「バーナビー」
名を呼ばわるアルバート・マーベリックの声が、こんなに粘ついた冷たい響きを持って耳にまとわりついてくるものだとは、バーナビーはこれまで考えた事もなかった。
バーナビーは思うままに動かない身体を少しでも動かそうともがくけれど、腕に、脚に、全く力が入らない。
悔しさと憤りが涙に形を変えて、瞳からただ流れ落ちてゆく。
虎徹さん。
バーナビーは心の中で、何度も何度もその名を呼んだ。
不意に、携帯のコール音がバーナビーの耳に飛び込んでくる。
それは、虎徹からの着信だった。
*
ジェイクとのセブンマッチに決着がついた後、バーナビーに待っていたのはインタビューの嵐だった。
シュテルンビルトを救った英雄、という称賛の声があちこちから投げかけられる。
しかし、たった一人の力でそれは成し遂げられたものではなくて。
バーナビーに最大のチャンスを与えてくれた虎徹は、先日ようやく退院して、今は自宅で療養中だった。思った以上に、怪我のダメージは大きかったのだ。
スケジュールは分刻みで、虎徹の所ばかりかジャスティスタワーへも顔を出すことがままならぬ状態に、バーナビーは次第に苛立ちを感じ始めていた。
その日も、朝から雑誌の取材だった。ずっと車に押し込められて移動に飽きてしまい、ロイズから「目立って良くないから送っていく」と言われたのを固辞して、バーナビーのマンションから程近いスタジオへ歩いて向かう。
チラチラと通りがかる人から見られているのがわかったが、バーナビーは気にせずにいた。
ずっと車の窓から外を眺めているよりは余程良い。
スタジオまでは歩いて10分程の距離だったが、到着する頃には温かくなっていて、トレーニングすらままならなかった身体が解れるようだった。
少し古いビルの1階に、そのスタジオはあった。壁には場違いなくらいポップな模様が描かれていて、周囲の建物からは浮いている。
シンプルなデザインの看板がある。その隣の大きな重いドアを開けた。
スタジオの隅っこで、ほんの少しだけ面差しのやつれた虎徹が、いつもと変わらない姿……ハンチング帽にアイパッチ、ネクタイ、ベスト、スキニーパンツ……と態度で椅子にふんぞり返っていた。
「……虎徹さん!」
「よっ」
目を丸くしたバーナビーと、虎徹の視線があった。
その瞬間、まるでやんちゃな子供のような笑みを浮かべて、虎徹が片手を上げる。
「久しぶりだな、バニー。テレビ見てたぞ。大人気だなぁお前」
バーナビーは思わず駆け出しそうになるのを堪えながら、虎徹の方へ向かった。
虎徹の笑みが深くなって、目尻に皺が寄った。顔色が少し白くなっているような気がする。気のせいだろうか。
笑いながら、バーナビーの言葉を促すように首を傾げる。
一瞬何を言えばいいのかわからなくなってしまった。バーナビーは大きな深呼吸をして、自分の心を落ち着かせる。
色々と言いたかった、聞きたかった事がある筈なのに、頭の中に何も浮かばない。
辛うじて出てきたのは、自分でも驚く程陳腐な言葉だった。
「……怪我は、もう?」
虎徹はバーナビーのその言葉に、ニヤリとしてみせる。
「大丈夫だから出てきたに決まってんだろ〜? 今日は一緒に撮影なんだとよ」
「一緒に?」
「相棒ワイルドタイガーが、シュテルンビルトの英雄バーナビーを語る、だとさ」
以前同じような取材があった。その時はあからさまに嫌そうな顔をしていた虎徹が、今日はどこかご機嫌な感じがするのは気のせいだろうか。
「こういう仕事は、好きじゃないんじゃないですか?」
バーナビーは、自分の頬に自然に笑みが浮かぶのがわかった。なぜか酷く安心する。
「好きじゃあねぇけど、家でゴロゴロしてるのも飽きたしな。ホント、つまんなかったんだぜ?」
うんざり顔で唇を尖らす虎徹の表情がおかしくて、つい吹き出してしまった。
「なんだよ、笑い事じゃなかったんだぞぉ?」
虎徹が憮然とした表情を浮かべた所で、カメラマンから声がかかった。
「バーナビーさん、ワイルドタイガーさん。今から準備して頂いて、撮影に入ります。お願いしまーす!」
「じゃ、行きましょうか」
「へいへい」
虎徹はちょっとだけめんどくさそうに答えて立ち上がった。
ああ、還ってきたんだ。
そう思うと、優しい気持ちで心が満たされるのはどうしてだろうか。
ささくれだっていた心が落ち着くのは。
普段の格好で、自然体で、と言われながらの撮影だった。
服装もいつものまま、スタジオにセットされていたテーブルと椅子に向い合って座る。
「何か会話してみて下さい。しばらくそれを撮っていきますね」
カメラマンの言葉に虎徹が茶々を入れた。
「会話っつってもなー」
テーブルの上には上品なカップに注がれたコーヒーが2つ置いてある。虎徹はそれを無造作に手にとって、一口すする。
バーナビーは聞きたかった事を一つ、思い出した。
「……結局、ずっと自宅療養だったんですか?」
虎徹はつまらなさそうな表情で大げさに頷いた。
「ああ、実家に帰って来ようかとも思ったんだけどさ、娘に怪我してる所見られるのもちょっとなぁ、と思ってな」
「娘さんには、ヒーローの事は」
「言ってない。心配かけたくねぇしな。しかもあいつ、お前のファンだとか抜かし……あ、いや」
口ごもる虎徹に、バーナビーは思わず笑みを零す。
その間も、撮影は続いていた。しかしバーナビーは、普段のように構えたポーズを取る気にはならなかった。
「それは、ありがとうございます」
不意に、虎徹が表情を引き締めた。
「お前とコンビ組みたての頃、スケート場でお前が助けた女の子がいたろ。あれがうちの娘。楓ってんだ。……お前は命の恩人だ。遅くなったけど、ありがとうな」
「……そうだったんですか」
何という事もない、普通の会話が、進んでゆく。
それが自分に、こんなに穏やかな感情をもたらすなんて知らなかった。
バーナビーの唇に笑みが浮かぶ。
虎徹は相好を崩して、からかうような口調になった。
「お前、最初はぜんっぜん笑わなかったのになぁ。……いい笑顔になったな」
「え?」
カメラマンの声や撮影の音は確かにするのだけれど、真っ先に耳に飛び込んでくるのは虎徹の落ち着いた声だ。
「なーんか、野生の兎を懐かせた気分、っての?」
冗談とも本音ともつかない事をいうのは相変わらずだ。
「その、兎っていうのやめて下さいよ」
精一杯冷たい目で睨みつけてみたが、虎徹には通じなかったようだ。バニーちゃん、バニーちゃんとからかうように何度も呼ぶ。
「撮影終了です! ありがとうございました! 15分休憩後にインタビューに入りますので」
同行していたブルネットの髪の女性編集者が、カメラマンと一緒に二人の傍にやってきた。
「お二人とも、すごく良い表情でしたよ! 特にバーナビーさん!」
興奮した声と共に見せられた写真では、バーナビーが一瞬自分だとわからない位柔らかい笑みを浮かべて、虎徹のいる方向をじっと見つめていた。
「ほら、いい笑顔してんだろ!」
席を立ってバーナビーの隣に移動し、一緒に写真を覗き見た虎徹が、からかうようにバーナビーの頬をつつく。
次の写真は、虎徹と二人で向き合って笑っているものだった。
虎徹の冗談に思わず笑ってしまった瞬間のものだ。
天真爛漫な笑顔の虎徹と、うっかり吹き出してしまい、声を出して笑ってしまったバーナビーの姿がそこにはあった。
「お、これ、何か良くねぇか?」
「すごく良い雰囲気ですね! お二人は普段から仲良くしてらっしゃるんですか?」
編集者が裏返りそうな勢いの声でバーナビーに問うた。
虎徹がバーナビーの代わりに、
「ええ仲良しですよ〜」
と、どこか自慢気な口調で答える。
「……虎徹さん」
苦笑しながらも、バーナビーはどこか照れくさい気分になった。
「あ、そーだ、この写真、いくつかもらっていいですか? ……バニー、携帯貸せよ」
「どうして僕のを」
虎徹の意図がわからずにちょっと刺のある声で問うと、虎徹はふくれっ面でぶつぶつ言い始めた。
「だって、お前の携帯から俺のに転送すればいいだろ〜、せっかくいい写真なんだしさ〜、どうせだったら一緒に持っててもいいじゃねぇかよ〜」
「……わかりました。壊さないで下さいよ?」
バーナビーが折れて、ポケットの中に入れていた携帯を渡す。虎徹はカメラから写真のデータを転送してもらうと、勝手に携帯を開けて何かを入力し始めた。
「勝手に何をしてるんですか」
「いや、俺のスマホの番号とメールアドレスの登録してるかなーと思って」
慌てて虎徹の手の中の携帯を取り上げようとするが、虎徹は手放してくれない。
「あ、ワイルドタイガーで登録してんだな。登録名をKOTETSUに変更して……と」
「子供の悪戯じゃないんですから!」
虎徹はバーナビーの言葉を無視してカチャカチャと携帯をいじっている。
「よし出来たっと。どうだよ」
バーナビーが見せられたのは、虎徹の電話着信の時の写真を、二人で向かい合っているものに設定された携帯だった。
「いやー、流石に待受にするのは、と思ってな」
「……意味がわかりません!」
二人のやり取りを見ていた編集者が苦笑する。
「本当に仲がよろしいんですねぇ」
「それは多分気のせいです!」
バーナビーは慌てて否定した。やっぱりこの人は変わらない。子供がそのまま大人になってしまった人だ。
「いやー、本当に仲がいいですよ〜」
虎徹が彼女に向かって営業用スマイルを浮かべた。
今思い起こしてみれば、とても幸せな、幸せな日々。
*
バーナビーの身体はもう指の筋一つ動かない。
そして、後悔だけが重く心にのしかかる。
あの時、あんな酷い言葉を投げかけなければ良かった。
僕が逃げ出さなければ良かった。
落ち着いて聞けば。責めずにただ問うてみれば。
あの人が理由もなく、誤魔化し切れない下手な嘘をつくはずがないのに。
着信音は無情に鳴り響く。携帯を開いたら、向かい合って笑っている二人の写真が表示されているのだろう。
もう二度と訪れないかもしれない日々。
目が覚めたら、僕はもう僕ではなくなっているかもしれない。
バーナビーは涙が床に落ちる音を聞いた。止めどなく溢れるそれを、虎徹さんは精一杯受け止めてくれていたのに。
マーベリックの掌に、能力が凝縮されてゆくのが見えた。
植えつけられた偽物の記憶で、復讐ごっこをしてきた。ピエロめいた、嘘で塗り固められた人生の中で、あなたとコンビを組んでやってきたこの1年に築いた沢山の思い出や経験だけが、確かな、紛いものではない、僕にとっての揺らがない真実だったんです。
バーナビーは瞳を閉じる事も出来ず、ただ慄えた。
マーベリックがどのような記憶を上書きするのかはわからない。
しかし、バーナビーは虎徹と共にクリームの元へ向かった事をマーベリックに教えてしまった。
もしかしたら、虎徹の事を憎みたくなるような記憶なのかもしれない。
虎徹さん。
バーナビーは思うままに動かない唇を震わせようとする。
次にあなたと顔を合わせる僕は、本当の僕じゃない。
どうかその事に、気がついて下さい。
お願いします。どうか。
バーナビーの祈りは、マーベリックの黒い掌に吸い込まれてゆく。
「おやすみ、バーナビー」
バーナビーの視界が、黒く閉ざされた。
19話ネタバレ。あまりにしんどくて、ちょっとだけバニーに幸せになって欲しかったんです。
でも書いてみたら自分もしんどかった…。