは消えて失くなるのだ。
レジェンドの虚像にに憧れてヒーローになった、虎徹とは絶対に相容れない存在との、それは決別のつもりだった。
ユーリの唇に伝わる虎徹の唇の感触。少しかさついて荒れている。
体温の低いユーリの唇よりは温かいけれど、乾いたそれは決して虎徹の身体が本調子ではないことを思わせた。
虎徹は琥珀の瞳に、呆然とした色を浮かべてユーリを凝視している。
何故口づけられているかもわからないだろう。
しかしそれは当然だ。
虎徹はユーリがルナティックである事を知らない。レジェンドの息子であるという事実も。
勿論、闇に葬られてきた、レジェンドの死の真相など知る由もない。
ならば。
少しでも、虎徹を真実から遠い所へ、遠ざけてしまいたい。
誤解したままで、ユーリに対して二度と思い出したくなくなるような負の感情を抱かせたままで、終わらせてしまいたい。
唇をそっと離して、ユーリは大きく息を吐き出した。
虎徹が、ユーリを拒絶したくなるような言葉を告げる為に。
「……か、んりかん。今のは」
ようやく我に返った虎徹が、掠れた声でユーリに問うた。
言わなければ。その、答えを。
……自分がこれ以上、虎徹に対して抱き始めた感情を成長させない為に。
努めて冷静な口調で、押し殺した声で。一旦椅子に座って、ユーリは語り始める。
「失礼しました。もうこれ以上、あなたと必要のない話をしたくなかったので」
虎徹は訝しげな顔をする。
「必要、ない?」
「ええ。……本当ならばあなたが退院してからでも、この書類にサインを頂くのは遅くはないのです。それでもこちらに伺ったのは、最後に、私の思っていた事を伝えたかったからです」
咄嗟に出てくる言葉は自分でも驚く程滑らかで、職業として裁判官を続けてきた自分の話術に笑いたくなるのを、ユーリは堪える。
よくこんなに、すらすらと言えるものだ、と。
虎徹がルナティックの事をユーリに問わなければ、奇妙に理解する様子を見せなければ、こんな事を言わずに済んだのに。
「……私はあなたに恋愛感情を抱いていたのですよ、鏑木さん」
虎徹の瞳が大きく見開かれた。驚愕に染まった瞳で、ユーリは自分の思うように事が進むであろう事を確信する。
拒絶すればいい。
ヒーローでなくなれば、二度と会うこともなくなるだろうから。
「いつからかはわかりません。……自分はもしかして、男女どちらにも恋愛感情を抱ける人間かもしれないと気がついてはいましたが、まさかその相手があなただとは」
傍から見たら滑稽な光景だろう。それでいい。喜劇の道化のように、笑い飛ばされたくて言っているのだ。
自分の語る内容がどこまで真実でどこまで嘘かは、ユーリにはもうわからない。……わかりたくなかった。
「それを伝えたかったのです。私の中でけじめを付けるために。あなたには守るべき家族がある。そして私はヒーロー管理官として、ヒーローを辞めるあなたに対して必要以上に関わる訳にはいかない。あなたと顔を合わせる機会はもう、殆どなくなるでしょう。引退したら皆無になります。その前に、言っておきたかった。……どうか、あなたは娘さんの、良き父親であり続けて下さい」
最後の一言だけは、偽らざる本当の想いだ。ユーリはそれに、初めて気がつく。
能力減退を公表し引退を決め、一人の父親として家族の元へ戻る虎徹は、レジェンドと同じ道を進む事はないだろう。いつのまにか、祈りにも似た気持ちをユーリは抱いていた。
交わる事のない『正義』を持つルナティックが登場する度に、虎徹はテレビの向こう側で歯噛みをするかもしれないが、少なくとも、画面の中で虚勢を張り、大衆に欺瞞に満ちた姿を晒すことはないのだ。
……それだけでいい。
「では、私はこれで」
立ち上がって背を向けようとするユーリの腕が、強い力で掴まれた。
「……待って下さい」
背後から低く響く声で呼び止められる。
「管……ペトロフさん」
肩書きでなく名を呼ばれる。ユーリは内心困惑しながら、虎徹の方を向いた。
ベッドの上の虎徹は、これまで見た事もないような真摯な表情で、じっとユーリを見据えていた。
「あなた、今、どんな顔して俺にそういう事言ってたか、わかってますか?」
「……」
返す言葉が思い浮かばない。
そして無言のユーリの腕が、更に強く掴まれる。きりり、と痛みが、走る。
「今にも泣きそうな顔で話してたの、気づいてましたか?」
今度はユーリが呆然とする番だった。
「そんなに苦しい想いだったんですか、それは?」
何処か甘く響く虎徹の声が、ユーリの心の殻に罅を入れようとする。
これ以上、ここにいたら。
「そんなに、想ってくれてたんですか?」
ぐい、と腕を引かれた。はずみで虎徹の上半身に凭れ掛かる形になるのを、受け止められる。
スーツ越しに伝わる虎徹の体温は、その唇よりももっと熱い気がした。
上半身に巻かれた包帯から消毒液の匂いがする。それから微かに、虎徹の肌の匂い。
無理な体勢に怪我を負った左肩が悲鳴を上げた。走る痛みを逃そうと身じろぐと、虎徹の両腕が柔らかく背中に回された。
抱き寄せられている。
「ファイヤーエンブレムで慣れてるから、男性が好きとか、女性が好きとかは別にどうでもいいですけど……そんな顔をさせてるって、ちょっと、しんどいな、って」
「……」
ユーリは逃れようとするが、虎徹の両手がユーリを捕らえるように強く縛めてくる。
何故こんな事をするのか。
拒絶されて気まずい空気を纏ったまま退室をすればいい。
そうなるだろうと、思っていたのに。
「あなたは一体、何から逃げたいんですか?」
虎徹からだ。そう言い放つ時間を、虎徹はユーリに与えてくれなかった。
虎徹をベッドサイドで見下ろしていたユーリの両頬を、掌で挟まれる。
何を、という暇もなく、虎徹の唇がユーリの唇に押し付けられた。
いつか夢で見た時と同じだった。
ただ違うのは、その唇はどこかひやりとしていて。
そして、夢よりももっと優しく、啄むような口づけが施されている事。
温かみが軽く触れ、すぐに離される。
唇の中心に、口角に、そして頬の近くに。
まるで親が子供にするようなキス、だった。
くすぐったさに肩を竦めたくなるような。
「ペトロフさん」
囁くように名を呼ぶ虎徹の声は、柔らかく優しく響く。
「俺を好きになってくれて、ありがとうございます」
それはどんな罵倒の言葉よりも残酷ではっきりとした、虎徹には想いがない事の、証だった。
心の裡に冷えたものを抱えながらも、ユーリは安堵する。
どれだけ恋情を抱いても、それが重なることはないのだから。
ならば、今だけは。
少しずつ、口づけの時間が長くなる。
触れ合う部分が多く、深くなる。
唾液に濡れた唇がちゅ、と音を立てて、とろりと溶けるような感触に変わった。
ユーリは自分から、虎徹の唇の奥へそっと舌を忍ばせる。
虎徹はそれを受け容れ、深く貪る事を赦してくれた。
「んぅ……っ」
今日だけだから。これが、最初で最後だから。
ユーリは自分に言い聞かせながら、深く虎徹を求めた。
ぞくりと背筋を這い登る感覚は、情欲がもたらすもの。
キスだけで。
目も眩むような快楽に溺れそうになるのを、左肩の痛みだけが、辛うじて繋ぎ止めている。
突然、絡み合った舌を虎徹に強く吸われた。
「……っ」
その動きが、あからさまな愛撫に変わる。
舌を、歯列を柔らかくなぞられ、擽られた。息が上がる。身体がら力が抜けそうになるのを必死で堪えていると、そろりと虎徹の唇が離れた。
「ここに……座って下さい、ペトロフさん。……病院の人たちはどうせ、呼ばないと来ねぇし」
半ば押さえられるような形で、ユーリはベッドサイドに腰をかけた。
再び抱き寄せられ、今度はいきなり深く唇を貪られる。
虎徹の身体が熱気を帯びているのが、伝わって来た。
それは虎徹だけではなく。
煽られた衝動は、ユーリの理性を超えて、頭をもたげ始めていた。
<続>
2011.10.6UP。ええと、次で終わります…! ちなみに、1と2に少しずつ修正を入れています。