静かな死

新月の夜、ジャスティス・タワーの周辺ではビル群の明かりが一際眩しく、色素の薄い瞳に突き刺さる。
偽善の女神を照らすのに相応しい、紛い物の煌びやかさだ。
司法局の一員であるユーリ・ペトロフは、冷ややかな一瞥をタワーに与え、正義の女神を模した建物に背を向けた。
歩きながらチェックした携帯の履歴には、母親からの着信が数えきれない程残されている。
また、不安定になっている。……一度入院させてもいいのかもしれない。
時を止めた彼女の中では、ユーリは永遠に、少年のままなのだろう。留守電に入っているのは、おそらくユーリを心配するメッセージだ。今日は遅くなってしまったから。
もしかしたら何処かで正気に返ってくれるかもしれないと淡い期待を抱いていた時期もあったけれども、希望は潰え。
壊れた精神と身体を抱えて過去の世界の住人となってしまった彼女には、美しい記憶しか縋るものがないのだ。
彼女が、夫に執拗に殴られ殺されそうになった事実を忘れて平穏に過ごせるのならば、それでも良いかもしれないと思っていたが。
ユーリは瞳を閉じて、自分の中に僅かに残る甘い希望を断ち切った。
携帯を閉じて、ユーリは足早に家路を急いだ。早く戻らなければ、母が何をしているかわからない。
ふと立ち止まり、ユーリは普段は通らない、ビルとビルの間の裏道に入った。
ゴールドステージ・シュテルンメダイユ地区は基本的には治安が良いところだ。しかし、最近の治安の悪化で、新興のスラムとなりつつある場所が所々に存在する。
選んだ裏道はスラムの近くを通っているが、かなり移動時間を短縮出来るのだ。
古いビルに囲まれた路地は人気もなく、コツコツとユーリが立てる足音だけが響いている。
「いやあぁぁぁ!」
不意に、静寂を破る悲鳴。
進行方向の右手。くすんだ色をしたアパートの、赤く錆びたドアが急に開き、顔を腫らした小さな女性が飛び出してきた。
ユーリは顔を顰め、その女性に駆け寄ろうとする。
「ふざけんなぁ! 待てよおい!」
下卑た濁声と共に開いたドアから、子供用らしい短めのバットが飛び出し、女性の頭に当たって鈍い音を立てる。
血が飛沫くのが見えた。

幻が浮かぶ。
悪夢が、始まる。

「何か文句でもあんのか?!」
出てきた赤ら顔の、でっぷりとした体格のいい男が、頭を抱えてうずくまった女性に掴みかかる。
「止めなさい!」
ユーリは女性の身体を庇いながら、男の前に立ちはだかった。
「あぁ?! 何だお前、別に関係ねぇだろうが! それともこいつとデキてんのか?!」
酒臭い息がユーリまで届く。異常な興奮の仕方だった。もしかしたら麻薬も使っているのかもしれない。
女性がひゅっ、と短い悲鳴にも似た呼気の音を立てるのが、背後から聞こえた。
このままでは彼女が危険だ。おそらく意識を失ったのだろう。……早く病院に搬送しなければ。
しゃがみ込んで女性の様子を伺おうとした時、男は薄汚れた作業着の後ろポケットを探り、何かを取り出した。
青い街灯の光を反射して、鈍くきらめくのは小振りのナイフだ。
「邪魔すんな! 俺の妻をどうしようが、俺の勝手だろうが!」
男は更に興奮した様子で、ユーリの喉元にナイフを突き付ける。
手入れの良くなさそうなそれは、押し当てられたユーリの皮膚に傷をつけることは出来なかった。
「いやあああ! ママ! ママぁ!」
ドアの奥、薄汚れた部屋の中から、唐突にその声は聞こえてきた。
甲高い、子供の悲鳴。
「もうやめてパパ! ママが死んじゃう!」
10歳くらいの、ガリガリに痩せた少女だった。
落ち窪んだ瞳には動揺と、その年齢の少女が抱くには不釣合いな憎しみの色がある。
「ママ……!」
部屋の奥から少女が飛び出してくるが、女性は全く反応しない。
「うるせぇ! お前は口出すな! 向こう行ってろっつっただろうが! お前もお仕置きされてぇのか!」
少女は必死の様子で男にしがみつく。男は少女を、空いた方の太い腕で容赦なく振り払った。
その軽い身体は簡単に飛んでしまう。ドアに叩き付けられる酷い音がして、ずるずると細い身体が沈んだ。
気を失ったのか、その目は固く閉じられてしまう。
ユーリの喉元にナイフを突きつけたまま、男は厚い唇を嘲笑の形に歪めた。
「お前には関係ねぇだろ? ……言っとくが、俺は12の時に、3人やってるからな。これがただのオモチャだと思うなよ?」
「……やってる、とは?」
抑揚のない声で鸚鵡返しに問うユーリを、男はせせら笑った。
「ナイフを心臓の辺りに深く刺してな、ひねって抜いてやると、ドバって血が出るんだよ。……わかるだろ?」
シュテルンビルトの法律では、12歳の少年が殺人を犯しても刑事裁判で裁かれる事はない。
少年矯正施設に最長で5年ほど入れられ、再教育を施されて社会に戻る。
ユーリ自身がよく知っている事だ。
……もっとも自分は、最終的には正当防衛という判断が下され、施設に収容されることもなく。
シュテルンビルト少年局の矯正教育を通所で受けるだけで済んだのだが。
ユーリは冷ややかな視線を男に向けた。
「それがどうしたんだ」
男は鼻白む。
「さっさと消えろ。お前もやるぞ」
ナイフを突きつけられた部分から僅かに痛みが走る。
どろりとした液体が流れ落ちる感覚。
それは忘れようとしても忘れられない、炎の記憶を思い起こさせる。

誰も彼も。
自分だけが正しいと思っている。

男の全身が青い炎に包まれるまで、3秒とかからなかった。
突然の事に自分の状況を理解出来ていないのだろう。男は呆然とユーリを見、そして伝わる熱に絶叫した。
「……醜いな」
ユーリは、もがき苦しむ男が妻と子に近寄らないように、全力で蹴り飛ばした。
青い炎は倒れ込んだ男を容赦なく覆った。人間の身体が焼き尽くされる独特の匂いが、風に乗って一気に広がる。
もう動けないだろう。冷静に判断したユーリは、気を失っている女性と少女をひとまずアパートへ運び込み、軋むベッドの上に寝かせた。
少女は気を失っているだけのようだったが、女性は割れた頭から血を流していて酷い有様だった。
部屋に転がっていた携帯で、救急車を手配する。
おそらく5分程でやってくるだろう。
べっとりと赤い血のついたコートを脱ぎ、持っていた大きなバッグに突っ込む。
アパートの外に出ると、男だったものはもう、黒い塊でしかなかった。
「……自分が殺される気分はどうだ」
返ってきたのはしんとした、重苦しい静寂だった。
ユーリはその場を離れ、家路を急ぐ。
カツカツという自分の足音に、違う誰かの足音が重なった。
『人を殺すことがお前の正義か』
低い、張りのある男の声が、ユーリの背を追いかけてくる。
「うるさい」

ユーリは毎日のように夢を見ていた。
母親を組み敷き蹂躙する、世紀のヒーローと呼ばれる父親の姿。
悲鳴。打ち据えられる無残な音。壊れる食器。血飛沫が床や壁に飛び散って、それを片付けるのはユーリの役目だった。
その状態を破壊したのはユーリ自身の能力。父親を、自分の操る青い炎で焼き殺した。

『お前は、只の人殺しだ』
「……違う!」

青い炎が、母親に拳を振るっていた父親に灯る。それは一気に全身に広がり、暴れながら父親は崩れ落ちた。
酒と不摂生でたるんだ、脂肪だらけの肉が焼ける匂い。
もう、これで、地獄のような日々から開放されるんだ。……ママ。
「タナトスの呼び声を、お前は聞いたか?!」
ユーリはその背を追ってくるものに対して、悲鳴にも似た問いを投げかける。
後ろを振り返ることは出来無い。それが何であるかを、ユーリは痛い程知っているから。
死を司る神、タナトス。ユーリは昔読んだ神話の本に出てきた、どこか不吉な役目を持った神の名を呼ばわる。
伝説とまで言われた者が何故息子に焼き殺されなければならなかったのか。
その嘘で塗り固めた虚像を破壊されるために、お前はタナトスに呼ばれたのだ、と。
ユーリは何度、背後から追う者に言い続けてきただろう。
「これは、私の正義だ。命は命をもってしか、贖えないものだ」
シュテルンビルトに死刑制度は存在しない。ただ終身刑と加算刑のおかげで、重い罪を犯したものはほぼ、刑務所の外に出ることはないのだが。
『ではまず、私を殺したお前が死ぬべきではないのか』
ユーリはその言葉に、躊躇なく答えを返した。
「……私は死刑執行者だ。罪人には死を。私は、お前のように下衆な詐欺師ではない」
足音はそれきり聞こえなくなった。



*


3ヶ月後。その事件は犯人不明のまま、迷宮入りしつつある。
事件の日と同じ、新月の夜だった。ユーリの足は事件現場のアパートへ向かっていた。
焼け焦げた痕跡が微かに地面に残っている。
不意に、きい、と軋んだ音を立てて、アパートのドアが開いた。
「……おじちゃん?」
父親に飛ばされて気を失っていた少女だった。相変わらず痩せてはいるが、3ヶ月前よりもずっとしっかりした目をしている。
「……」
ユーリは無言で踵を返す。
「待って!」
不意に、小さな手に腕を掴まれた。子供のものとは思えない強い力で、指がユーリに食い込む。
「おじちゃんが助けてくれたんでしょう? ママと、わたし」
何も言わずにその手を振り払おうとすると、少女はさらに指に力を入れた。
「わたし、だれにも言わないから! 絶対、誰にも言わないから!」
少女は涙声だった。
ああ、この少女にはわかっているのだ。
父親を殺した者が誰なのか。
「ママ、もう少しで殺されちゃうところだったの。でも、もう退院して、今はずっと元気だよ。
だから、ありがとう。……あんなやつ、死んで当然なんだよ。わたしがやりたかったことを、やってくれた」
震える声で、少女は一気に吐き出した。
ユーリは無言で振り返り、彼女をじっと見つめる。あの時に見せた憎しみの感情はどこにもなく、少女は何もかも悟ったふうに、穏やかに微笑んでいた。
実年齢よりも随分大人びた表情が、ユーリから全ての言葉を奪い去る。
「ここ、ずっと警察の人がうろうろしてるから、二度と来ちゃ、だめだよ」
小さな手がそっと、ユーリから離れてゆく。
「……ありがとう、おじちゃん」
少女は優しい声でそう言い残すと、僅かに空いたドアへと一目散に駆け込んだ。
ママ、と呼ぶ声が、閉めたドアから漏れ聞こえてくる。その甘えるような声は歳相応に可愛らしいけれど。

タナトスはきっと、少女の心の中にも存在する。

ユーリは足早にその場を離れた。
今日は、ユーリを追う足音は聞こえない。ユーリを責め立てる父親の声も。
そして、心に秘めていたある計画が、実行してくれと言わんばかりにユーリを突き動かす。

満月の夜に。
私は私の正義を遂行しよう。
ユーリは静かに瞳を閉じ、深い吐息を零した。
その瞼には、少女の笑顔が焼き付いていた。

2011/7/31up.えーっといい加減欝SS祭りはヤメにしたいんですが、どうしてもユーリの話を一度書きたかったので、頑張って書いてみました。つーか重たくならざるを得ない…。
誰かにユーリを救って欲しかったので、こういう展開にしてみました。
救われたのかっていう話もありますが…。
ユーリがルナティックとして動き出すきっかけのお話捏造です。
シュテルンビルトの少年法がどうなっているかは不明なので、とりあえずアメリカのマサチューセッツ州の少年矯正制度に準じてみた。