空に咲く薔薇

「彼女にお礼を言いに行くんだ」
そう言い残してスカイハイがトレーニングセンターを出てから、ネイサン・シーモアは1週間ほど彼と顔を合わせる機会がなかった。
ヘリオス・エナジーのオーナーとしての仕事が忙しく、なかなかヒーローとしてジャスティス・タワーに顔を出す暇がなかったせいもあるのだけれど。
このところスランプ気味だったスカイハイ……キース・グッドマンは、ある女性との出会いを契機に自信を取り戻し、謎のアンドロイドを撃破した。
以後、キースは不調を吹き飛ばす、とても良い活躍ぶりを見せていたのだ。最近色々と事件が続いたが、キースは真っ先に現場に駆け付け、的確な判断を下して確実に犯人を逮捕する。
2位に転落したとは言え、元キングオブヒーローの名に相応しい活躍だった。正直惚れ直したわ、とネイサンは思う。
あまりの活躍ぶりに、たまに出動するトレーニングセンターでもずっとすれ違いばかりだった。
キースはもともと驕りや自惚れといった言葉とは全く縁のないストイックな性格をしているけれど、心の支えになる存在を得て、ヒーローとしてさらに活躍すること、高潔な存在であることを、彼は選んだのだと。ネイサンはそう思っていた。
もともと「キングオブヒーロー」という存在である事に拘るあまり、キースにはどこかアンバランスな部分があったように、ネイサンには思えてならなかったのだ。
周囲からは天然と言われていたけれども、奇妙にズレた考え方に時々苛々したりもした。
でも。彼女との恋が叶えば、きっとまたキースは成長出来る。
それにしても、あの堅物のスカイハイが恋するなんて、一体どんなお相手なのかしら。
お礼はちゃんと出来たのかしら? もしかして、お付き合いまで発展したりとか……。
結果を直接聞いてみたかったものの、ネイサン自身も仕事に追われて余裕がなく、カリーナやパオリンからも続報は聞けなかったのだ。
今日も業務で朝から晩までずっと詰めていたヘリオスエナジーのオーナールームは、360度ガラス張りになっていて、まるで星空に囲まれているような気分になる。
ずっと仕事で部屋に篭っていると気が滅入ってくるから、ということで改装をした部屋だ。
不意に、視界の隅に白いローブが翻る。
「あら……?」
秋から冬に向かおうとするシュテルンビルトの街の上空を、流星のように通り過ぎてゆくスカイハイ。
空を舞う風の魔術師の姿は、シュテルンビルトの市民に愛され、街を守るヒーローの理想的な姿として語られてきたものだった。
しかし、奇妙な違和感。……普段と何処かが違う。
良く見ると、腕に何か大きなものを、大切に包み込むようにして抱いていた。
それは、綺麗にラッピングされたいくつもの花束のようだった。
「どういうこと?」
ネイサンは腕につけたPDAから、海の方面へ消えていこうとするキースを呼び出してみた。
視界の隅に小さく映る彼の姿がぴたりと動きを止め、PDAのコールに応じる。
「スカイハイ、見回り中にお邪魔してごめんなさいね。……腕に抱えてるものは、一体なぁに?」
一瞬の沈黙。
そして小さなスカイハイが、項垂れる姿が見えた。
『彼女に渡そうと思っていた花束なんだ。色々と協力してもらったのに、すまない、そして、すまない……』
スカイハイの声にはいつもの力強さがない。その姿はさらに一回り小さくなってしまったようだった。



*



ヘリオス・エナジーの最上階、ヘリポートの近くに、ふわりと白銀のヒーローが舞い降りる。
その腕にはいくつもの薔薇の花束が抱えられていた。
赤と白。絶妙のバランスで束ねられていた薔薇は、萎れかけていたものもあれば、咲き誇って瑞々しく芳香を放つものもある。
「絵になる姿ねぇ、スカイハイに薔薇なんて。ファンの女の子たちが黄色い悲鳴を上げそうだわ」
冗談めかしながらも、労るような笑顔と声音で、ネイサンはキースに声をかけた。
花束が受け取られなかった以上、きっとキースの恋は実ってはいない。
ただ、一人で恋を葬ってしまおうとすると、余計に傷を長引かせることになりかねないから。
キースが事の顛末を話してくれるように、ネイサンは無言で微笑んでみる。ついでに、屋上のフェンスの傍に設置してあるベンチにキースを誘導した。
木で出来たベンチを見たキースは、軽く溜息をついてベンチの左側に座り、花束を脇に置いてマスクを外した。
ネイサンは花束の隣に座り、色鮮やかなそれに視線を落とす。
秋の夜はほんの少し肌寒いけれど、耐えられない程ではない。柔らかな沈黙が二人の間に落ちた。
澄んだ空に、ほの白い光を放つ月が浮かんでいる。欠けゆく月は、キースの失恋をともに悲しむように、少しだけ切ない色をして二人を照らす。
「……あの日、花束を持って公園に行ったのだけれど、彼女はベンチにはいなかったんだ」
溜息混じりの小さな声で、キースは語り始めた。静かに耳を傾ける。
「ずっと待っていたんだけれど、彼女は来ないままで」
キースは花束を一つ手に持ち、それをじっと見つめた。
風に乗って甘やかな薔薇の香りが漂う。……キースの心を、この芳香は少しでも癒せているのだろうか。ネイサンはふと、そんな事を思った。
「それから毎日、新しい花束を買っては、空いている時間にベンチに行ってみたんだ。……丁度こんな感じのベンチで、彼女はそちら側にいつも座っていて。黙って私の話を聞いてくれて、受け容れてくれた。それまでずっと、昼も夜も、そのベンチに座っていたのに」
ふわりと、キースの表情が和らいだ。今はここにいない、彼の大切な愛おしい人が、キースの脳裏にはきっと映っている。
「私に大切なことを教えてくれた。……私が立ち直れたのは、彼女がいてくれたから。……だから」
キースは目を閉じ、その空色の瞳を隠す。
「せめてお礼だけでも、言いたかった。言いたかったんだ、とても。私は何一つ、彼女に伝えることが、出来ていないから」
きっと彼は触れることすら出来はしなかったのだろう。甘い言葉の一つもかけられなかったのかもしれない。
……誰からも愛される筈なのに、愛することを知らない、何処か大切なものが欠けた存在。
だからこそ、キースは「キングオブヒーロー」の称号を得たのだろうけれど。
「この薔薇みたいに、白と赤のとても似合う……可愛らしい女性、だったんだ」
涙を流す訳でもない。キースはきっと彼女に向けていたであろう、慈しみに満ちた柔らかな笑顔を浮かべて、ネイサンをじっと見つめた。
ネイサンにとっては、キースの抱くそれは遠い10代の思い出に沈むような感情でしかないけれど、キースにとっては今まさに抱いている生々しい傷で。
……どうしてだろう、と思う。
歳相応の恋愛をしてきた経験がないのだろう。何もかも、望めば手に入れられる地位にありながら、彼の望むものはいつも他人の幸せだ。自らの幸福を望めば、いくらでも叶うだろうに。
「……あなたを幸せにしてくれる人が、現れるといいわね、スカイハイ」
ネイサンの言葉に、驚いた、という風情でキースは目を丸くする。
「何を言っているんだい? 現れてくれたよ、私の前に。彼女は私を、とても幸せにしてくれた」
次にキースに告げるべき言葉を、ネイサンは心の中に持っていなかった。
言葉の代わりに、ネイサンの瞳からは涙が溢れ始める。
堰を切ったように、ぼろぼろと落ちる雫を止められない。
それはネイサンの褐色の頬を幾重にも濡らして、膝の上に落ちてゆく。
「……私は何か、悲しませる事を言ってしまったのだろうか?」
戸惑い、心配するキースを心配させたくはなかったが、涙は流れ続けるばかりで。
「いいえ……、あなたの気持ちがあまりにも真摯で、その女の子のわからず屋加減が悔しくて、悲しかっただけよ。気にしないでね」
欠けた心を『市民の幸せ』で埋めるために、キースはヒーローであり続けているのかもしれない。
その欠落が、ただ、鋭い鈍い痛みの波をネイサンの心にもたらす。
涙を流すことも出来ない、優しいヒーローのために、ネイサンはただ泣き続けた。
キースが、ただ笑顔で彼女を振り返る行為が、心にとっては深い傷でしかない事に気が付きませんように。
願わくば、彼を幸せにしてくれる誰かと出会った後に、遠い昔の思い出として、この経験を痛みとして受け入れられるようになって欲しい。……どうか。
ネイサンは心から、キースの為に祈った。……祈ることしか出来なかった。
やがて、頬を流れた涙は止まり、少しずつ乾きはじめた。ネイサンはハンカチで涙の跡を拭い、改めてキースに問うた。
「……ごめんなさいねスカイハイ、心配させてしまったわ。ところで、その薔薇の花束、どうするつもりだったの?」
キースは空色の瞳を薔薇の花束に向けた。
「海に流そうと思っていたんだ。……これは他の誰にも、渡したくないものだから」
まるで弔いの花のようだ。
ふとよぎるのは何処か不吉な考えだった。何を弔うの? ……キースの気持ち?
「彼女のことは、諦めてしまうの?」
ネイサンには答えは想像出来たけれども、念の為にキースに問うてみる。
「……空いた時間に、また行ってみようとは思っているのだけれど。傷んだ花束を彼女には渡したくないから」
……ああ、やっぱり。
ネイサンの瞳に再び涙が浮かびそうになって、慌ててハンカチで押さえる。
キースはきっと、ずっと同じベンチで、彼女が再び姿を見せてくれるのを待つのだろう。
ネイサンは、キースの想いの深さを垣間見たような気がした。
しかし、彼女はもう二度と現れないだろう。
殆ど確信に近い予感だった。
きっと彼の恋は叶わない。何故かはわからないけれど、強くそう思う。
だからこそ。
ネイサンは強く願う。
どうかこの一途な想いを受け止めて、彼に幸せを与えられる人物が現れますように。
それが男でも女でも、子供でも年寄りでも誰でもいいから。
零れそうになる涙を必死で堪えて、ネイサンはキースに一つのアイデアを投げかけてみた。
「だったらここから、薔薇を風に乗せて海まで飛ばしてしまえばいいのよ」
「え?」
空に浮かぶ月へ飛ぶように。
キースへの失われつつある恋への手向けとして。
「あなたなら風を操ってここから海まで飛ばす事が出来るでしょう? どうせ海に流すのなら、アタシが見届けてあげるわ」
彼の恋物語に関わったものとして、見届けなければ。
強い義務感に駆られてネイサンはキースに告げた。
キースの心の欠落を実感出来ないだろう、カリーナとパオリンには、出来れば直接見せたくはないのだ。この恋の顛末を。
二人の代わりに、アタシが全て見届けるから。
……あなたたちは後でキースから話を聞いて、恋について色々な事を考えればいい。
この生々しい欠落は、アタシだけが、知っていればいいから。
貴女達がもっと大人になって、恋をして、沢山の人々との出会いと別れを経験して欲しい。
その時にはきっと、キースの心に欠けたものを実感出来るようになるだろうから。
一緒にお酒でも飲みながら、改めてこの恋の話をしましょう、ね。
心の中で、ネイサンはおそらく恋の行く末をを知りたがっているであろう少女達に語りかけた。
キースは何処か懐かしむような表情を浮かべて、じっと花束を見つめている。
不意に、屋上を疾る風が何枚か花弁をもぎ取り、空に舞い上がらせた。
赤と白の鮮やかな花びらが、月の光を浴びて輝いた。やがてそれは、風に乗って何処かへ飛んでゆく。
キースとネイサンはそれを目で追った。
二人の間にしんと静寂が落ちる。
キースはじっと自身の思考に落ちているようだったが、不意に瞳を閉じて、脇に置いてあった花束を抱き上げた。
「……話を聞いてくれてありがとう、そしてありがとう。周囲に散ってしまわないように、気をつけなければ」
生真面目なキースの物言いに、ネイサンは思わずくすりと笑ってしまう。
「辛い時はいつでもアタシのお店にいらっしゃい? いくらでも話を聞いてあげるわ」
キースは穏やかな笑みをネイサンに向けた。
「そうさせてもらう」
笑みを浮かべながら、キースは瞳を閉じる。彼の周りで風が渦を巻いた。
束の部分を強く抱き、花束に風を集中させる。花弁が次第に風に千切られてゆき、渦を巻いた風に乗った。
赤くて白い竜巻は、薔薇の強い香りを二人に振りまく。
まるで夢でも見ているような光景だった。白々とした月の光に浮かび上がる花弁が少しずつ二人から遠ざかってゆく。
「綺麗だわ……」
キースの儚い恋の顛末に相応しい光景だ、とネイサンは思う。
幻のように浮かぶ花弁。
それを夢と言ってしまうには、キースの表情に刻まれた陰影は深いけれども。
「沖の方まで」
赤と白。
大量の花弁が、海の方向へと一斉に舞い始める。
一つも下に落ちることなく、まるで渡り鳥の群れのように夜空を翔けるその姿はまさに夢幻の世界の中にいるようで。
やがてその群れは少しずつ視界から消えてゆく。
キースの手元には、恋の残骸のように、刺を失った蔓と包装紙、そして甘く優しい芳香だけが残った。
「ありがとう、……」
最後まで言わず、キースは星空を仰ぎ見る。金色の髪が風に揺れた。
ネイサンは目を閉じ、両手を組んだ。失われた恋への手向けとして。
二人の足元には、赤と白の花弁が1枚ずつ、名残を惜しむように残された。

2011.7.18アップ。ゴネクに行けなかった記念(血涙)
キースの話の聞き手を誰にしようか考えたのですが、本編の流れ的にネイサンしか思い浮かびませんでした。
最近スカイ廃化進行中な自分が怖いです…。